黒人霊歌 

黒人霊歌
 

この美しい歌が生まれるために
 

多くの 悪徳と 汚辱があった
 

何もなかったほうがほんとにましだ   
            
     長島愛生園の詩人志樹逸馬


     志樹逸馬は 旧制中学1年でハンセン病を得て、全生病院に入院、1933年長島愛生園に移り多くの詩を作り、1959年42歳で生涯を終えた。彼が詩を作り始めるのは、タゴールを知りその詩集を書写してからである。
 タゴールがノーベル賞を受けると日本にタゴール人気が高まり、1916年に来日している。しかし日本の帝国主義を批判したため、タゴール熱は急激に冷めた。その風潮の中で、志樹逸馬はタゴールの詩を学んだ。

「啐啄の機」と平和教育

  「啐啄の機」←クリックの続き

 吉野源三郎が、戦後の平和教育は「啐啄の機」を見ることを怠ったと苦言を呈したことがある。
  私は、逆説的かもしれませんけれど、戦争体験をもった人びとは、その体験を自分の心の中に大切にしておいて、あまり人にしゃべらないほうがいい、と考えています。 
 わかってもらおうとして、しゃべればしゃべるほど体験が磨滅していって、体験の表皮だけが言葉になって残るという結果になりかねないからです。 
 逆に経験した事実についてならば、あまり深刻にならないで、自分のことでも客観的に語ってゆくようなゆとりをもって、人に話したほうがいいと思います。どこまでが経験で、どこからが体験か、その間に明確な線はひけませんから、私のいっていることも相対的な区別にすぎませんけれど、そういう気持で経験を話すほうが正確に多くのことが相手に伝わると思います。 
 そして、体験のほうはソッとしておくことです。このように、自分の体験をウソなしに語ることがむずかしいということを心得て、口に出さず、じっと心の奥に持ちこたえているならば、かえってあるキッカケで、パッと相手に通じるという結果を生む場合もあるのです。 
 たとえば、空襲で焼け死んだ人びとの死骸処理をやった人が、そのときの思いをじっと心にひそめていて、あるとき、空襲について軽薄な調子で人びとがおしゃべりをしているのを耳にし、我慢ができなくなって「バカ、そんなもんじゃないぞ」と一言いったとします。その二言の中に、その人のそれまで口に出してはいえなかった気持がこめられていたら、一座のおしゃべりは、その一言でしゅんとしてしまうでしょう。 
 厳粛な事実の厳粛さは、それだけで相手に通じるのです。総じて、客観的な事実や科学的夷理は言葉で語って伝えることができますけれど、まるごとの真実というものは、わかりあえる条件が熟さないと、伝えようとしても伝えられない、というのが本当のところだと思います。 
 禅宗では啐啄の機といって、卵の中のひよ子が育って外に出ようとするのと、親が外から殻をつき破るのとが、機をあやまたず一致するように、弟子が悟りに近づいて熟してきたときに、師が機をあやまたずに適切な導きを与えるという、そのかねあいの重要さを説いていますが、たしかに、事柄によっては、受けとる者と伝える者と、双方に条件が熟したときに、はじめてわかると言うものがあるのですね。いろいろ価値の中には、そのようにしてはじめてわかる価値もあると思います。 
 平和運動というような大衆運動の中では、なかなか、そんなことはいっていられないでしょうが平和運動を人びとの魂の中に定着させてゆくためには、やはり、運動を進めてゆく人の一人ひとりの中に、こういう内面性はあったほうがいいのではありませんか。小学校の先生の場合でも、同じだろうと思います」 (1972年『科学と思想』春季号)


 よいこと、必要なこと、疑う余地のないことと言いながら、教育の機微を無視したスケジュール消化的押しつけが罷り通る。平和を巡って、教える側・学ぶ側・伝える側の内的「機」の成熟を準備し、それを鋭く感知する能力こそが望まれている。それは、平和教育にとどまらない、自治教育、憲法教育・・・教育のあらゆる分野に要請されている。それ故、教案の画一的強制は愚の骨頂である。「啐啄の機」には、生徒の成長を敏感に捉える「余裕」が欠かせない。余裕は、先ずは時間と存在の尊厳である。生徒や地域の生活を共感的に受け容れるということだ。そのためには自治体が小さいことは必須の条件だ。地域を知ることが、そのまま保護者の労働と生活を知ることであり、家庭を知ることに繋がる。「啐啄の機」はそこに潜んでいる筈だ。大きいことばかりに振り回される東京では至難のことだ。

 ある学校のある教科で、恒例の学年末教員旅行があった。幹事教師による修学旅行並みの見学予定が示され、学習ポイント・地図・旅館の由緒など情報満載の小冊子までがつくられたという。お土産を買う店・記念写真撮影ポイント・トイレ休憩・コーヒータイム・・・それが分単位で事細かに書かれていた。
 何のための旅なのか、お行儀よい強制移動ではないか。ここに人生の一コマは生まれない、浪費そのものである。自律性も固有の実体もない。大人に対して無礼だとは誰も思わなかったのか。いや子どもに対しても失敬だ。
 これをつくった教師は鼻高々、周りもさすがと賞賛した。次の年はさらに細かくなるだろう。宿の歴史や夕ご飯の紹介・旅館での禁止事項・所持品チェック表・・・。「よいこと」だから恒例だからこうなる。僕なら参加しない、家族と風呂にゆく。
  

選別体制下のアクティブ・ラーニング / 教科「公共」

「公共」の指導要領は新語法で書かれている
 アクティブラーニングに、政府が言及したのは、2012年8月の中央教育審議会答申である。生徒が能動的に学ぶ授業が期待されていると、色めきだった教師は少なくない。生徒が、体験学習やグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワークなどで「能動的」に学べば「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」ことが出来るとうたったのである。   
  笑止千万である。一切の自由を縛り上げられた教師が、一体どうやって生徒を能動的に出来るというのだ。Freedom is  slavery. そのものではないか。横文字を使えば恐れ入るだろうとの軽薄さに満ちている。

 
 元々アクティブ・ラーニングは大学で展開されていた。教師自体が組織からも政府からも自立し、教科書も学習内容も方法も自由に構成できる環境にあって初めて実現出来る方法である。それでも上手くいってはいない。

 検閲した教科書をあてがわれ、挙動を日常的に監視され、過労死するほどの多忙な勤務の中で、何が出来るのだ。居眠りも出来ない。たとえどんなに忙しくとも、優れたマニュアルに基づいて人工知能を活用すれば、厳しい管理と規律によって実現出来ると考えたのであろうか。まるで生徒は兵隊、教師は下士官、管理職が将校のようである。まさに「汎用的能力の育成を図る」普通科連隊の訓練である。人工知能を活用する産業戦士育成を視野に据えている。戦士とはおとなしく戦死する者たちのことだ。人工知能革命のその先には大量人員整理が待っている。

 さすがに恥ずかしくなったのか2018年指導要領では、アクティブラーニングの語は消えて「主体的・対話的で深い学び」と言い直されている。僕はTVバラエティ番組の「人生が変わる1分間の深イイ話」というタイトルを思った。一分間にまとめられる軽薄な話を、壇上に並んだ芸能人たちに聞かせて頷く様子を画面に入れる。
  ここに文教族たちの思惑がある。かつて国民共有の財産を外資に明け渡して、「感動した」を連発したライオン髪首相がいた。国民が求める詳しい報告と熟議をせせら笑うように繰り出した、単語の連発をマスコミは歓迎したのである。紙面が節約でき、調査報道が省けるからだ。調査報道を省いた紙面や画面に現れるのは、現状を自然現象のように肯定する傾向である。9.11も3.11も永い歴史的経過が省かれ、衝撃的な現象の「鑑賞」から一歩も出ない。そこから始まったのは、ブッシュの嘘を真に受けての、主権国家イラクへの徹底的攻撃であり、その裏で蠢動する民営化した戦争の実態と本質は省かれた。3.11も対米従属下の核政策を押し流すように津波の映像が繰り返され、莫大な復興予算を浪費する災害資本の暗躍が碌な議会審議も経ぬまま黙認されたのである。国民は「食べて応援」の短いフレーズにここでも思考を断ち切られている。

  はじめから破綻は見えていた。アクティブラーニングが鳴り物入りで喧伝されたのは、裕福な家庭の偏差値の高い良い子たちが集まる学校だけだ。謂わば陸海軍幼年学校で、趣味的に取り組まれたに過ぎない。何を教えても教えなくても、万事そつなくこなす連中だけを集めて「教育」である筈がない。
 雑多な階層の多様な「物騒な」生徒たちもお坊ちゃんも集う学校で、緊張に満ちて取り組まれないで何がアクティブか。アクティブとは、粒ぞろいの居心地の良い教室でお行儀良く取り組まれるものであってはならない。授業後、直ちに街に出て行動する青年になるのでなければ、浮き輪抱えた畳の上の水練に過ぎない。
 it革命で首を切る側になる階層の子弟と首を切られる側になる階層の子弟が、互いに隔離されて展開されるアクティブラーニングは、全てよそ事として構成される。社会の矛盾がそのまま反映される教室を、政界も財界も恐れている。
 
 新教科「公共」には、2006年の「新」教育基本法の意図が思い通りには浸透しない文教族のイライラが結晶している。新教科指導要領を「精査」して解説した本が幾つも出ている。何故わざわざ解説して展開例を書かねばならないのか。それは指導要領が、分けても新教科「公共」 指導要領が、『1984』並の新語法に満ちているからだ。
 日本国憲法や旧教育基本法が、そのまま読まれたような「明晰」さはあり得ない。上意下達の通達が明晰であるとすれば、国民が新語法にすっかり馴染んだ時である。


    教科書調査官だった「学者」などが加わった解説書に共通することがもう一つ。それは、遡及的思考が無いことだある。コナンドイルは、ホームズに『緋色の研究』でワトソンに向かってこう言わせている。
 「うまく説明できないものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理するということだ。・・・仮に君が一連の出来事を物語ったとすると、多くの人はそれはどのような結果をもたらすだろうと考える。それらの出来事を心の中で配列して、そこから次に何が起こるかを推理する。けれども中に少数ではあるが、ある出来事があったことを教えると、そこから出発して、その結果に至るまでにどのようなさまざまな前段があったのかを、独特の精神のはたらきを通じて案出することのできる者がいる。この力のことを私は『遡及的に推理する』とか、『分析的に推理する』というふうに君に言ったのだよ」

  僕は9.11事件を授業で扱う時必ず使った映像がある。Occupation: A Film about the Harvard Living Wage Sit-In on Vimeo   この映像を使ったnhk海外ドキュメントもある。こちらは日本語である。
 2001年春、つまり9.11事件の半年前のアメリカの雰囲気が分かる。2000年にはワシントンで反グローバリゼーションの大規模デモが行われいた。そして 世界の「テロ」件数が急速に増加し、多くが中東か南アジアで発生するようになったのは、2004年頃からである。つまり9.11以前の世界は、相対的に穏やかであった。我々の多くは、事件の報道が衝撃的であったために、事件以前を忘れたのである。そこにイスラムのテロ組織の残虐性と中東世界の不安定性が書き込まれ、記憶と化したのである。それ故、ブッシュがイランに大量破壊兵器があると言えば「さもありなん」と受け容れてしまったのである。『遡及的に推理』したり、『分析的に推理する』ことで我々は、より実態に迫ることが出来るはずである。
 非正規労働を扱った学習プランを見れば、非正規労働が増え始めたのは何時で、それ以前の労働はどうであったかは考察されない。あたかも自然現象であるかのように、非正規と正規を選択の対象として選ばせようとしている。福祉であれ外交であれ、これからどうするのかだけを問う。政権の課題を浸透させる構図となっている。


 
 

李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように

  無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった状態。という見解がある。驚くほどものをよく知っていて、お喋りだが全く対話できない。そんな少年について書いたことがある。←クリック  文字通り苦い記憶である。

  専門家の無知について、原発事故は我々に数多くの実例を曝した。しかしそれを社会は、認識しているだろうか。もし認識していれば、彼らの多くは刑務所にいるはずだし、誰も責任をっていない。
 ハンセン病の場合、専門家の組織である「日本ライ学会」が自らの無知を自己批判するまで、絶対隔離からほぼ一世紀を要している。
 

 「収容乞う癩患者を赤穂海岸へ遺棄 鮮人身の振り方を赤穂署へ泣つく 長島愛生園へ抗議」の見出しが新聞に現われたのは1935年10月10日。(山陽新聞の前身『中国民報』)
 大学病院でハンセン病と診断された患者自ら愛生園に出向くが満員と断られ、盥回しされた大島療養所も受け入れ拒否、愛生園に戻ると船に乗せられ無人の海岸に打ち捨てられた事件である。愛生園は職員談話で、軽症で伝染の恐れも少ないから帰した、従来も軽症者は努めて帰ってもらっていると逃げた。おかしいではないか、ハンセン病の慈父として後に文化勲章を受ける光田健輔は愛生園園長であり、ハンセン病をペスト並の恐ろしい病気と言いつのり絶対隔離を立案したのである。

 京大病院で治癒して仕事にも復帰して後遺症もない元患者もあった。彼の場合有無を言わせず愛生園に再収容されたまま隔離され続けた。
 入れるも入れぬも出すも出さぬも、患者に対する恫喝として思いの儘であった。こうした恣意性が、絶対服従を可能にした。基準・根拠ともに不明であるからこそ、恐怖は果て無く募る。根拠さえ手にする事が出来れば、『神聖喜劇』の藤堂二等兵が軍法を逆手にとったように、闘いの道具にすることも出来る。それを恐れて、星塚敬愛園は癩予防法条文そのものを対患者極秘扱いにしたのである。
 収容されてしまえば、治療もあてにならず強制労働で症状は急速に悪化、死んでくれ、首を吊ってくれと迫った家へ帰れる筈はない。戸籍すら消された。大黒柱を奪われ消毒剤と罵詈雑言を浴びた家族も、離散してい故郷には誰もいない。元の職場にも病気は知れ渡っていて戻れない。すっかり根無し草となって、浮浪死は免れない。その恐怖が患者の反抗を沈黙させたのである。
 追放する側は、死後解剖するまで無菌は証明できないと言いながら、「アカ」であることが判れば、いつも無菌を証明してみせた。
 ならば「光田先生、この病気は治癒しないと言うあなたの療養所で、何故アカになると突然無菌になるのですか、こんな不思議はない。御高見を承りたい」と常識で切り出す者やマスコミが必要であったのではないか。
 「知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった」関係者の無知は恐ろしい程である。

 愛正園初代患者教師吉川先生に関する「思想要注意人退園処分の件」関連文書にも、彼が如何に危険な思想と言動の主かを列挙してはいるが、病状については一切触れていない。ペスト並の病気より、思想が光田には恐ろしかったのである。

 1936年第15回癩学会は『朝日』や『毎日』の報道によって、小笠原説が徹底的に糾弾され絶滅隔離派が圧勝した印象を世間に与えた。しかし地方紙『新愛知』は「・・・論戦を繰展げ・・・伝染はするが決して恐るべきものではないとの妥協点に至り、結局今後の研究にまつことを双方約して二日間に亘る癩論争の幕を閉じた」と報じている。そればかりか、小笠原攻撃の急先鋒の一人外島保養院村田院長も「今頃癩の伝染力をさ程に強いと思つてゐる者はゐない」と論戦の中で言い切っている。又、恵楓園宮崎松記園長も京大に小笠原博士を訪問、「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度ナラシメントストノ意向」を伝えたことも確かめている。これは第15回日本癩学会総会直前である。
 「癩業界」内部では「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度」との見解は寧ろ一般的でった。そうであればこそ、鹿屋の星塚敬愛園が「国立療養所入所規定」第一条で癩はこの規定から除かれることを明示していることを承知で、第七条と八条によって追放(退園)を命じたことに合点がゆく。ハンセン病を入所規定から除いた根拠が存在しないことになるからである。しかしそうなれば、隔離の根拠が無くなる。
 両義足の患者を山中に遺棄したり、博奕で追放したり、思想要注意人物の再収容を阻止したり、彼らにとって何の不都合もない。『癩業界』が外部向けに捏造したハンセン病像に慌てふためいたのは、「癩業界」から隔離された者ばかりであった。
 愛生園の医師二人が追放に立ち会って震えたのは、自分達の行為が国民と歴史と科学を欺く途方も無い犯罪であると知ったからではないか。震えた一人早田皓は、小笠原にわざわざ長文の手紙を送って、絶対隔離を認めるよう迫った男である。来たものは誰であろうとも欺くために、愛生園の予防措置は度外れて厳重を極めていた。
                樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』から引用加筆した。

  ハンセン病も「らい学会」自己批判や「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」判決でその不当性明らかになったにも拘わらず、関係者の処罰は一切ない。僅かな園職員が転勤したのみである。特定の情報が飽和に達した集団が、生まれ変わるためには飽和状態を一掃する革命が必要なのだ。ハンセン病関係で言えば、
「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」原告の谺雄治さんが国会の議長になり、厚労省大臣に島比呂志が就任して汗を流す体制が少しも過激でない世の中になる必要がある。
 空気が水蒸気で飽和状態になれば雨が降るように、知識の飽和状態も何らかの方法で解消される。丁度コンピューターの中に断片化した情報やゴミが溜まれば、動きは緩慢になる。フラグメントを除去しなければならない。
 官僚李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように。

 知識の飽和状態を解消して、未知のものを受け容れることが出来る。
 業界人にならないことだ。友達も親も兄弟も配偶者も教師というのは危ない。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...