教養は丸腰に限る

真実は武器では守れない
 『アラバマ物語』 主人公一家の父親アティカスは、田舎町の弁護士。白人貧農の娘メイエラ暴行の容疑で逮捕された黒人青年トム・ロビンスンの弁護を引き受けている。公判を明日に控えて、トムは街の保安官事務所に移された。リンチから青年を守るために、アティカスは保安官事務所前のポーチで寝ずの番をしている。
 子どもたち(主人公のスカウト、その兄ジェム、夏だけ隣家にやってくる友達のディル)は好奇心を抑えられず様子を見に行く。そこに案の定、憎悪に燃えた男たちがライフル片手に押しかけ、トムを渡せとアティカスに迫り一触即発の状態。子どもたちは、群衆をかき分けてアティカスの脇に立つ。
 そこにスカウトは銃を持った知り合いを見出す。


 「あら、カニソガムさんじゃない?」 私の声がきこえないらしかった。
 「今晩は、カニソガムさん。・・・おぼえていないの・・・私ね、ウォルターといっしょに学校へいってるのよ・・・あれ、あなたのこどもでしょ ね、そうでしょう?」 カニソガムさんは、やっとうなずく気になったらしい。
 「私と同級なのよ、とてもよくやってるわ、いい子よ」私はつけくわえた。「ほんとにいい子だわ。いつかお昼ご飯に、うちにつれてきたことがあるわ。私のこと話したでしょう。私は一度なぐったけど、そのときの態度は、すごく立派だったわよ。よろしくいってね」
 彼はやがて、妙なことをした。というのは、かがみこむと私の両肩をつかまえたのだ。
 「息子に伝えときますよ、お嬢さん、あなたがよろしくおっしゃったとね」そう彼はいった。
 そして立ち上がると、大きな手をふって、「引き上げよう、さあ行こう」
 彼らはきたときのように、一人、二人と足を引きずってがたがたの車のところへもどった。ドアがばたんとしまり、エンジンがうなって、男たちはいってしまった。

      『アラバマ物語』暮らしの手帖社刊 より抜粋
 

   僕はこの場面を、「教養とは何か」の講義で使った。「教養」とは「再構築」する事である。事態が膠着して険悪な状況にあるとき、自他をずらす。ずらして見え方を変える。
 スカウトはその場の抜き差しならぬ空気を、全く場違いな話で転換する。武装した農民たちと主人公一家との間にあった険悪な睨み合いの固い壁が、スカウトが持ち出した話ですっと消えてしまう。視線がずれたのである。リンチしようといきり立っていた気持ちは魔法のように消えて、カニンガムは握っていた銃を置きスカウトの肩に手を置き誓う。「息子に伝えときますよ、お嬢さん、あなたがよろしくおっしゃったとね」と。

 交渉は何であれ、こうでなくてはいけない。これを可能にさせたのはアティカスの丸腰である。

 スカウトの咄嗟の語り掛けはそれだけに止まらず、カニンガムの何かを変える。そこが教養のradicalなところだ。
 トムの陪審裁判は翌日、町の法廷で開かれた。町中の大人が押しかけ立錐の余地もない。アティカスの見事な弁論でトムの無罪は明白になったが、陪審員の審理は長引き彼に有罪を宣告する。しかしここで印象的なのは、トムをリンチする集団を率いていたカニンガムがトムの無実を言い立てて審理が長引いたことである。 『アラバマ物語』はHarper Leeの子ども時代の実体験を元にしている。(絶望したトムは逃亡を謀り射殺される。アティカスの判断では上告すれば十分勝訴出来た)。

 もう一つ大事な場面がこの中にある。これも良く授業で使った。保安官事務所のポーチでスカウトの兄ジェムは、アティカスからスカウトとディルを連れて帰れと強く言われる。それまで父の命令に逆らったことの無いジェムが、この時初めて「嫌だ」と抵抗する。現場に残り父と共にリンチを目論む銃の前に立つ決意をする。そして裁判を境に、ジェムは口数が少なくなり勉強に打ち込むようになる。法を学ぶ決意をしたのである。
 我々の周りでは学校も家庭も、少年/少女を社会的事件の現場から隔離することを教育や指導と考えて譲らない。アティカスは子どもたちの決意を尊重した、たとえ親であっても立ち入ることの出来ない精神の領域である。自立や成長は安全と相容れない場合もある。そう生徒や学生に伝えるためにいい挿話だ。

 我々は安全を口実に、少年/少女たちの社会的成長と自立を妨げる。その結果が低賃金と過労死と憎悪ではやりきれない。大人も教師も臆病だ。

 政府が先頭になって近隣諸国との険悪な空気を煽る。丸腰の教養が要請される事態に、ミサイルや航空母艦を配置する愚かさである。子どもの知恵にも劣る者が、国の中枢にいて愚か者を増長させるばかりだ。

 日本の青少年は、スカウトやジェムのように振る舞うことから余りにも長く隔離された。周りにはメイエラの父親ユーイルのような、無知で偏見に満ちた粗暴な大人が蔓延している。国会で政府側に座る者たちの姿勢と顔付きがユーイルそっくりである事に驚く。(メイエラがトムを誘惑したのである。その現場を目撃したユーイルが激怒して娘を殴ったことを、アティカスは弁論で白日の下に曝した。それを恨んだユーイルは、復讐のために兄妹を襲い兄は瀕死の重傷を負う)

授業における現実性=リアリティ

この衣装は洗濯を繰り返してボロボロにしてある
汗と血糊は付いていない
 『椿三十郎』の出だしと結末が気に入らない。 先ず初っ端。味方だと思っていた老中一味に包囲された若侍たちは、危ういところを浪人者に助けられ、新たな決意を固め「こうなりゃ死ぬも生きるのも我々九人」と誓い合う。
 それを聞いた浪人者は言う。
 「いや!十人だ!てめえらのやることは危なくて見ちゃいられねえや」

 どうもしっくりこない、いかにも押しつけがましい。こう言わせる。

 「おめえら、命をかけての結束もいいが、ちょっとはここも使いな」と頭を指さし
 「こんな物騒な所は真っ平だ、あばよ」と去ろうとする。若侍たちは、何やら言い合った挙げ句
 「どうか、何卒我ら一党にご指南を」
 「命がいくつあっても足りねえや、・・・しかし放ってもおけまい。・・・条件は何だ」
 「何なりと」
 「そうはいくめえ、条件は飯と風呂だ」と言わせる。

 結末。
 室戸を斬り倒した椿三十郎に、若侍の井坂(山本周五郎の『日日平安』では井坂十郎太)
 「お見事!」と言う。椿三十郎
(『日日平安』では菅田平野)か゛
 「バカ野郎!利いた風なことをぬかすな!気をつけろ!俺は機嫌が悪いんだ!」までは同じ。こう付け加える

 「お前たち城代家老に言われて、オレを呼び戻しに来たんだろう。」
  「はい、直ちにお戻り下さるよう」
 「見たとおりオレは頭から足袋まで血まみれ、風呂に入りたい。
刀はこの通り、研がねばならぬ。城代に斬られるかも知れんからな。しばらく待って貰おう。誰か馬を貸してくれ、もう歩けん」そして死体のように横たわって馬に乗る。
 2日後、血糊を落としたヨレヨレの着物を肩に、研ぎなおした刀に目をやり

 「この刀も細くなりやがった。待たせたな、そろそろ行こうか」と若侍に告げ、城代の待つ屋敷に赴く。
 座敷に案内され、しかし座りもせずこう言う
 「おい城代、室戸にオレを斬れと命じたのはお主だな。オレが旅立てば、他藩や幕府に内紛が漏れはせぬか気掛かり、しかし事情を知った者を仕官させるのも厄介」城代は一瞬言葉を失う。
 「ア・ハハ・・・図星でござる。・・・参りましたな、二本も三本もとられ申した。さぁこちらへ、せめてこのたびのご助力に感謝はせねばなりませぬ故、さぁこちらへ」と立ち上がろうとする。
 「この部屋は息が詰まりそうだ。お主らと酒を飲めば、オレまで室戸になる。別れを言いに来たんだ。料理と褒美は、お主たちより勇敢なあのお女中(『日日平安』ではこいそという名)にやりな。オレの口には合わん」と踵を返す。こいそは背景の末座に控えている。
 
若侍たちは、慌てて追いすがる。決闘した場所まで来て、椿三十郎は立ち止まり
 「室戸は俺によく似ていた、あいつもオレも鞘に入らぬ刀。でもな奥方によれば、いい刀は鞘に入ってる。だが、役には立たん。おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ。これ以上追ってきたらたたっ切るぞ、今日も機嫌が悪いんだ。城代に伝えておけ、オレを黙らせたければ、浪人や女郎が出ない政道を心がけろってな。洗いざらしのボロは気持ちがいいぜ、あばよ!」

  『七人の侍』撮影現場ではこんなことがあったという。わずか2秒のちょい役仲代達也がカメラのまえをチョコチョコ歩いた時、黒澤明は『なんだあの歩き方は』と朝9時から大勢の役者を待たせてやり直しの連続、終わったのが午後3時。それほどまでリアリティにこだわった黒澤明が、どうしたことかと思う。返り血をたっぷり浴びればまともに歩けるわけがない。『日日平安』では、浪人菅田平野は、返り血を浴びてもいないのに井坂十郎太を丸め込んで風呂にも入り髭も月代も剃っている。僕は椿三十郎より、こちらに活きた人間を感じる。


 役柄の現実性は、演じる世界への想像を掻き立てる。
 少年/少女たちは、常に教師の授業の非「現実性」を暴きその偽善性を白日に曝そうと待ち構えている。
非「現実性」と偽善性が見えたとき、生徒たちは授業から逃亡し居眠りしお喋りするのである。
 それに立ち向かい、教壇に立つ我々の言葉の背後に活きた「現実性」を感じさせる為には、我々自身が常に活きた「現場」で、事柄の匂いを嗅ぎ音や温度を肌で感じる必要がある。
 例えば戦場の爆風や匂いを伝えるとき「鼻につく」という句を用いる。積み重なる死体や血だまりの匂いが「鼻につく」とはどういうことか。「においが鼻に残って離れない」ことではない。何の匂いを嗅いでもその匂いが蘇って来る事である。食事をとろうとしても、果物を口にしてもそのにおいが蘇り何も口に出来なくなる。もし鼻につくのが、バラやチョコレートの香りであったら良いのだろうか。梅干しで白米を口にする度に、バラの香りが押し寄せてきたらもう、沢山だ勘弁してくれと言うだろう。芳香でさえそうなのだ。嫌な匂いなら嫌な光景と共に寝ていても襲ってくる。
夜中に汗びっしょりになって飛び起きる。戦場の匂いを現実のものとして再現しないために、それを心底から嫌悪する必要がある。そのために想像力はあり、現実性という手法はある。

 戦場の匂いでなくてもいい、鼻につくほどある匂いの中に閉じ込められてみる。そうすれば、何の匂いであれ「もう沢山だ勘弁してくれ」という感覚を伴って「鼻につく」を伝えられる。文学がその代わりをすることもある。しかし元になるのは経験だ。教材研究が必要とするのは、そういう身体「感覚」である。
 731部隊の医者や研究者は、捕虜を丸太と呼んで生体解剖や実験と言う名の殺戮の日々を送った。にもかかわらず、同じ敷地内にある快適な「官舎」に帰れば、子どもや妻と水入らずの夕餉のひとときを享受したのだ。彼らには、丸太の血のにおいが、鼻に付かなかったのか。 そこに彼らの生活の異常性がある。

 辺野古のそして沖縄の現実を許しながら「cool japan」や「侍japan」に浮かれ、「天皇メッセージ」が無かったかのように改元騒ぎを演じるのは、同じように異常なのだ。
 
 嘘っぽい授業は、する方にだって力がこもらない。聞く方は尚更だ。そのためには教師も少年/少女も、自由で暇でなければならない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...