ドイツ外交、米国要請の武力派遣を断わる / 去年のアフガンでの米+有志軍による民間人殺人は過去最高の3804人

Helgoland号甲板の乗り組み看護婦と治療後のベトナム幼児
 ロイターによれば、ドイツのマース外相は31日、米国が目指すホルムズ海峡の航行の安全確保に向けた有志連合に参加しないと表明した。同地域の状況は極めて深刻で、すべての対応は事態の悪化を防ぐ方向で実施される必要があると指摘。「軍事的な解決はない」と述べた。
 ドイツは外交的な手法でイランとの緊張緩和を目指しているとし、「米国主導の有志連合への参加によって、それが困難になる可能性がある」と述べている。

 ドイツは
兵役の代わりに、病院や福祉施設などで社会奉仕活動に従事する良心的兵役拒否を制度化した。
 良心的兵役拒否者は、年間6万人以上。ドイツ政府は、若者の労働力が不足して痛手となる病院などに補充対策を講じていた。2011年徴兵制は停止された。(徴兵制そのものは廃止せず、 緊迫事態に際して 復活できるよう、憲法上の規定はこる。 代えて志願兵制を導入。同時に徴兵拒否者が社会福祉施設等で担った非軍事役務は停止となったが、代わって連邦ボランティア役務が導入される。)

 ベトナム戦争中も米国はドイツに参戦を執拗に要請したが、ドイツ政府が出した答えは病院船派遣であった。兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。 Helgoland号はジュネーブ条約を遵守、米国の民族皆殺し政策に加担するのではなく、北・南ベトナム双方の民間人を治療したのである。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当て、夜は安全な沖で待機した。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、ナパーム弾で体全体に火傷を負った人々を治療した、その数千に及ぶ。それは沖縄の米軍基地をベトナム爆撃機発進を断わり、九条国家日本もやるべきことだった。

食料と平和は武器ではなく水がもたらす
 ドイツの病院船派遣は、国家の決断である。ペシャワール会中村医師のアフガン灌漑は、NGOである。中村医師は武力による平和や開発が如何に無効であるかを説いて、参考人として発言した日本国会では与党議員から野次と罵声を浴びた(中村医師には2018年、アフガン大統領から国家勲章が贈られている)

 僅か16日間の五輪騒ぎに3兆円(当初の説明では5000億円)も浪費して碌なことは何もない。灼熱と悪臭と騒音と放射能汚染の、奴隷的メダル稼ぎの愚を止め、中村哲医師を支える方がどれほど緊急の課題であることか。そしてヘルゴラント号に続く病院船団を組織するのが、先の大戦に対する戦争責任の取り方ではないか。その両者の拠点に相応しいのは、米軍を撤退させた独立沖縄である。


追記 アフガン侵略は米国史上最長の戦争となった。国連統計では、2018年の民間人死者数は過去最多、子ども927人を含む少なくとも3804人が死亡。その多数は、米軍主導の連合軍とアフガン政府軍による。嘘で始めた戦争は、何も解決しないどころが犠牲を増やし、憎しみの連鎖は拡大。

沖縄戦・住民を救う手立ては身近にあった

谷川雁 沖縄が壊滅的な打撃を受けている最中に、ぼくは兵隊でした。・・・ただ、あとでぼくが思ったのは、あの南部戦跡のところに日本軍が首里からダーツと下がっていくときに、住民を救う手立てはなかったのかという問題です。 あそこで十万、あるいはそれ以上の住民がまき込まれて死んだわけですから。そのことを考えに考えてみたけどいっこうに解決できなくて、この二、三年前ですよ、もう行かなくちゃわからないというふうに思って、意を決して行ったんです。それまでは、この問題を解かずに、沖縄にどの面さげて行くかと思ってたからね。
 だけど行ってみたら、パーッとなんか感じられたのは、あそこは斎場御嶽というウタキがありまして、そこから久高島という島がよく見えるところがある。あの下の海岸はそんな大きな戦場にならなかったな。だから、もし首里から南部へ日本軍が撤退する瞬間に、白旗を掲げ、軍使を出して、非戦闘員は全部ここからここの海岸に集結させている。したがって、ここだけは攻撃しないでくれと言い、だが軍人たるわれわれは全滅を賭して戦うと通告したら、アメリカはそれを守ったんじゃないかという気がします。これは前から鶴見さんにしてみたかった質問でして、きょう実は、この質問を鶴見さんにすると決めて、ある気持ちを抱いて来たんです。アメリカは学童疎開の船をいっぺん沈めたでしょう。それがわかったら、それからは学童の乗った船は沈めてないですよね。スパイがいたかどうか知らないけども、ちゃんと選んで沈めてないわけで、だから、ぼくの生まれた水俣なんかにも沖縄の学童が疎開してきたんです。
 そういうことから考えると、ぼくは、アメリカ軍にはそこまでほ最低通じたんじゃなかろうかという気がするんですよ。戦後のアメリカの沖縄に対するやりかたはでたらめです。それはぜったい許せないと思っているけれども、あの戦争の緊張のなかで、そこがアメリカに通じたかもしれない。そうすると、それは武士道ですよ。・・・ 
鶴見俊輔 アメリカ軍の作戦が、日本軍の作戦に対応して、別の展開を示したかもしれないということは、確かにそうだと思うのよね。もし日本軍が沖縄の住民をまき込まないという決心をして、そのような陣形をしいて戦えば、アメリカはあの当時ゆとりをもっていたわけで。戦後、そのゆとりをもっていたということを隠そうと一生懸命するけれど。そうでないと原爆を正当化できないから。だから、日本人の頭を撫でるのに、スレスレの戦争だったみたいなことを言って、実にいやらしいんだけども、実はものすごく過剰な戦力をもっていたんですよね。だから、目茶苦茶のなぐりあいみたいに戦争に突入するんじゃなくて、京都は避けるとか、戦略としてゆっくり考えて石を打ってた。
 もし日本軍が住民への被害を避けるために、自分はこういうふうに陣をしくというふうに展開したらは、それに対応して手を打ったと思う。沖縄の住民の四分の一が戦死。・・・
 それに対する想像力をわれわれは依然としてもってないんだけども、いま架空のことで、日本軍がとうぜん軍人としてはやるべき戦略を沖縄で立てていたらどうなったかということなんだけど、立てなかった。そのために、あれだけ沖縄の住民をまき込んじゃった・・・。 1986年 季刊 文藝 特別対談・戦後精神の行方 谷川雁×鶴見俊輔 司会・松本健一

 渡嘉敷村の前島は、一教師の企てにより戦禍を免れた。
 「・・・那覇とは目と鼻の先にある我が前島こそ、その島である。当時、島には渡嘉敷国民学校の分教場があってH先生夫妻が教鞭をとっていた。或日のことS大尉なる者が部下を連れて島へやってきた。・・・先生は住民を守るために来られたのであれば、兵隊が居ること自体が住民の為にならないので、お引取り願いたいと隊長に申し出た。・・・この島にも米軍は上陸してきた。くまなく調べた結果日本軍が居ないことを知った米軍は、この島には一切攻撃はしないから安心して畑にも海にも出てよいと言い残して、その日のうちに引揚げていったとのことである。」  渡嘉敷小学校創立90周年記念誌』(1977.9)
   H先生とは分教場主任の比嘉儀清先生の事である。一介の教師が両軍と交渉して、「非武装」島宣言を実現している。日本国憲法・平和主義の原点に相応しい。事の本質は、小さな部分に先ず宿る事が分かる。

 県民の命最優先が国家や軍の意思であれば、更に壮大な和平の企ては可能であった筈だ。僕はこの逸話を映像化すれば、ロッセリーニの『無防備都市』と並ぶ名作になる可能性があると思う。

 沖縄戦では、牛島中将の最後が特段に美化されて不気味である。スコッチ・ウイスキーのキングオブキングスとパイナップルの缶詰の最後の晩餐の記録には、開いた口が塞がらない。全アジアの戦線で完全餓死・病死に追い込んだ軍参謀たちが、平然とスコッチ・ウイスキーとパイナップルの缶詰の晩餐の記録を残し、斬り込みもせず「自決」する神経。それを「美」談とする感性、名状し難い。

クールジャパンは、日本嫌いを大量生産する / 漱石は「三四郎」で根拠のない日本礼賛に警鐘を鳴らしている

八雲は日本人を天使であるかのように書いて気が狂いそうになった
 上京する三四郎が、広田先生と汽車で向かい合っている有名な場面がある。
  「・・・まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」・・・
  三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
 「滅びるね」と言った。・・・  ――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。・・・
 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。
 「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った
 
 漱石は五高でも東大英文科でも、小泉八雲の後任であった。ことある毎に学生から、小泉八雲と比べられ些か辟易していた。八雲が五高で教えていた時には日清戦争があり、三四郎が五高生の時日露戦争という塩梅である。日本の「偉業」に沸き立つ学生に、八雲の日本礼賛は心地よかったに違いない。
 広田先生の言葉は、流行の日本人礼賛には実体がない事を揶揄して、視野の狭い世間や学生を批判している。
   「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」は、八雲にあてた言葉でもある。
   「この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。」は、学生と日本人に期待した態度である。
 

 東大で八雲の同僚であったバジル・ホール・チェンバレンも『日本事物誌』で
 「来日後、数年の間、彼(小泉八雲)の日本熱は異常なほど昂進した。ハーンは神々の国を発見し、彼の『知られぬ日本の面影』は日本を手放しで絶賛したが、その日本なるものは、実は彼が自分は見たと勝手に思いこんだところの日本にしか過ぎない」と釘を刺している。

 授業が始まって、三四郎は広田先生の家に下宿している学生と知り合う。そこに小泉八雲の事が少しばかり出てくる。

  「赤門をはいって、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、
 「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた
 小泉八雲が逝去したのは1904年、『三四郎』脱稿は1908年である。汽車の場面が、八雲の日本観への批判であれば、ポンチ絵の男の言葉は、同僚教師八雲の振る舞いへの不満である。 

 
『古代の豊かさを現代に』のなかで鶴見俊輔は
 「非常に感心して日本だけを研究した人は、ある時期を過ぎると反動が起こって日本をものすごく嫌いになる」と語っている。その筆頭が小泉八雲で、彼は後に
 「日本人を天使であるかのように書いた事を考えると気が狂いそうになっ」て日本から脱出しようとしたことをあげている。

 前出のチェンバレン自身、初めは日本に感銘した日本研究者であったが、後にこう書くようになる。

 「東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張りあげるのは、音楽といえたものではない。だがあの低級な代物をもし音楽と呼ぶことが許されるならば―それはこの美しい語を汚すものであるけれども―もしそれならば、音楽は神代の昔から日本にあったと言ってよいだろう。・・・なにとぞ二十一世紀が来るまでに、三味線、琴、その他あらゆる種類の和楽器が薪に化してしまうことを切に望む。そのお蔭でもし貧乏人が暖を取ることが出来たなら、その方が本来の目的よりも、余程有用な目的に役立つ」『日本事物誌』

 日本に長く友情を持ち続けた文化人、例えばバーナード・リーチは、朝鮮や中国や中東にも関心を持ち、日本に対する相対的で安定した評価を形成していた。

 いま日本政府自体までが、アジアを見下し中国・朝鮮を敵視して鼻持ちならない。偏狭でデマに満ちた組織は、善意の友人を落胆させ離反させるのが常だ。オリンピックの終了と共に反動は一気に押し寄せるだろう。
   漱石が広田先生に言わせた言葉は、時を超えて現代の日本をも照射している。やはり希代の文豪である。

記 政府のクールジャパン戦略は経済産業省にクールジャパン政策課を置き、官民ファンド「クールジャパン機構」を派手に打ち上げて始まったが、早々と2017年3月末時点で約44億円もの損失。出資金693億円のうち、586億円が政府による出資となっている。設立から4年が経過した時点で投資案件の4割が赤字累積状態。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...