トスカニーニとアジェンデ

 トスカニーニは1929年、ムッソリーニがミラノのスカラ座に介入する気配を見せると、スカラ座総監督を辞任。31年には「ファシスト政権が続く限り、イタリアでは指揮しない」と決意。38年にオーストリアがナチス・ドイツとの併合を知ると、ザルツブルク音楽祭での指揮をキャンセル。ファシストやナチスの迫害を受けた音楽家をルツェルンに集め、湖畔のワーグナー邸前でガラ・コンサートを開いた。後のルツェルン音楽祭である。ファシズムに抵抗し続けた指揮者トスカニーニを象徴する演奏が大戦末期の「諸国民の讃歌」だと思う。

 大戦の勝利を祝う1943から44年にかけてのこの演奏では、英仏米の国歌のほかに、トスカニーニの祖国イタリア国歌も、歌詞のうち「伝統の祖国」が「裏切られし祖国」と直されて加えられている。更に当時ソ連の国歌であった「インターナショナル」までを併せて、見事に編曲している。恰も連続した一つの音楽であるかのようである。(私のfacebook、今日の投稿に映像付きの演奏がリンクしてある。)
 ベトナム反戦活動に関わった人には、様々な感慨が胸に浮かぶ筈である。

 トスカニーニの登場により、指揮者の地位、オペラの上演スタイル、オーケストラの演奏表現の在り方は大きく変わった。単に指揮棒を振るだけではなく、音楽監督ないし芸術監督として采配を揮い、オーケストラの人事やオペラハウスの構造にも積極的に口を出した。そして演奏面では主情や主義を排し、作曲家の意を汲んだ客観的な演奏表現を心がけ、そのために過酷とも言えるリハーサルを行った。トスカニーニは妥協を知らない音楽家であった 。そのため現場はしばしば修羅場と化した。怒鳴り散らすだけでなく、物を投げたり、譜面台を壊したり、指揮棒を折ったりすることもあった。それでも最終的にはオーケストラはトスカニーニに従い、彼に指揮されることを望んだ。
 極度の近視のため、合奏曲約250曲の全パート、オペラ約100曲の譜面と歌詞、更に多くの小品を完璧に覚えて暗譜でオペラを指揮した。


  アジェンデも、決してファシストに妥協しなかった。それはピノチェトによる軍事クーデター当日1973年9月11日、戦闘機や戦車による攻撃と闘いながら官邸から放送された彼の最後の演説に現れていて、世界中の民主主義者の胸を未だに熱くする。
 「 私にとってこれが皆様にご挨拶する最後の機会になるでしょう。空軍がラジオ・ポルタレスとラジオ・コルポラシオンのタワーを爆撃しました。・・・。 
 私は辞任しない! 歴史的変遷の場に置かれた私は、国民への忠誠として、自らの命で償います。そして、何千人ものチリ人の素晴らしい良心に、私たちが植えた種子は、永遠にしぼんだままではいないと確信していることを国民に申しあげます。彼らには武力があり、私たちを支配することができるでしょうが、社会的な過程というものは、犯罪や武力によって押しとどめることはできません。歴史は我々のものであり、人々が歴史を作るのです。 
 わが国の労働者の皆さん。公正さに対する偉大な熱望を単に翻訳するだけの人間、憲法と法律を遵守するとお約束し、その通りにしただけの人間を、常に確信してくださった、皆さんの誠実さにお礼申しあげたく思います。 
 誰よりも、わが国の慎ましい女性たち、我々を信じてくれた農婦、我々が子供たちを気づかっていることを知っていた母親たちに呼びかけます。 
 資本主義社会の優位性を擁護する専門職の協会、階級差別的な協会が支援する暴動教唆に反対し続けている、チリの専門職の人々、愛国的な専門職の人々に呼びかけます。 
 歌を歌って、喜びと闘争の精神を与えてくれた若者たちに呼びかけます。チリの男性たち、労働者、農民、知識人、これから迫害されるであろう人々に呼びかけます。なぜならわが国には、既にファシズムが何時間も続いているからです。・・・歴史が彼らを裁きます。 
 ・・・私は常に皆さんとともにいます。少なくとも私は、祖国に忠実であった品格ある人間として記憶されるでしょう。 国民は自らを守らねばなりませんが、自らを犠牲にしてはなりません。・・・ わが国の労働者の皆さん、私はチリとその運命を信じています。裏切りが優勢になろうとしているこの暗くつらい時期を、チリの他の人々が乗り越えてくれるでしょう。より良い社会を建設するため、自由な人々がそこを通るように、立派な大通りが、意外に早く、再び開かれるだろうことを忘れないでください。
 チリ万歳!  国民万歳!  労働者万歳! これが私の最期のご挨拶ですが、私の犠牲は無駄にはならないと確信しています。少なくとも、重大な罪や臆病や裏切りを懲罰する、道徳的教訓になると確信しています。

 アジェンデは砲火と銃声の轟く中、原稿なしでこの演説を電話を通して行っている。←クリック


  学校や企業そして工場や地域の無数の組織や諸個人を演奏者とすれば、大統領は大編成交響楽団指揮者あるいはオペラの総監督である。どちらも高い見識と強い統率力が欠かせない。だが指揮者は多くとも千人を率いて、長くても数ヶ月のうちに仕事を完成させることが出来る。それ故トスカニーニが「しばしば修羅場と化し、物を投げたり、譜面台を壊したり、指揮棒を折ったり」しても、指導は受け入れられ「オーケストラは彼に従い、指揮されることを望んだ」のである。 しかしアジェンデの場合、率いるのは一千万人強の全国民。政治的仕事の成果は、長いものは数年も十年も要する。特に彼が力を注いだ体制を根本的に変革する政策は、困難の連続である。大国の妨害・陰謀とも闘わねばならない。それでも彼は、地道にそして問題によっては妥協することなく公約を進めた。そこには、莫大な富と権益を持つ社会経済構造に対する強い指導力も発揮した。一方では労働者や農民の支持が生まれ、他方では資本家と欧米の経済制裁による妨害や米CIAのあからさまな干渉も広がる。やがてアジェンデの妥協のない指導性を、独裁と攻撃し始める。トスカニーニの場合は、そうした攻撃が出るまもなく、美しい音楽が彼の指導力を肯定したのである。
  アジェンデの場合は、「独裁から自由を守る」を口実にファシズムが雪崩れ込んだのである。

  僕が問題にしたいのは、この先である。  続く

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