ある台湾人日本軍兵士が見た南京大虐殺 

 日本の植民地だった台湾に兵役法が適用されたのは1943年、徴兵検査実施は1945年から。だから敗戦の年まで台湾に徴兵は存在しなかった。にもかかわらず
 ・・・それがネ、いきなりヨ。突然警察から呼び出しが来た。「何月何日、印鑑持参で警察に出頭せよ」 こういう呼び出し状が来た。警察いえば、普通の人はやっぱり怖いヨ。・・・
 行ったらすぐに身体検査証渡されるんだ。これにサインしなさい、と。まだこの時も何があるのかわかってないのヨ。ワケわかんないから、みんな戸惑っている。それでボク訊いたんだ。
 「何でサインするんですか?」 そしたら、こう答えた。
 「郡役所行けばわかる」
 郡役所、日本で言えば県庁みたいなものネ。当時としては、ボクたちとまったく縁のないところヨ。ずっと上みたいなところ。しょうがないからサインして、判押した。行ってた連中みんな押してたな。・・・その日、夜になって特別車でそのまま台南連れていかれた。
 台南の連隊入れられたのヨ。呼び出されたその日にヨ。ウチに何の連絡もなくヨ。家じゃもう行方不明ヨ。これにはビックリした。まったくコッチには教えてくれない。どこに行ってどうするのか。で、台南の連隊で初めて身体検査ダ。そこでボク甲種合格。・・・翌日は早速湖口訓練所に送られて、基礎訓練みっちりやらされた。この台南出る時にウチに連絡できたの。手紙出した。これが着いてウチの人安心したらしいけど、それまで随分心配したそうヨ。
 訓練所での訓練が三ケ月続いた。これが昭和十二年の……十月から十二月。ボク、まだ十九歳だった。

 翌年の一月、湖口出て、上海から上陸して、南京に向かった。前の年の十二月に南京攻略されて、その頃は大虐殺の最中ヨ。道でも川の土手でも死体がゴロゴロしてた。山になって積んであるのヨ。
 正直言うとネ、そういった風景見て、ボクがっかりきたんだ。台湾の教育いうと「日本は神の国」教える。それはシッカリ叩き込まれるのヨ。さらに、この戦争は「聖戦だ」と。警察に呼ばれるまで、そのことは強く信じていたヨ。イヤ、信じていたというより「そういうもんなんだな」って思ってた。台湾での生活の中でもいっぱいイヤなことあったし、ヒドイ目にも遣わせられたヨ。でも、どっかでそのこと信じていたのも事実ネ。結局、軍隊にほうり込まれてもまだ「そうかもしれない」って思ってた。
 その実態がアレよ。人間のやることじゃない、本当に見てられないのヨ。今までほんの少しでも信じてたことが、完全に崩れ落ちたネ。全くの嘘だということがハッキリわかった。
      林歳徳(
「ある台湾人兵士の密航」『戦争拒否 11人の日本人』晶文社


 これは警察を使った強制連行である、それを日本は志願兵であると強弁した。わけも分からず判子を押してはいけない、絶対に。
 台湾生まれの林歳徳さんは、学校で「日本は神の国」と叩き込まれ、この戦争は「聖戦だ」と強く信じていた。
 問題は「日本は神の国」と教えた同じ日本人が、平気で強制連行する神経である。根っからの嘘つきなのか、「人間のやることじゃない」ことをするために、「神の国」という言葉を発して自らに呪いをかけたのか。だとすればなんと安普請の精神であることか。

 それ故、マッカーサーに「感謝状」を送り、沖縄を米軍基地として占領する「天皇メッセージ」を許してしまうのだ。平気で他民族を見下げ騙す国民は、見苦しいまでに支配民族に 迎合し進んで騙されるのである。

    林歳徳さんが、日本軍による兵役を逃れて日本にたどり着いて驚いたことの一つに、砂糖の値段がある。安いのだ。生産地台湾の1/3。日本の砂糖が安かったわけではない。それにはからくりがある。

 台湾では米が年二回とれる。が、その米は台湾人の口には入らない。主食はサツマイモを千切りにして干した「バンショウケン」だった。お椀の中はいつも真っ黒である。彼らにとっての食事とは、その真っ黒なお椀を意味していたという。
 リンさんの家はそれほど大きくないが地主だった。父親は広いサトウキビ畑を持ち、精糖工場を経営していた。かなり手広くやっていたのだが、リンさんが物心つくかつかないうちに、日本の財閥に取られてしまう。
 ある日突然だった。朝、父親がいつものように自分の畑に仕事をLに行くと、そこには日本の財閥の名が大書された三寸角の柱が立てられていた。「ここは今日より○○の土地である」と。
そんなものに従うことはできない。看板を引き抜き、仕事を始めた。と、すぐに警察がやって来て、父親は連行される。何日にもわたって拷問が繰り返された。
 警官は命令口調でこういったという。とにかく一言告げるだけでいいのだ。あの土地は自分のものではない、と。しかし父親は頭として受けつけなかった。最後に警察は彼の妻と息子であるリンさんを連れてきて、その目の前で父親の拷問を行なった。父は気絶してしまう。その間に母が書類にサインをし、父の指をもち、栂印を押させた。
 その日から父は一労働者としてサトウキビ畑で働かされることになった。
 サトウキビ畑での労働は、肥料はすべて借り受ける形になっていた。その値段も政府が勝手に決める。穫れたサトウキビの値段も勝手に決められる。さらにサトウキビの計量にも立ち会えない。
 台湾入は労働力のみを提供し、彼らが得る報酬もすべて日本側の事情によって決められた。
 また、自分の畑でサトウキビを食べても罰金を払わせられた。リンさんはその罰金が十円だったと記憶している。一日働いて得る報酬が三十銭ほどであった当時である。少ない収入とそれに見合うだけの食物しかない毎日が続いていた。しかしリンさんたちはサトウキビ畑に入り、サトウキビをしゃぶることはしなかった。いや、できなかった。たとえ自分のところの畑であろうと、たとえそれが子供であろうと、サトウキビをとることは罰金十円の犯罪となったからだ。
 リンさんが日本の小学校にあたる公学校三年の時だった。ずっと自転車が欲しいと思っていた。
父親にねだっても「まだ小さいから」という理由で買ってもらえなかった。実際は「小さいから」という理由よりも、当時百円という高額が問題だったのだろう。が、三年になった時に父親は買ってくれると言う。リンさんは嬉しくて嬉しくてたまらなかった。父親にしてみれば、その年のサトウキビは豊作で、十トン貨車三十台分が収穫できた。肥料代を差し引いても四百円は下らないだろうと予想していたのだ。
 リンさんは父親の帰りを待つのももどかしく、一緒に精糖工場まで出かけていった。そして精糖工場の会計課が、父親の収穫したサトウキビを計り、それに値をつけるのを二人でジッと待っていた。期待に胸ふくらませる子供の思いは、いつの時代でも、どんな土地でも一緒だ。リン少年もワクワクする気持ちを抑えるのに必死だった。
 父親が会計課に呼ばれた。ややこしい計算がなされた紙切れの末尾に、金額が書きこまれていた、五十円。
 自転車どころの話ではない。これだけの収入では家族の生活さえ危ぶまれる。父親はしつこく食い下がったが、相手にされなかった。
         
「ある台湾人兵士の密航」『戦争拒否 11人の日本人』晶文社  

 台湾人は日本の植民地支配に感謝しているという風説が繰り返し流される。無知は恐ろしい。戦中の台湾製糖や台湾銀行最大の株主は天皇だった。植民地支配と戦争から最も利益を得て、身内から一人として戦死者を出していない天皇一家である。土下座で済むレベルではない。

 共産党穀田国対委員長が20日の記者会見で、政府主催の天皇在位30年記念式典に党として出席しないことを明らかにしたと言う。遅すぎる決断であるが、僅かに片頬が緩む。  

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