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大学生や貴族が、過酷な犠牲を伴うナロードニキ運動に身を投じざるをえなかったのは何故か。社会の最底辺にあって困窮の極みにあった農奴たちが解放が進まない理由を、ツァーの暴政に見出すことが出来なかったからである。「愛する父なるツァー」の善政を妨げるのは、官僚や貴族たちの私利私欲であるとの正教的世界観に浸りきっていた。無知蒙昧を宗教が組織していたのである。
ロシアの農民たちが、ツアーの暴虐極まりない実像を知るのは、この30年もあと1905 年「血の日曜日」であった。保守的青年僧侶に率いられ「神よ、ツアーを恵み給え」と平和裏に請願行進する群衆に、ツァー政府による無警告一斉射撃が浴びせられ死者500名負傷者3000名を数えた。これがロシア革命の烽火となる。
今、生活苦に喘ぐ老若男女も、政権中枢の首相らの頑張りを信じて疑わない。ステルス戦闘機100機を米国に注文するに及んでも、改革が進まないのは抵抗する官僚たちのせいだと信じている。
何時の何処の困民に比べても、現在の日本の非正規労働者や外国人労働者が幸福であるとは思えない。過酷な労働から逃れるには、過労死しかない有様に打つ手もない。いつまで生きるつもりかと閣僚に恫喝され、孤独死を遂げる老人。どこが恵まれているか。現代の日本的ナロードニキの出現があって当たり前の状況である。それを妨げる巨大な社会的ダムがある。古くて更新を続ける3Sである。スポーツ・セックス・スクリーンは、学校もマスメディアも政策も覆い尽くしている。日本の青年が1870年代のロシア青年に比べて、倫理性や論理性において著しく劣っているとは思えない。
違うのは、時代を注視して深く思考し仲間と討論交流する時間と精神である。それが組織的に奪われ粉砕されている。
昔も今も運動に身を投じるのは困難の極みである。困難の最たるものは、自身の貧困である。ロシアの農奴も日本の小作農も、立ち上がる前に疲弊し切ってしまっていた。空腹の余り、子どもは熟していない梅の実を口にして死んでしまう。そんな中で、ものを考え本を読むことが出来るのは、地主や小地主の子弟たちであった。農民運動家の山口武秀さんは、17歳で中学を出ると、孤立無援のまま五里霧中で、農民運動に身を投じた。
「農民が地主に土地を取り上げられる。すると、わたしが周りにいる青年を引きつれ、地主のところに談判にいく。大衆団交をやりに行くんだ。談判のすえ、取り上げられていた土地をこちらの手に押さえ、その農家に返してやる。そういうことをやっていた」 山村基毅『戦争拒否 11人の日本人』晶文社
組織はないが言うことはしっかりしている。地主たちの目は光り始め、検挙も重なりそのたびに半年近く留置された。1937年には思想犯として逮捕され懲役三年の刑を食らう。赤紙も来る。しかし彼は徹底的に不服従を貫き。敗戦を迎え戦後も農民運動を続けた。
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