授業における現実性=リアリティ

この衣装は洗濯を繰り返してボロボロにしてある
汗と血糊は付いていない
 『椿三十郎』の出だしと結末が気に入らない。 先ず初っ端。味方だと思っていた老中一味に包囲された若侍たちは、危ういところを浪人者に助けられ、新たな決意を固め「こうなりゃ死ぬも生きるのも我々九人」と誓い合う。
 それを聞いた浪人者は言う。
 「いや!十人だ!てめえらのやることは危なくて見ちゃいられねえや」

 どうもしっくりこない、いかにも押しつけがましい。こう言わせる。

 「おめえら、命をかけての結束もいいが、ちょっとはここも使いな」と頭を指さし
 「こんな物騒な所は真っ平だ、あばよ」と去ろうとする。若侍たちは、何やら言い合った挙げ句
 「どうか、何卒我ら一党にご指南を」
 「命がいくつあっても足りねえや、・・・しかし放ってもおけまい。・・・条件は何だ」
 「何なりと」
 「そうはいくめえ、条件は飯と風呂だ」と言わせる。

 結末。
 室戸を斬り倒した椿三十郎に、若侍の井坂(山本周五郎の『日日平安』では井坂十郎太)
 「お見事!」と言う。椿三十郎
(『日日平安』では菅田平野)か゛
 「バカ野郎!利いた風なことをぬかすな!気をつけろ!俺は機嫌が悪いんだ!」までは同じ。こう付け加える

 「お前たち城代家老に言われて、オレを呼び戻しに来たんだろう。」
  「はい、直ちにお戻り下さるよう」
 「見たとおりオレは頭から足袋まで血まみれ、風呂に入りたい。
刀はこの通り、研がねばならぬ。城代に斬られるかも知れんからな。しばらく待って貰おう。誰か馬を貸してくれ、もう歩けん」そして死体のように横たわって馬に乗る。
 2日後、血糊を落としたヨレヨレの着物を肩に、研ぎなおした刀に目をやり

 「この刀も細くなりやがった。待たせたな、そろそろ行こうか」と若侍に告げ、城代の待つ屋敷に赴く。
 座敷に案内され、しかし座りもせずこう言う
 「おい城代、室戸にオレを斬れと命じたのはお主だな。オレが旅立てば、他藩や幕府に内紛が漏れはせぬか気掛かり、しかし事情を知った者を仕官させるのも厄介」城代は一瞬言葉を失う。
 「ア・ハハ・・・図星でござる。・・・参りましたな、二本も三本もとられ申した。さぁこちらへ、せめてこのたびのご助力に感謝はせねばなりませぬ故、さぁこちらへ」と立ち上がろうとする。
 「この部屋は息が詰まりそうだ。お主らと酒を飲めば、オレまで室戸になる。別れを言いに来たんだ。料理と褒美は、お主たちより勇敢なあのお女中(『日日平安』ではこいそという名)にやりな。オレの口には合わん」と踵を返す。こいそは背景の末座に控えている。
 
若侍たちは、慌てて追いすがる。決闘した場所まで来て、椿三十郎は立ち止まり
 「室戸は俺によく似ていた、あいつもオレも鞘に入らぬ刀。でもな奥方によれば、いい刀は鞘に入ってる。だが、役には立たん。おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ。これ以上追ってきたらたたっ切るぞ、今日も機嫌が悪いんだ。城代に伝えておけ、オレを黙らせたければ、浪人や女郎が出ない政道を心がけろってな。洗いざらしのボロは気持ちがいいぜ、あばよ!」

  『七人の侍』撮影現場ではこんなことがあったという。わずか2秒のちょい役仲代達也がカメラのまえをチョコチョコ歩いた時、黒澤明は『なんだあの歩き方は』と朝9時から大勢の役者を待たせてやり直しの連続、終わったのが午後3時。それほどまでリアリティにこだわった黒澤明が、どうしたことかと思う。返り血をたっぷり浴びればまともに歩けるわけがない。『日日平安』では、浪人菅田平野は、返り血を浴びてもいないのに井坂十郎太を丸め込んで風呂にも入り髭も月代も剃っている。僕は椿三十郎より、こちらに活きた人間を感じる。


 役柄の現実性は、演じる世界への想像を掻き立てる。
 少年/少女たちは、常に教師の授業の非「現実性」を暴きその偽善性を白日に曝そうと待ち構えている。
非「現実性」と偽善性が見えたとき、生徒たちは授業から逃亡し居眠りしお喋りするのである。
 それに立ち向かい、教壇に立つ我々の言葉の背後に活きた「現実性」を感じさせる為には、我々自身が常に活きた「現場」で、事柄の匂いを嗅ぎ音や温度を肌で感じる必要がある。
 例えば戦場の爆風や匂いを伝えるとき「鼻につく」という句を用いる。積み重なる死体や血だまりの匂いが「鼻につく」とはどういうことか。「においが鼻に残って離れない」ことではない。何の匂いを嗅いでもその匂いが蘇って来る事である。食事をとろうとしても、果物を口にしてもそのにおいが蘇り何も口に出来なくなる。もし鼻につくのが、バラやチョコレートの香りであったら良いのだろうか。梅干しで白米を口にする度に、バラの香りが押し寄せてきたらもう、沢山だ勘弁してくれと言うだろう。芳香でさえそうなのだ。嫌な匂いなら嫌な光景と共に寝ていても襲ってくる。
夜中に汗びっしょりになって飛び起きる。戦場の匂いを現実のものとして再現しないために、それを心底から嫌悪する必要がある。そのために想像力はあり、現実性という手法はある。

 戦場の匂いでなくてもいい、鼻につくほどある匂いの中に閉じ込められてみる。そうすれば、何の匂いであれ「もう沢山だ勘弁してくれ」という感覚を伴って「鼻につく」を伝えられる。文学がその代わりをすることもある。しかし元になるのは経験だ。教材研究が必要とするのは、そういう身体「感覚」である。
 731部隊の医者や研究者は、捕虜を丸太と呼んで生体解剖や実験と言う名の殺戮の日々を送った。にもかかわらず、同じ敷地内にある快適な「官舎」に帰れば、子どもや妻と水入らずの夕餉のひとときを享受したのだ。彼らには、丸太の血のにおいが、鼻に付かなかったのか。 そこに彼らの生活の異常性がある。

 辺野古のそして沖縄の現実を許しながら「cool japan」や「侍japan」に浮かれ、「天皇メッセージ」が無かったかのように改元騒ぎを演じるのは、同じように異常なのだ。
 
 嘘っぽい授業は、する方にだって力がこもらない。聞く方は尚更だ。そのためには教師も少年/少女も、自由で暇でなければならない。

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