学「力」

   「エイちゃんという子供は全然しゃべらない。何を質問してもしゃべらない。その教室にはじめて東井先生が行った時、呼んでも返事しない。ほかの優等生が立って、「あの子はしゃべらない子なんです」といった。ある時、掃除をするのをみていると、その子だけゆっくり掃除をし、ほかの優等生や級長がいい加減にやって帰ってしまうが、エイちゃんはあとまでやってバケツの水の始末をやって行く。それで特性を発見した。その子供にとつては、しゃべるということ、文章を書くことは得手じゃないし、できないが、教室の掃除や、置き忘れたバケツをゆっくり始末することのなかに、その子供としての力を入れている。そこに表現の場所があるんですね。人間はそういうものだ。綴り方が書けなくたっていいんだ、という仕方で問題を出している。これは、生活綴り方運動そのものへの批判を含んでいると思う」                                        鶴見俊輔 『戦後日本の思想』                                     
 僕は学力という言葉の「力」に違和感を持ち続けている。強力とは言うが、弱力とは言わず無力と言い捨てる。それはそもそも学力概念が、支配に対する歪な構えを含むからである。「力」=POWERは無神経である。人並外れた高い学「力」の持主ひしめく核物理学の、業界として見苦しい傲慢性。同じく日本らい学会が、絶対隔離体制維持で見せた悪魔性。学あるものとしての知識人の資格を根底に於いて欠いている。
 「エイちゃん」の特性を東井義雄は、島根の山村の生活に見て、「村をひらく」仕組みの中に位置づけた。それでも東井義雄は学力という言葉を使っている。尤も東井義雄にとって社会状況も自然条件も変わりはない、区別せずに受け入れている。八紘一宇体制や占領軍も信じる、自然を村を信じて尽くすように振る舞った。彼にとって「力」とはそういうものであったのかも知れない。しかしそこは合点するわけにはいかない。
 力については女子力、老人力等の言葉までが乱造されたが、 要するに悉く儲けに結びつけられている。儲ける力がない「エイちゃん」たちや「エイちゃん」の農山魚村は、過疎と名付けられ生活圏から放逐されている。
 良いことも書いてあるという程度の薄弱な理由で「教育勅語」は過度に可愛がられることになったが、それは排他的好戦性が、膨大な儲けを引き連れているからである。死体が儲かれば、死人力という言葉さえ生まれかねない。


  「エイちゃんの話 の中に当然含まれていることですけれども、表現そのものを組織するのではなくて、実感主義から出発して表現されていない存在そのものを組織しようという方法に立つわけですね。書かれた作文を中心にして、どういう作文がいいか、という形で組織して行くのではなくて、文章として表現できていないある感情の傾向、ある行動の傾向を、そこでつかまえて、存在そのものの組織を行っているということが問題になる。「上農は土を作る」ということばがモットーになっています。いいかえれば、組織の問題でも、よくしゃべる人、よくしゃべる働き手、よく書く書き手を作ることでもなく、存在が常に正しい方向に向かっているということで人を勇気づけ、その正しさを守るというような、そういう人の存在を支えて行く組織論をとるわけです」                                                                                                        鶴見俊輔 『戦後日本の思想』p170

  「人の存在を支えて行く組織」にするのではなく「よくしゃべる人、よくしゃべる働き手、よく書く書き手」テレビや新聞に出る人、賞を貰う人を有り難がる組織になってしまう。例えば、校長を公選する学校で、誰も予想しなかった人が選ばれる。初めは本人も含めてみんなが吃驚するが、やがてみんなが深く納得する。そういう人を立てることがなくなった。何故だろうか。 大学、研究会、学会・・・自立を旨とする組織でもそうなっている。グローバル資本が短期的利益に走り、世界を破壊しているときに、それと真っ向から対抗する運動を組織することが期待される大学、研究組織、学会、自治組織、新聞、までが、短期的成果でものを判断するようになった。
   結婚相手に求めるものが、性格の一致、価値観が一致、食べ物の好みや趣味などの一致に集中している。全て一致である。意見を同じくする者とだけ付き合うことは、狂信以外の何ものでもない。といったのはアランである。互いに何があろうと相手を理解したいという衝動、それが欠けた付き合いを恋愛と言えるのだろうか。違った立場から学ぶび、畏敬の念を持つ、そういう精神を忘れた者は教養を語る資格はない。
  学会や大学人事から結婚に至るあらゆる人間関係が、長く複雑な対話と理解の過程を回避している。その代償は寛容性の欠如、余りに大きい対価である。近隣諸国・民族へのヘイト言説はこのような状況と一塊になっている。

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