ナロードニキ逮捕の瞬間を描いたイリヤ・レーピンの作品 |
彼等は父母との家庭、社会的地位、快適な生活、世俗的な悦楽をふり捨て、「人民のなかへ行き、彼等から不正に奪ったものを彼等に返せ」と叫んで、労働者、徒弟、役場書記、小学校教師、産婆、看護婦の資格で町や村に入り込んだ。鍛冶屋や小農場をつくり、彼等は毎日、労働大衆と直綾に接して教育宣伝に従い、その啓蒙と福祉のために献身した。モスクワでは富裕な階級出身で、チューリッヒ大学に学んだ若い娘たちが、紡績工場に入って1日14時間から16時間も労働し、工場のバラックに住んで惨めな生活を送った。一方では、同情者または後援者の数も夥しい。例えば治安判事ヴオイナロスキーは約4万ルーブルの全財産をナロードニキ運動に寄付した。チェルニゴフ県の司法委員会議長で地主のコヴァリクは、ナロードニキを援助したために捕えられてシベリア流刑に処せられた。「党の聖人」と呼ばれたドミトリー・リゾグープは、1879年の8月にオデッサで処刑されるまでに、全財産40万ルーブルをナロードニキに投じている。
彼等の運動は当初、極めて平和な教育運動であった。彼等は明白な具体的革命的綱領をもっていたのではなく、文盲の農民や労働者に読み書きを教え、初歩的な知識を与え、迷信的な治癒の奇蹟に頼っている病人に医療を施し、彼等の悲惨暗黒な境涯の緩和に直撃献することを目的とした。そして人民が自身のカで圧制から解放され、正しい自由と幸福とを獲得するのを、援助しょうと熱望していたのである。 (数字や人名は、主として荒畑寒村『ロシア革命運動の曙』によった)
彼らがこうした過酷な犠牲を伴う運動に身を投じたのは何故か。農奴たち自身が解放が進まない理由を、ツァーの暴政に見出すのではなく、「愛する父なるツァー」の善政を妨げる官僚や貴族たちの私利私欲に帰していたからであった。ロシアの農民たちが、ツアーの暴虐極まりない実像を知るのは、この30年もあと1905 年「血の日曜日」であった。保守的青年僧侶に率いられ「神よ、ツアーを恵み給え」と平和裏に請願行進する群衆に、ツァー政府による無警告一斉射撃が浴びせられ死者500名負傷者3000名を数えた。これがロシア革命の烽火となる。
ナロードニキの軍法会議に於ける陳述も伝えられている。
「私を殺せ。だが、諸君は人民の自由と幸福、正義と廉直の勝利、そして友愛、平等、自由の理想がもはや空しい響きではなく、真の生活に具体化された時代が到来する私の信念を、決して殺せない。かかる未来のために、個人の生命を犠牲とすることこそ幸福なのである」
マリア・スピリドーノワは眼球が飛び出さんばかりに拷問を受け血にまみれ、喀血しながら叫んだと記録されている。
「私はミーンが自由の先駆者を殺し、モスクワの街上に無辜の血を溢れさせたが故に、彼を射殺した。私たちをこのように戦わせるのは政府である。私たちを暗黒と窮乏と牢獄に閉じこめ、流刑と懲役に処し、数十人、数百人を絞殺、銃殺する権利を、誰が諸君に与えたか。諸君は力ずくでこの権利を握り、自身の法律で正当化し、僧侶がそれを神聖とした。だがいまや、諸君の非人道的な権利よりもはるかに公正な、新しい人民の権利が起っている。そして諸君はこの権利に、生死の戦いを宣言したのである」
ジナイーダ・コノブリャーニコワは、絞首台に上るや自ら絞索をしめ、踏み台を蹴飛ばし最期を迎えている。いずれも女性である。
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