見ようとしなければ観察できない。ものが眼に映じているということは観察ではない。すべての観察は観察対象にたいする観察者の「関心」に発している。しかしまさに一定の「関心」に発しているゆえに、観察の「客観性」は両義的となる。「関心」があるからこそ、単なる路傍の人よりもものがよく見えると同時に、「関心」によってその認識は一面的となる。あばたもえくぼに映る。一面的というのは、あらゆる観察が一定の角度からの照明であるという意味で一面的であえるだけでなく、「関心」によって像が一定の方向に偏差ができるという意味でも一面的である。いわゆる認識と価値判断との問題は、こういうヨリ大きな問題の特定の側面にすぎない。丸山眞男僕の高校の「生物」は理学博士の教頭が受け持った。最初の時間、ずらっと並んだ顕微鏡を前に彼は「在ると信じなければ見えない、しかしないものは決して見えない」と僕らのの好奇心を掴んだ。タマネギの皮を剥いで観察用のプレパラート作りから始まった。1時間の授業が終わった時、僕たちは認識とは何かについて考える事にすっかり魅了され、しばらくは休み時間も通学電車の中でも熱く議論した。冥王星の発見は、数学的計算による存在の確信が先行してのだと言うことも知った。ここで計算とは思考の手がかりであることも知った。僕らの関心の拡がりは、自然科学を超えて歴史にまで及んだ。おかげで、シュリーマンの『古代への情熱』が生協売店に大量に並んだ。他の教師も少年の僕らに多方面から問いかけ、生徒同士の雑多な対話を促した。だから高校一年の一学期は、知的な花園を逍遙しその香りと色彩に目眩がしそうだった。
しかし、受験戦争は容赦しなかった。高校では毎学期、中間・期末の他に大学入試に準じた特別考査があった。少しでも何かに熱中すると、直ぐに考査が割り込んで来る。その度に僕は溜息をつき苛ついた。考査さえなければ、学校さえなければ、どんなに落ち着いて勉強できたことかと今も思う。
我々の教室の少年たちの能力も、あると信じなければ見えない。おそらく百のうち一つでさえ我々は見いだせずにいるのだ。それどころか、既に生徒の中に存在していた能力を破壊することさえ「指導」の名の下に行われる。例えば 当blog 「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという選択 ←クリック
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と憲法で定めている。裁判官が、良心に違反してはならないように、教師は生徒の「可能性を信じて職務を行う」義務がある筈だと思う。生活態度が怪しからん、考え方が捻くれているからと言う理由で評価を下げるのは、この義務に叛いないか。
学校の現実は、顕微鏡下の世界にしろ天体望遠鏡の世界にしろ対象の「無い」事を前提に、与える事の手軽さに弛緩している。教師は「正解」を与え、生徒はそれを写し記憶する。ここには、在る筈のものを探す緊張した時間や新しい世界を覗いた興奮によるざわめきも、見えたと思うものを級友や教師に表現するもどかしさもない。