台湾市街で演説する布施辰治と簡吉 |
1919年の「二・八独立宣言事件」弁護を、独立運動に敬意を表す立場から引き受けた事のある布施辰治もこの裁判に駆けつけ、朝鮮人から「われらの弁護士」と呼ばれた。
その布施辰治は台湾にも、弾圧に苦しむ農民と「苦汁を分けてのむ」決意とともに弁護に駆けつけている。
「ある台湾人日本軍兵士が見た南京大虐殺」←クリック で台湾の農民たちを収奪し尽くした日本の製糖資本について書いた。農民組合が組織され抵抗運動が起きた。中でも二林という村落を舞台にした騒擾事件は、全台湾の注目を浴びた。その時の報告が残っている。
私(布施)は、去る三月十四日出発、四月二日帰着、二十日間の日程で台湾に行ってまいりました。
主要な任務は、台湾の農民運動に画期的な刺激を与えた庶農組合対林本源製糖会社の二林騒擾事件弁護のためでありました。 ・・・
事件記録によって二林騒擾事件発生の動機を要約すると、それまで最も会社側の横暴に苦しめられていた、
①肥料の強制売りつけ
②買上価格未協定甘蔗刈取収納
③収納甘蔗秤量立会拒絶の三つの施策に対する三か条の抗議にその原因を発しているのであります。
以上の二点の施策は、単に題目を見ただけではちょっと想像できないほどひどいもので、①肥料の強制売付というのは、未だ台湾には肥料法が実施されていないのを奇貨として、会社は、勝手な調合肥料を特製し、あえてその効力があろうと無かろうとを問題とせず、いやしくも会社所属区域庶作民に強制的にこれを売つけておいて、最後の甘蔗収納売付代金から差引かれる。そのために蔗作農民はせっかく自作した甘蔗を事実上只取りされる。このことに対する抗議として、肥料の自由購買を要求したのであります。
②買上価格未協定甘蔗刈取収納というのは、蔗作農民の自作甘蔗は、どこからどこまでの分を何会社に買い上げてもらうということに官憲からの指定があり、万一これに違反したときは罰金に処されることになっているので、あらかじめ買い1げることに決まっている会社が、未だ買上価格協定の無いうちに、会社の都合次第で勝手にこれを刈取収納し、しかるのち庶作農民へ今年度の甘鷹はイクラという価格を発表し、①の強制的に売り付けた肥料代も差し引けば、会社で勝手に刈り取った甘蔗刈取苦力賃までも農民持ちに計算されるために、これまた買上の計算はつけられても事実上蔗作農民の手に金は入らないことに対する抗議として、甘蔗刈取収納前価格協定を要求したのであります。
③甘蔗収納秤量立会拒絶というのは、会社側が買取収納した甘蔗が何万何千斤あったかを秤量するときに、蔗作農民が立ち合わせてくれといっても、会社側は、売主たる蔗作農民に立ち合わさせず、買主たる会社側のみで勝手にどの畑からは何千斤、この畑からは何千斤刈り取ったということを決定するのは、あまりにひどいということで、それに対する抗議として、秤量立会を要求したのであります。
どうです、何人といえども、以上三点蔗作農民組合から抗議した要求の、あまりにも当然にして、会社側の従来の横暴さに驚かないものは無いでしょう。にもかかわらず、会社側が、こうした薦作農民側からの要求を一蹴拒絶したために起こった事件なのだから、二林騒擾事件被告同様、製糖王国の横暴に苦しめられている台湾全島の蔗作農民は、当面の被告として法廷に拉致された蔗作農民のみが裁判を受けているのではなく、全島の蔗作農民一同の利害と一致するものとして、今後の蔗作問題がどうなるかということを、注目懸念しているのであります。
渡台に先立って、私は、単に法廷に拉致された二林騒擾事件被告のみを弁護するばかりでなく、台湾全島蔗作農民のためにも法廷外の弁護をする必要を痛感しておりました。渡台を機会に、無産階級解放連動促進の講演会を開催してはどうかという議があり、私も精力の続く限り、時間の許す限りその希望に応ずる考えでしたから、滞在の日程は誠に短かかったけれども、寸時の無駄もなく、左記のごとき日程で、法廷弁論の三日間とともに21ヶ所30回の講演をして帰りました。(日程省略)
この間示された台湾無産大衆の熱意は、実にすさまじいもので、いたるところ講演会を埋めた大衆の気勢は、それ自体が農作問題に対するデモンストレーションであったと思います。
ここに真の裁判というものがありうるとしたら、この間題に最も直接の利害と感情とを共有する台湾熊産大衆の熱気こそそれでありました。講演会の雰囲気は、二林騒擾事件を社会的に裁くと同時に、二林騒擾事件を裁判した裁判官をも社会的に裁く、はなはだ公正かつ厳粛なものであったことを喜ばしく思いました。 ・・・ 布施辰治『進め五年五号1927年5月』
この事件で布施辰治を助けた簡吉は、教職を辞して台湾農民組合を組織して、幾度もの投獄にも屈しない青年であったが蒋介石に殺されている。
映画『非情城市』はこうした背景を知って見るとよい。群衆の一人一人が立ち上がってくる。
台湾人たちが今なお「感謝」しているのは、総督府の植民地支配に抗した布施辰治らの活動に対してであり、「支配」一般に対してではない。