王様に貰ったミカン 「サバン」の思い出

 僕は終電車を逸して歩いている時、交番で補導されかけた事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行では宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、一瞬の呆然の後仲居さんは生徒と一緒に大笑いした。

 働き学ぶ青年にとって教育とは何か、悩み始めていたある日曜の晩、転校してきた生徒から電話があった。
 「先生、夜分大変失礼いたします。しばらくよろしいでしょうか。実は先日相談申し上げた受験の件で又御指導をお願いしたいのです。・・・〇〇大学の△△教授を先生は御存知ですか。大変な評判だそうですね。・・・やはり△×学を専攻するには〇〇大学だと思うのですがどうでしょうか。・・・そのためには日本史は山川の・・・数学は大学への数学を毎月とって・・・もちろん朝日の天声人語は・・・永々とおじゃましました。では明日又お目に掛ります。おやすみなさい。失礼します」
 受験と大学そして事件と人物についての彼の知識に僕は舌を巻くばかりだった。余りの敬語の正しさに、寝そべって電話の相手をしていた僕はいつの間にか正座をしていた。

 だが彼は、学校では誰とも話さなかった。三菱のユニをケースごと並べ、その一本を手に握り、ノートをにらんだまま終了のチャイムを待つ。それが彼にとっての授業であった。
 重たそうなズックのカバン、中には古語辞典や英和辞典がいつも入っていた。それを右手にぶら下げ、小股でセカセカと背中を丸めて歩く。
 追いついて「一緒に行こう」と言っても 
 「はぁ・・・失礼します」と先に行ってしまう。
 いつも同じ道の同じ場所を同じ姿勢で歩く。横断する場所、歩道から車道へおりる場所すべてが決っている。歩道に車が乗り上げて駐車していると、車の前でしばらく足踏みを続け汗ビッショリになる。やがて観念したように迂回するのだった。自転車は「危いので絶対いけない」と決っしてうけつけなかった。
 廊下で教員とすれ違う時は必ず立ち止まり、直立不動の姿勢をとってから、深々と頑を下げた。滅多になかったが、遅刻すると、まるで面接試験でも受けるかのように、静かに戸を開け、一礼してから両手で閉め、教卓の前まで来て深々とお辞儀をし、十人に満たない生徒には広すぎる教室の隅の彼が決めた指定席に陣取るのだった。
 ノートは受験に良いと言って分厚い大学ノートを使い、科目ごとにサブノート、問題集を毎日揃えて持って来ていた。だがそれが開かれるのを僕は見た事がない。「受験に良い」と彼が言ったのは電話を通してである。
 給食の食堂でも彼はいつも一人だけ離れた指定席を持ち、表情を変えず黙々と食べた。時々他の生徒と彼の前や横に座った。
 「一緒に食べよう、いいだろう」「慣れたかい」と話しかけるが 
 「ハァ」というだけ。
 食べ終るや立ち上がり一礼、教室の指定席に戻り、いつまでも同じ姿勢ですわり続けた。
 「俺たちあいつに嫌われてるのかね、先生」とその場に残された生徒は呟いた。
 夏の暑苦しい夜には、僕は授業をつぶしてソフトボールをした。生徒達は仕事の疲れを忘れたように走り回った。小太りの彼は走るのも無理なのか、走る姿勢はとるが足が動かない。球をグラブでつかめない、球の飛ぶコースにグラブを持って来る前に、球は彼の胸や顔面にあたった。バレーボールを使ってのドッジボールをすれば、ボールはつかむ前に彼の体を直撃するのだった。生徒達は、茫然、しかし誰も笑わなかった。下校時刻も正確に決めていて、文化祭の準備があろうと、掃除があろうと、「失礼します」のお辞儀とともに風の如く去った。誰も怒らなかった。

 とうに二十をこえた青年や零細工場労働者・白髪の定年退職者の混じる教室で、僕は「指導」という概念を疑い始めていた。だが、彼を見るにつけ、対策・研究・理解、という言葉を思わずにはおれなかった。当時、鍼黙児という文字が現れ始めた。多くは幼児に関するものであったが、様々の実践を読み、役所や研究機関に足を運だが、図書館や資料室の貸し出しカードがたまるばかり。

 平日の午後、家庭訪問した。彼は茶の間のコタツに足を突っ込み大きな座椅子にもたれていた。TVを前に、一言も発せずミカンを頬張る姿は、童話の王のようであった。人の好さそうな母親が、申し訳なさげに小さくなっていた。彼は突然ミカンの山から一つをつかみ僕につき出した。僕は「ありがとう」と王様に言ったが、彼の表情が変わることはなかった。

 映画『レインマン』が公開されたのはい、あれから十年近く経ってからだ。ダスティン・ホフマン扮するサバンはまさにミカンをくれた王様そのものであった。突然、霧が晴れる。僕は三度も映画館に出かけ画面に食い入り、原作も読んだ。全て合点がいったように思えた。
 トボトボと小股で決ったコースしか歩かないのも、障害物があれば足踏みして立ち止まるのも、たった10分の通学を不安がったのも。何もかもが、あまりにも似ている。受験情報と事件と人物について驚くべき記憶力がありながら、学校のあちこちに散らばる実習室や実験室を覚えるにはとてつもない時間を要したのも、いつも恕勅に「○×室はどこですか」と足踏みしながら聞いたのも、一度覚えたコースはどんなに近道があっても変えなかったことも。堰を切ったようにサバンに関する論文が現れ、出版もされた。しかし、遅すぎた。
 彼は一年以上在籍したが、どんな生徒であっても出席さえしていれば、補習に補習を重ねて進級させていた僕の学校でも現級留置となって去った。試験ではユニを握りしめ名前を書いた後、じっと問題を睨んだまま汗をかき、白紙が残された。採点後の答案を受け取るときは、必ず深々とお辞儀をした。
 「ここは受験には向かない学校ですね。○×高校は数学と英語と国語の時間が多いのです。転校して頑張ります・・・大変お世話になりました。ではこれで失礼します」
 いつものように電話では流暢な言葉遣いの優等生だった。僕は彼のメインマンにはなれなかった。ただ漫然と現象を追うだけ、何一つ役に立てなかった。
 踏切際に建つ「王様」の住まいを、吊革に凭れて通り過ぎるたび、時が苦く巻き戻される。

追記 僕はどうして、電話での授業を試みなかったのか。テストを自宅に持ち帰り電話で回答することを認めなかったのか。僕自身の中に狭く鈍い、枯れた「教育」観のこわばりがある。
 障害物を前に立ち止まり足踏みしたのは、僕ではないか。汗もかかず問題が去るのを待ち、埒があかず敬遠していたのではないか。複数の「ミカンをくれた王様」を今になって想う。・・・慚愧にたえない。

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