在ると信じなければ見えない、しかしないものは決して見えない

 見ようとしなければ観察できない。ものが眼に映じているということは観察ではない。すべての観察は観察対象にたいする観察者の「関心」に発している。しかしまさに一定の「関心」に発しているゆえに、観察の「客観性」は両義的となる。「関心」があるからこそ、単なる路傍の人よりもものがよく見えると同時に、「関心」によってその認識は一面的となる。あばたもえくぼに映る。一面的というのは、あらゆる観察が一定の角度からの照明であるという意味で一面的であえるだけでなく、「関心」によって像が一定の方向に偏差ができるという意味でも一面的である。いわゆる認識と価値判断との問題は、こういうヨリ大きな問題の特定の側面にすぎない。丸山眞男                 
 僕の高校の「生物」は理学博士の教頭が受け持った。最初の時間、ずらっと並んだ顕微鏡を前に彼は「在ると信じなければ見えない、しかしないものは決して見えない」と僕らのの好奇心を掴んだ。タマネギの皮を剥いで観察用のプレパラート作りから始まった。1時間の授業が終わった時、僕たちは認識とは何かについて考える事にすっかり魅了され、しばらくは休み時間も通学電車の中でも熱く議論した。冥王星の発見は、数学的計算による存在の確信が先行してのだと言うことも知った。ここで計算とは思考の手がかりであることも知った。僕らの関心の拡がりは、自然科学を超えて歴史にまで及んだ。おかげで、シュリーマンの『古代への情熱』が生協売店に大量に並んだ。他の教師も少年の僕らに多方面から問いかけ、生徒同士の雑多な対話を促した。だから高校一年の一学期は、知的な花園を逍遙しその香りと色彩に目眩がしそうだった。
 しかし、受験戦争は容赦しなかった。高校では毎学期、中間・期末の他に大学入試に準じた特別考査があった。少しでも何かに熱中すると、直ぐに考査が割り込んで来る。その度に僕は溜息をつき苛ついた。考査さえなければ、学校さえなければ、どんなに落ち着いて勉強できたことかと今も思う。

 我々の教室の少年たちの能力も、あると信じなければ見えない。おそらく百のうち一つでさえ我々は見いだせずにいるのだ。それどころか、既に生徒の中に存在していた能力を破壊することさえ「指導」の名の下に行われる。例えば 当blog 「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという選択  ←クリック
   「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と憲法で定めている。裁判官が、良心に違反してはならないように、教師は生徒の「可能性を信じて職務を行う」義務がある筈だと思う。生活態度が怪しからん、考え方が捻くれているからと言う理由で評価を下げるのは、この義務に叛いないか。
 
 学校の現実は、顕微鏡下の世界にしろ天体望遠鏡の世界にしろ対象の「無い」事を前提に、与える事の手軽さに弛緩している。教師は「正解」を与え、生徒はそれを写し記憶する。ここには、在る筈のものを探す緊張した時間や新しい世界を覗いた興奮によるざわめきも、見えたと思うものを級友や教師に表現するもどかしさもない。 

トスカニーニとアジェンデ 2 コスタリカの常備軍廃止は「奇跡」ではない

 クーデターは、支配の正当性も正統性も持たない。それ故剥き出しの暴力行使に先だって、自らに恰も支配の正当性があるかのように虚像を作り上げなければならない。「デマ」はその手段となる。アジェンデ大統領の場合は、強い信念や指導性を「独裁」と攻撃することで、恰も大統領に支配の正当性がなくなったかのように仕組んだのである。
 
 政治的デマは、その政治の及ぶ範囲=規模が小さいほど、人間関係が近いほど広がらない。関係する人間の規模と拡がりか小さければ、デマが生まれれば人は直接そこに出かけ、人に会い確かめることが出来るのである。しかし人も拡がりも大きくなれば、メディアが優位になる。メディアは資本を要する。既得権や権力と結びやすい。むしろデマを領したり煽ったりしかねない。
 
  社会構造は、集団の規模に左右される。  当blog「共同体の小ささと代替不可能な個人の尊厳」←クリック
で書いたように、「社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従つて人間のあり方を変える。・・・小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」と呼ばれた絶滅療養所で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」(ハンセン病療養所の人たちは、療養所の外を「社会」と呼んでいた。)では、企業も自治体も学校さえも合併し規模の大きさを誇り、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである」
 コスタリカが突如常備軍撤廃に踏み切ることが出来たのは、その国家規模と無関係ではない。 1948年コスタリカの人口は、95万人弱。政治家と市民が近いから相互の信頼関係も深くなる。デマや扇動者の素顔を見破るのも容易い。
   ホセ・フィゲーレスが「兵士の数ほど教師を」をスローガンに、軍事予算ゼロに。国家予算の3割を教育に費やし無償化、医療費も無料とし、福祉国家へと向うことが出来たのも、人口規模が小さくフィゲーレスと国民の間が対話可能な関係であったからである。
 又小さな国家は、軍隊を通して超大国に従属してしまう。独立を維持するためにも軍隊は障害でしかない。その点でコスタリカの常備軍廃止は奇跡ではなく、紛争多発地域に於ける歴史的決意と言うべきだと思う。つまりフィゲーレスの提起は、極めて現実的なものであった。奇跡という言葉には、人間の意図的な営みを超えた神や偶然を思わせるものがある。

 国家規模が小さければ、国内を巡回して政策の説明に十分な時間を掛けられると共に、地域の特性に応じる余裕も生まれる。国家規模の規模と共に、自治体の規模も重要な要素になる。
 通勤時間が20分以内であれば、緊急に集まるのも容易く、巨大メディアによる世論操作に対抗できる。アジェンデの時でさえ、チリの人口は1000万人を超えていた。彼のようにチリの隅々まで歩き人々と語り悩みや悲しみを共有してもなお、クーデターの付け入る隙を与えてしまう。
 チリの首都サンチャゴの人口は市街地だけで500 万人を突破している。人口規模は、国家や都市の民主主義のあり方に、根本的影響をもたらすのである。

 大宮や平塚のベッドタウンから東京の大学や企業に通う若者は、神奈川にも平塚にも自らの意識をアイデンティファイ出来ない。故郷の小さな町にも、何処にも根を生やせない。 その挙げ句、ゲゼルシャフトをゲマインシャフトと見誤って、会社に根を下ろそうと空しい努力をしてリストラされ過労死しするのだ。民主主義は地域なしには始まらない。少なくとも住み労働する場所が同一でなければならない。住む立場と働く立場双方から行政を見て考えることで、初めて政策の判断が出来る。それがバラバラだから、小さな子どもを持つ母親と、年老いた老人と、学ぶ若者の要求が統一出来ず互いに調整が出来ない。その調整ための地域的人間関係も、時間もないのである。調整できない利害の対立に乗じて姿を現すのが、独裁的手法である。かつて革新都政が「一人でも反対があれば橋は架けない」と言ったことに苛立った人が出始める。特に既得権を維持し拡大しようとする者に取っては、独裁的手法は待ち望まれたのだ。反対に人権や権利という言葉や概念が疎まれてしまった。
 
 革新首長の目覚ましい活躍が続いた自治体に、「独裁」的手法を歓迎する傾向がこうして広がった。自らが主権者として、諸要求の調整者となる事は放棄して、高飛車に役人を叱りつける首長を歓迎してしまう。首長の政策に齟齬や矛盾が含まれて前進しない時、彼らは「抵抗勢力」を発明した。教員組合や自治体職員組合が分かりやすくいじめやすい標的にされるのである。しかしその手法が、人気を呼んだのである。そこを考えねばならない。
  知事や市長は間違っていると批判しても、逆に彼らの支持を広げてしまう有様。
森田草平がこう書いている。 
「共産党の中野重治君は、安倍(能成)が軍事補償金の打切りに努力しないとか、供出米強制に賛成したとか云って喫みついてゐられるが、それまで彼に望むのは無理だ。私は中野君の弾劾文を見てから、急に安倍君を褒める気になったものである」            森田草平「私の知る安倍文相」 
   哲学者安倍能成は幣原内閣で文部大臣を務め、学制改革や旧教育基本法制定に尽力、『世界』初代編集長や平和問題談話会の発起人も務めている。

 国政も「独裁」手法を「抵抗勢力」打破の切り札として隠さなくなっている。メディアへの恫喝的支配を通して、それがかえって支持率を広げることもある。権力が、自信たっぷりに歴史修正発言すれば歓迎する勢力が力を増し更に支持率を高めてしまう。中野重治の安倍能成は間違いではない、しかし支持を失い、敵を増やしてしまう。

   これは、選挙で多数を捕って解決できる問題ではない。なぜなら、政治は選挙のたびに入れ替わる多数者による総取りの繰り返しではないからである。 大阪の子ども議会で中学生が要求を出したところ、橋下市長は「あなたが市長になったらやってください」と「答弁」して子どもたちの怒りを刺激したことがあった。公選制首長としては乱暴な発言だが、日本の選挙制民主主義の状況を象徴していると共に日本の「子ども観」を見せつけていて興味深い。           更に続く

追記 中野重治が森田草平から批判された頃、彼は妻からも旅先で手紙を受け取っている。  
・・・問題それ自身はいうべきことはないのですが、問題の取上げ万、書かれ方に私も反感を持ちます。毒舌に満ち満ちたもので決して人を説得するものではないと思います。最近書かれるものがほとんどといっていいほどこの調子だと思います。詩も書かない、小説も発表しない中野重治であっていいはずはないと思います」 
 妻とは女優の原泉である。胆の座った人である。特高に虐殺された小林多喜二の通夜の写真枕元に座っている若い女性である。こんな集まりにさえ特高は踏み込んで検束する可能性があった。共謀罪はこういう光景を再現しかねないのである。


トスカニーニとアジェンデ

 トスカニーニは1929年、ムッソリーニがミラノのスカラ座に介入する気配を見せると、スカラ座総監督を辞任。31年には「ファシスト政権が続く限り、イタリアでは指揮しない」と決意。38年にオーストリアがナチス・ドイツとの併合を知ると、ザルツブルク音楽祭での指揮をキャンセル。ファシストやナチスの迫害を受けた音楽家をルツェルンに集め、湖畔のワーグナー邸前でガラ・コンサートを開いた。後のルツェルン音楽祭である。ファシズムに抵抗し続けた指揮者トスカニーニを象徴する演奏が大戦末期の「諸国民の讃歌」だと思う。

 大戦の勝利を祝う1943から44年にかけてのこの演奏では、英仏米の国歌のほかに、トスカニーニの祖国イタリア国歌も、歌詞のうち「伝統の祖国」が「裏切られし祖国」と直されて加えられている。更に当時ソ連の国歌であった「インターナショナル」までを併せて、見事に編曲している。恰も連続した一つの音楽であるかのようである。(私のfacebook、今日の投稿に映像付きの演奏がリンクしてある。)
 ベトナム反戦活動に関わった人には、様々な感慨が胸に浮かぶ筈である。

 トスカニーニの登場により、指揮者の地位、オペラの上演スタイル、オーケストラの演奏表現の在り方は大きく変わった。単に指揮棒を振るだけではなく、音楽監督ないし芸術監督として采配を揮い、オーケストラの人事やオペラハウスの構造にも積極的に口を出した。そして演奏面では主情や主義を排し、作曲家の意を汲んだ客観的な演奏表現を心がけ、そのために過酷とも言えるリハーサルを行った。トスカニーニは妥協を知らない音楽家であった 。そのため現場はしばしば修羅場と化した。怒鳴り散らすだけでなく、物を投げたり、譜面台を壊したり、指揮棒を折ったりすることもあった。それでも最終的にはオーケストラはトスカニーニに従い、彼に指揮されることを望んだ。
 極度の近視のため、合奏曲約250曲の全パート、オペラ約100曲の譜面と歌詞、更に多くの小品を完璧に覚えて暗譜でオペラを指揮した。


  アジェンデも、決してファシストに妥協しなかった。それはピノチェトによる軍事クーデター当日1973年9月11日、戦闘機や戦車による攻撃と闘いながら官邸から放送された彼の最後の演説に現れていて、世界中の民主主義者の胸を未だに熱くする。
 「 私にとってこれが皆様にご挨拶する最後の機会になるでしょう。空軍がラジオ・ポルタレスとラジオ・コルポラシオンのタワーを爆撃しました。・・・。 
 私は辞任しない! 歴史的変遷の場に置かれた私は、国民への忠誠として、自らの命で償います。そして、何千人ものチリ人の素晴らしい良心に、私たちが植えた種子は、永遠にしぼんだままではいないと確信していることを国民に申しあげます。彼らには武力があり、私たちを支配することができるでしょうが、社会的な過程というものは、犯罪や武力によって押しとどめることはできません。歴史は我々のものであり、人々が歴史を作るのです。 
 わが国の労働者の皆さん。公正さに対する偉大な熱望を単に翻訳するだけの人間、憲法と法律を遵守するとお約束し、その通りにしただけの人間を、常に確信してくださった、皆さんの誠実さにお礼申しあげたく思います。 
 誰よりも、わが国の慎ましい女性たち、我々を信じてくれた農婦、我々が子供たちを気づかっていることを知っていた母親たちに呼びかけます。 
 資本主義社会の優位性を擁護する専門職の協会、階級差別的な協会が支援する暴動教唆に反対し続けている、チリの専門職の人々、愛国的な専門職の人々に呼びかけます。 
 歌を歌って、喜びと闘争の精神を与えてくれた若者たちに呼びかけます。チリの男性たち、労働者、農民、知識人、これから迫害されるであろう人々に呼びかけます。なぜならわが国には、既にファシズムが何時間も続いているからです。・・・歴史が彼らを裁きます。 
 ・・・私は常に皆さんとともにいます。少なくとも私は、祖国に忠実であった品格ある人間として記憶されるでしょう。 国民は自らを守らねばなりませんが、自らを犠牲にしてはなりません。・・・ わが国の労働者の皆さん、私はチリとその運命を信じています。裏切りが優勢になろうとしているこの暗くつらい時期を、チリの他の人々が乗り越えてくれるでしょう。より良い社会を建設するため、自由な人々がそこを通るように、立派な大通りが、意外に早く、再び開かれるだろうことを忘れないでください。
 チリ万歳!  国民万歳!  労働者万歳! これが私の最期のご挨拶ですが、私の犠牲は無駄にはならないと確信しています。少なくとも、重大な罪や臆病や裏切りを懲罰する、道徳的教訓になると確信しています。

 アジェンデは砲火と銃声の轟く中、原稿なしでこの演説を電話を通して行っている。←クリック


  学校や企業そして工場や地域の無数の組織や諸個人を演奏者とすれば、大統領は大編成交響楽団指揮者あるいはオペラの総監督である。どちらも高い見識と強い統率力が欠かせない。だが指揮者は多くとも千人を率いて、長くても数ヶ月のうちに仕事を完成させることが出来る。それ故トスカニーニが「しばしば修羅場と化し、物を投げたり、譜面台を壊したり、指揮棒を折ったり」しても、指導は受け入れられ「オーケストラは彼に従い、指揮されることを望んだ」のである。 しかしアジェンデの場合、率いるのは一千万人強の全国民。政治的仕事の成果は、長いものは数年も十年も要する。特に彼が力を注いだ体制を根本的に変革する政策は、困難の連続である。大国の妨害・陰謀とも闘わねばならない。それでも彼は、地道にそして問題によっては妥協することなく公約を進めた。そこには、莫大な富と権益を持つ社会経済構造に対する強い指導力も発揮した。一方では労働者や農民の支持が生まれ、他方では資本家と欧米の経済制裁による妨害や米CIAのあからさまな干渉も広がる。やがてアジェンデの妥協のない指導性を、独裁と攻撃し始める。トスカニーニの場合は、そうした攻撃が出るまもなく、美しい音楽が彼の指導力を肯定したのである。
  アジェンデの場合は、「独裁から自由を守る」を口実にファシズムが雪崩れ込んだのである。

  僕が問題にしたいのは、この先である。  続く

博打脳で戦争されてはたまらない

   英国の学術誌「Translational Psychiatry」に掲載された京大グループの研究「ギャンブル依存症の神経メカニズム」によれば、「ギャンブル依存症患者の場合は、ノルマの厳しさを正しく認識するのに必要な背外側前頭前野の活動が低下していること、リスク態度の切り替えに重要な背外側前頭前野と内側前頭前野の結合が弱い患者ほど、ギャンブルを絶っている期間が短く、また、低ノルマ条件でハイリスク・ハイリターンのギャンブルを選択する傾向が強いことがわか」った。
 対米開戦に至る日本軍部の「内弁慶で情緒的な確信、突発的で後先のない」判断は、まさに重症ギャンブル依存症患者のそれである。薩英戦争・下関戦争には敗戦したことは見事に忘れ、日清・日露戦争に辛くも勝利して戦果を挙げた興奮が忘れられず「内弁慶で情緒的な確信」に基づいて「突発的で後先のない」戦闘に自らはまりこんだのである。
  パチンコ依存症の特徴は「嘘」と「借金」だという。嘘に嘘を重ねるのが日常になる。大本営発表だけではない。それに繋がる日米生産力研究そのものまで禁じてしまう。さらに嘘の塊を、歴史として生徒に与えたのである。その結果、日本軍が作り出した戦費=借金の山は、現在の価値に置き換えれば、4400兆円。
 それらの膨張する嘘と借金の体系が、インテリ集団の中ではどのような雰囲気を作り出していたのか。面白い証言がある。


 「丸山 ・・・それから太平洋戦争が始まった年の「政治学研究会」も面白かったな。 松本重治さんは新聞記者だから情報に通じていて、プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の話、そのために海軍がどんなに血のにじむ訓練をしたかという話をするわけですよね、得意になって。それは大したものだと恩いました。「岩をもうがつ」という訓練だったって言うんですね。要するに繰り返しだけだと言うんです、日本の海軍は。繰り返し、繰り返し、訓練しているうちに、百発百中になっちゃう。単純だって言うんですね、「岩をもうがつ」の精神というのは。 
 また、神川先生の報告は、要するに、大東亜戦争は起こるべくして起こった。いつかは日米両国は 生命をかけて争う必然にあった……。これはベルリ来航の時から運命づけられていた、というわけなつ-ぅんだな。(笑)これはもう必然であって、どうしたって戦わなきゃいけないってことを、神川さんが得意になって言ったわけです。これは食うか食われるかの戦争だ、途中の妥協はあり得ないと。つまり日章旗をホワイトハウスに立てるか、それとも宮城に星条旗が翻るかしなければ、この戦争は終わらないと言うんですよ。 
 それで、第一番目の質問が岡さんで、「神川先生に伺いますけれど、日章旗をホワイトハウスに翻させるという可能性はありますか」と言うと、 「ないですね!」と。(笑)この戦いは妥協はあり得ない、とことんまで戦わなければ決着がつかないと強調されたあと、日章旗がホワイトハウスに翻る可能性がありますかとの質問に、「ウン」とちょっとつまって、「あ、ないですな!」-あれは傑作だったな。 
 丸山 しかし変に図太い自信はできましたね。つまり、世の中みんな狂っているわけですね。僕なんかとっても気が弱いし。僕の親父でもまたそうなんですよ、いい意味でジャーナリスティックなんです。つまり時代に敏感なんです。だから僕の親父なんてカンカンに・・・。 〔親父は〕それこそ「親英米派」の権化みたいなんだけれども、やっぱりその時代の影響を受けるに敏感であるということ。それからもう一つは、明治のナショナリズムなんだろうな。 
 ハルの最後通牒で、がらっと変わっちゃったな、やっぱり。一二月八日に帰って来て、あれだったら、こりゃあとても呑めないと。あんなものをやった日には、断然戦わざるを得ないというわけですね。僕なんか全然実感がなかった。無茶なことをやるもんだな、という実感だけですよ、開戦の実感は。ところが親父はカンカンに憤慨しちゃった。〔その時〕非常に親父と離れたっていう感じがした。 やっぱり〔僕は〕気が弱いし、左翼全盛時代から右翼全盛時代まで急激に、三、四年の問に変わるのを見ているでしょう。だから余計、大正時代というか明治の末期に育った人のような、本質的に強いものってないわけですよ、自分の中に。『方丈記』じゃないけれど、世の中は移ろいゆくものである、という感じの方が強いわけでしょ。だから一所懸命自分を支えているわけなんだけれど。 
 そしてインテリ罵倒論が流行るでしょ、あの頃。知識階級は無力であるとか、インテリはろくでなしの観念的であるとか何とか言って。 それで、この野郎!と思ってじっと我慢していたら、結局その戦争が終わってみると、いわゆる罵倒されていたインテリが考えていたことは間違っていたことは一つもなかった、という点で何か図太い自信みたいなものができていますね。つまり勘みたいなもので、こういうのは無理だなっていう、-安保じゃないけれどね。どこか無理があると思う時には、やっぱりその無理は通らないという感じね。どんなに勢いを得ていても通らない、まぁ、スターリンでもそうだし。歴史というものは無理はやっぱり通らないなっていう、そういう一種の感じというのは何か得たような気がするんです」『生きてきた道』1965年10月  『丸山眞男話文集 続 1』みすず書房

 神川先生とは東大教授神川彦松である。1940年、皇紀2600年を記念して皇道文化研究所を設立。戦後公職追放処分。 
 内弁慶で情緒的な確信、突発的で後先のない判断。それに人々が易々と引きずられる状況は、いつもある。

われわれは自ら創造したものよりも、模倣したものを信頼する

 「怠惰であるためには多くの才能、十分な教養、あるいは特殊な精神構造が必要である」と言ったのはサマセット・モームである。              
 「才能や教養、あるいは特殊な精神構造を持」つ少年が怠惰なのではなく、只そのようにに見えているだけかもしれないと考えることは不当ではない。見えないところで何かに没頭していれば、教室では「くう」を見つめるだろう。登校もしないかもしれない。

 Eric Hoffer 「移民の子、ニューヨークブロンクス生まれ。7歳で母親と死別し視力を失う、15歳で視力を回復する。以来再失明の恐怖から、一日に10時間から12時間本を読んだ。だから正規の学校教育は一切受けていない。18歳の頃、唯一の肉親である父親が逝去し、天涯孤独の身となった。それを機にロサンゼルスの貧民窟で生活を始める。
 28歳、自殺を図る。彼はこの頃、自分が社会の中では「ミス・フィット」(不適格者)という階層に属することを知る。ミス・フィットは白人とか黒人とか、富裕者とか賃金労働者とは別に、ひとつの階層をつくり、それがアメリカとあると認識したのだ。ここで、季節労働者として農園を渡り歩いた。丁度スタインベックが小説『怒りの葡萄』で描いた時代である。映画『怒りの葡萄』で主人公一家が落ち着いたキャンプには、様々な施設や仕組みが作られたことが描写されている。彼も労働の合間に図書館へ通い、大学レベルの物理学と数学をマスターする。農園の生活を通して興味は植物学へと向き、農園をやめて植物学の勉強に没頭。

 ある日、勤務先の食堂で加州大学柑橘類研究所所長スティルトン教授と出会い、給仕の合間に教授が頭を悩ませていたドイツ語の植物学文献を翻訳。しばらく柑橘類研究所研究員として働いたホッファーは、当時カリフォルニア州で流行っていたレモンの白化現象の原因を突き止め正研究員のポストが与えられるが、それを断り放浪生活へ戻る。

 34歳の1936年、哲学者・著述家としての転機が訪れる。ヒトラー台頭の冬、雪山で砂金堀、その暇つぶしに古本屋で購入したモンテーニュの『エセー』を読み、「モンテーニュは俺のことを書いている!」と思い、思索や「書く」ことを意識し始めた。『エセー』をその冬、三度読み暗記した。軍隊を志願したが、ヘルニアで失格。
 1941年サンフランシスコで沖仲仕になる、『波止場日記』はそのときの著作。きっかけをつくったのは「コモン・グラウンド」詩の女性編集長であった。「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、自分の思索を持続させた」と書いている。こうして世に出た著書は、注目されたわけではない。1964年加州大学バークレー校で、一週間一度の学生たちとの放談講義を政治学研究教授として担当する。だが65歳になるまで沖仲仕の仕事はやめなかった。
 ホッファーが圧倒的な人気をもったのは、テレビの影響である。1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映されると、爆発的反響を呼んだ。それから一年に一度、彼はテレビ対談に登場。ホッファー自身はつねに“陰の存在”であることを望んだが、社会や世間のほうがホッファーのような“例外者”としての「ミス・フィット」を必要とした。
 ホッファー・フィーバーが起きても、彼はまったく変わらなかった。そして、人には世界のどこかで彼を待っているところが、少なくとも一カ所はあるものなのだということを感んじるようになる。
 バークレー校は週に一度、1972年まで続けた。1970年代、ベトナム反戦やヒッピー、マリファナと学生運動の時代に、知的カリスマとして知られるようになる。だが、ホッファー自身は彼らを甘やかされた子供と捉えていた。1983年「大統領自由勲章」
  
 彼の残した言葉に「われわれは自ら創造したものよりも、模倣したものを信頼する」がある。学校で学んだことのある人間の欠陥を言い当てている。
 西洋式の学問で武装したつもりの文明開化日本が、写楽や北斎の価値には無関心で、欧州で爆発的ブームがあって漸く気づいた頃には、その作品の多くが散逸していた。
   豊富な治療実績を持つ日本伝統の漢方医学を捨て、模倣した西洋医学に依存したため、癩病では世界に恥ずべき絶滅隔離体制を産み、脚気では陸軍で万に及ぶ死者と数十万の病兵を出すという不始末に至ったのである。責任の第一は、陸軍軍医総監・医学博士・従二位勲一等森鴎外にある。

追記 彼は65歳になるまで沖仲仕の仕事をやめなかった。ホッファーによると、沖仲仕ほど自由と運動と閑暇と収入が適度に調和した仕事はなかったという。
 「真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ」というメキシコ革命のビリャ司令官の決意を思わせる。彼も又、正規の教育を受けてはいない農民ゲリラ兵士であった。
 

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...