夢幻能に現れた「ハンセン病」の祖母

僕は桜の下で祖母が舞う夢を見る夢をみた
   僕の家系の身近なところに「ライ」(癩という病名には過酷な差別がまつわりついているとしてハンセン病の名称が採用された。しかし松本薫や島比呂志ら隔離を鋭く批判し続けた患者は、「癩」でなくては悲惨な現実を伝えられないと主張した)がいた気配を消せない。いたことを前提にしなければ辻褄の合わないことが山ほどあるのだ。その気配は、およそ20年前から次第に鮮明になり、資料や証言を方々に求めた。冷たくカビ臭いハンセン病図書館の床に座り込んで、彼女の消された僅かな手がかりを掘り出すのが日常になった。収容された患者は本名を捨てさせられたから名前で跡づけることは出来ない。父方の祖母である。祖母が「死んだ」時、「患者狩り」があった。その鹿児島県の患者分布を示すガリ版刷りしたボロボロの紙片に、祖母の住んでいた村の名を見つけたのは約年後だった。療養所の患者たちがつくる和歌や俳句を載せた小冊子の中に、祖母の住んだ集落名と名を組み合わせた筆名を見出したのは更に1年後。
 らい患者を隔離して絶滅させる目的でつくられた「ライ療養所」。その強制収容の発案者光田健輔は「十年で絶滅させる」と息巻いたが嘘であった。患者は刑務所囚人以下の待遇で、治療も無く収容施設内の労働に駆り立てられ命を落とした。日本にも強制収容所はあった、アウシェビッツより遙かに長く維持され。雪で凍てつく断崖の坂道を炭を背負って足を血だらけにするのが「療養所」であった。堪りかねて逃げ出せば、職員による制裁と「監房」が待っていた。特に草津「重監房」では、冬は零下数十度に凍てつき、収容された延べ93命中23名が殺されている。光田はここを特別病室と呼んだ。
 内務省は極めて伝染力の弱い「ライ」をペスト並みの怖い病気と宣伝、お陰で国中に蔓延した偏見と差別に抗する術もなく、祖父は彼女を他の病気で死んだことにし隔離収容施設に捨てた。その経過が、飛び飛びだが少しずつゆっくりと分かってきた。

 祖母は名前を奪われ、戸籍上は「死んだ」。しかし彼女に溺愛され「お母ちゃんッ子」であった僕の父は、そのことを祖父から知らされ、戦前戦後を通じて施設の近辺に学び、住み、見舞いを続けたことになる。それが祖母の「死んだことにする」条件だったのかも知れない。甘えん坊の父がそうでなければ承知しなかったのかもしれない。父は死ぬまでそのことを誰にも語っていない。僕の遠く微かな記憶の中に、祖母の見舞いに同行した光景が残っている。しかしそれは下車した駅と収容施設付近でいつも消えている。その後は父の背中か我が家で目を覚ますのだった。
 祖母は「らい」の症状がでた顔を孫に見せたくなかったのだと思う。祖母は療養所正門近くの面会所で僕を抱くことができたのだろうか。僕が小二の夏、祖母は他界したと思われる。

 それ以降父はひとが代わったように、仕事に全力を傾けるようになる。それまではどんなに好待遇で誘われとも、頑なに極貧の生活を続けた。ぼくが覚えているだけで差し押さえは三回。税務署員は電球や火鉢にまで札を貼った。夜逃げという言葉も知り、スラムに隠れ住む暗い夢に幾度もうなされた。
 生活は、一変した。僕は妹と鹿児島の祖母に預けられ、母は血を吐き結核療養所に入った。まだ結核は不治の病と見做されていた時期だ。父は福岡と東京に事務所を構え、アジア一とか日本一と呼ばれる様々な巨大構造物を設計し、傍ら数学の研究でも成果をあげていた。
 帰郷の夜行列車で、父は僕に骨壺を持たせた。「父ちゃんの友達だ、しっかり抱えているんだぞ」と言ったが、その骨壺を父は祖父の眠る墓にこっそり納めた。骨壺は祖母のものだったに違いないと僕は考えている。「死んだら故郷に」が祖母の父への遺言に違いない。僕はこの時初めて、それとは知らず祖母を抱いたのだ。


 7年前死んだ母の遺品整理中に、母が師範学校で使った地図帳が出て来た。中に二ヶ所手書きの印があり、一ヶ所が祖母を収容した「らい」療養所のある村に、もう一ヶ所は父が戦争中に朝鮮総督府鉄道局技師として歩き回った朝鮮北部山岳地帯。父と婚約していた母は、祖母の病気を知っていたのだ。遺品中に父に宛てた手紙が3通あり、困難を覚悟して結婚を心待ちにする内容であった。困難とは祖母の病ならば、母方の祖父母もそれを知っていたことになる。
 都合の悪い事実はかき消され、祖母は人々の記憶から消えた。僕の祖母の記憶は予め奪われたが、僅かな手掛かりが残ってていた。

 夢幻能の主人公のように、祖母が夢に現れた事がある。満開の桜の下で小学入学直前の僕の名を呼ぶ。「あな嬉しや、こんにった孫が吾が与えしランドセルを背負い来るという、嬉しや、嬉しや」と面をつけて舞う、母方の祖母と一緒に。そしてこの夢を見ている僕自身が「全生園」の桜の根元でうたたねしてているという二重の夢。夢の中の僕は「先生、先生、お待たせしました、お好きな酒を捜すのに手間取りました」「夢でもご覧になりましたか」とハンカチを差し出す若者たちに揺すぶり起こされるのであった。     つづく

成績の悪い生徒たちにこそ「ご褒美」

寒山拾得は仏教哲学に深く通じていたと言われる
 この国で、風狂の乞食坊主寒山拾得のような人物が愛され描かれ歌われることがありうるだろうか。一休宗純を思い浮かべるが、天皇の落胤である。日本人は人物そのものではなく、彼の家柄や来歴に関心を引き摺られてしまう。革命の歴史経験を持たない悲しさである。
 
 僕は臍も旋毛もが曲がっている。名門や閨閥の気配を感じると体全体が拒否反応をおこす。nhk大河ドラマの類は見たくない。「名門や閨閥」はなんやかんや言っても「やっぱりスゴイ」と言うのが、大河ドラマの一貫した主題であった。出演する俳優も嫌な奴に見えてしまう。
   意図して名門や閨閥を遠くに置かなければ、貧しく虐げられた者の表情は見えない、いや普通の人々さえ視界から消えてしまう。TVや雑誌を漫然と見れば、「血筋」のいい人間ばかりが意識に刻まれる。そればかりか、有名人は皆どこか「血筋」がいいと刷り込まれてしまう。
   設立の由緒や古さにおんぶしてお高くとまっている学校の周年記念誌は、いずれも見るもおぞましい構成である。明治開校以来の各界頂点に位置する卒業生の名前が、仰々しい写真付きでいきなり出てくる。例えば、○○伯爵令夫人とか×○提督令夫人という類。本人に功績があるのならまだしも、血筋=家柄だけをいうのである。女性蔑視も甚だしい、それを「男女平等」を言うべき公的学校が誇るのであるから滑稽で醜悪である。こういうところに「憲法違反」は潜むのである。いちいち尖らなければならない。
 

 人は誰も祖先の中に、大泥棒も天皇も被差別者も持つ。十数代も遡らぬうちにその時代の全ての人が祖先になる勘定だ。もっと遡れば白人も有色人も人類全てが、たった一人のおばあちゃんに辿り着くことが遺伝学的に確かめられている。
 家系図は都合のいい系列だけを選んだもの。恣意的に一つの筋を取り上げて、他を切り捨てる。切り捨てられ忘れられる者の方が圧倒的多数なのだ。都合の良い繋がりだけを「万世一系」と偽って崇めさせる。それ以外の人々はあたかも存在しなかったように、人々の記憶から抹殺される。祖先を選別し愚弄して何が祖先崇拝だ。日本には歴史修正どころか偽造の伝統がある。
 もし親や祖父母が、一族・家族の中で名門校に進んだ者やメダルを取った者だけを何時までも可愛がるとしたら、子どもや孫は愚連たくなるだろう。

  「学期末、通信簿を渡される日はほんとうにつらかった。兄も姉も妹も、みんな成績がよかった。ことにみいちゃんは負けずざらいで、一番でなければ絶対承知できなかった。ところが私はいつも中の部で、とびきりよいのはひとつもなかった。父は子供たちの成績表をみると、「一番成績の悪い子にご褒美をあげよう。一番つらい思いを我慢しているのだからね」と言った。私はまったくそのとおりだと思うと、父の心遣いにまたベソをかいてしまうのだった
                                       長岡輝子『ご褒美は成績の悪い子に』

 女優・長岡輝子の父親は英文学者であった。そして自覚せざる教育者であった。彼のような人間を文部大臣や公選制教育委員に持てないこの国はつくづく不幸だと思う。
 成績の悪い生徒たちに、どんなご褒美を我々は準備することが出来るだろうか。←click
 目先の成果を競い、成績や素行が悪い者に罰ばかりを与えて、成績の良い子たちから隔離することだけを画策しているのではないか。愚者にも出来ることだ。だから愚か者を文科大臣にするのかと納得しそうになった。


追記 肝心なのは、成績や素行の悪い生徒が偶にいい成績を取った時に、ご褒美をあげるのではないことだ。イチローが国民栄誉賞を断った。当たり前である、彼は既に存分の「ご褒美」に浴している。全ての野球playerがイチローのようであったら、どのイチローも凡人あるいは成績の良くないplayerに過ぎない。彼が輝いて見えるのは、成績の悪い同僚の支えがあってこそなのだ。一番辛い思いをしている人たちに対する想像力を持たねばならない。これは労働者も同じである。成果を出せなくて、辛い思いを続ける人への配慮こそ管理者の役目である。

まず自らの特権を破壊しなければ、権利への「闘争」は始まらない

 土田義雄(全生園患者自治会初代委員長)が感嘆した八路軍の規律が全兵士に受け容れられなければ、八路軍自体が中国人民に受け容れられなかっただろう。全兵士に規律の徹底をはかるには、将校の特権を廃止しなければならない。権利のための闘争の第一歩は、自らの特権の廃止でなければならない。
 日本陸軍二等兵の月給が6円の時(1943年)、軍曹30円、少尉70円、少佐220円、大将550円であった。このほか将校には当番兵や送り迎えの車がついた。食料や嗜好品にも大幅な優遇があった。
 この頂点に立ったのは大元帥天皇である。皇族の誰一人戦死していない。彼らは自らの「特権」のためだけに存在した。

 三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ」  渡辺清  

 東条ら軍中枢にとって「軍人勅諭」は、大元帥も遵守すべきという絶対性を欠いていた。常に自分たちだけは例外という「特権」の一つでしかなかった。 

 だから、負けて特権が消滅した途端、雨に打たれた張り子の虎よろしくへなへなと崩れたのだ。
 上陸する占領軍に向かって石ころ一つ投げた者さえない。日本人婦女子を襲う米兵に斬り込んだ者もない。まるで何もなかったかのように恩給生活に入ったのである。特権に塗れた者たちは、特権の維持だけに全精力を注ぎ込み必ず腐り果てる。
 
 ハンセン病療養所関係職員には、本給の他に24%の危険手当がついた(当初は16%だったが、患者の待遇改善そっちのけで、職員の特権だけは「改善」している)。らい予防法がもたらしたおぞましき費用である。この他にも、多くの特権があって驚天動地の不正の温床となっていたが、多すぎて書き切れない。他日整理する。
 全生園のある東村山では、条例で「らい患者と相対する職員への危険手当」を支給した。これらの手当は、危険手当が付く程の恐ろし病気という観念を職員・教師・市民に植え付け偏見を煽る効果を持っていた。同時に危険手当正当化の為には、ハンセン病は恐ろしい病気と言い続けなければならなかった。
 日本らい学会を、「らい業界」なのだと言った人がいる。的を射ている。人の不幸・絶望を利権化したのである。醜いのは病気ではない、制度である。これをおぞましいと言わずにおれるか。

 全生園に危険手当をよしとせず拒否し続けた職員があった。1985年、介護職員5名が「危険手当」への異議を申し立て、法務局に手当額を供託したのである。24%もの特権的手当を不当として放棄、職員の側から予防法に問題提起した意義は大きい。だが
次第に職員間で疎んじられ、支援も広がらず5人は退職に追い込まれた。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の行動提起はこれを受けてのことであったのか。先覚者の孤立・苦難である。
 長い間ハンセン病療養所では、地元農家の人々が雇われ、専門家は稀であった。一家数人で園に勤めたり農業収入もあり、組合には関心が薄かった。危険手当を拒否したのはこうした地元の人ではなかった。

 日本らい学会が世界の潮流から孤立してハンセン病者の絶対隔離に固執し続けた背景には、この特権としての危険手当がある。

 全生学園患者教師・武六ニ四(6月24日に生まれて六ニ四と名付けられた)は、軍人恩給を拒否している(彼は発病前、小倉の西部防衛司令部勤務だった)。
 ハンセン病療養所では、医療費ですら一般病院の僅か1/13に過ぎず、日用品費や食費に至ってはまさに奴隷以下であった。それゆえ軍人恩給受給者はハンセン病者にとって善望の的であった。患者は若いうちから強制収容されたから、年金などを手にする者は元軍人以外になかった。

 ハンセン病には女性が少ない。若い女性患者のもとには独身男性患者が押し寄せたが、女性たちは軍人恩給受給者に押し寄せた。
 武先生は、着るものにも頓着しない質素な生活を貫き、新しいものが手に入れば惜しまず人に与えた。豊かな教養と穏やかな人格に、派遣教師たちも敬意を抱いた。数学と実験と工作がうまかった。武先生は、特権を憎んでいたのではないか。(軍人恩給を申請すれば、ハンセン病罹患の事実が地元に知られ家族に迷惑が係ることを畏れたのだとも言われる。事実先生は家族に一切連絡をしていない。諦めず八方手を尽くしていた家族は、先生の死の間際ようやく面会出来たのである)
 特権の高みにある者は、皆との平等な権利に執着できない。自らを別して高みに置くことの危うさ見苦しさを見聞きするには、戦中の軍司令部勤務に勝る経験はない。そこには特権に胡座をかく将校と特権を求めて忖度・迎合する輩が溢れていた。皆と雑魚寝して同じ粗食に耐える丸裸の知性は、存在の証明を知識の根源的批判に求める以外に無い。ここに生まれるのが矜持である。集い語り学びあえば誰もが仲間であり、出自が優劣をもたらすことはない。そこに現れるのが知識人である。

 全生学園患者教師たちの矜持に満ちた生き方やピカイチの教育実践も、土田義雄の業績と同じように取り上げられることはない。だから僕は、『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を書かずにおれなかった。

患者教師ほど顕彰に値する人たちはない
 遅すぎるが、彼らの業績を顕彰すべきだと思う。
 新聞社の「教育賞」には、教師自身が自薦して校長会が審査するという、絶望的な構図がある。もし患者教師が生きていた頃新聞社「教育賞」があっても、自らを推薦することは絶対になかったに違いない。あらゆる栄典は、彼らハンセン病者を対象にした後初めて輝くものになる。

 逆境のなかで人知れず自尊の姿勢を崩さない者は、舞台の表面にあって浴びる脚光を反射している者とは違って、何の注意も払わずとも自動的に知覚されうるようなものではない、・・・密かに保つ精神的自立・・・隠然たる矜持・・・それらの・・・底深く隠された精神的本質に到達するには、共感と義侠心を含めたありったけの注目と眼光を・・・注ぎ込まなければならない・・・そうする時、当面の表面的世界が示す舞台装置を超えて─深みへと超えて─・・・普遍的価値が始めて姿を現すのである。 藤田省三のこの文章も患者教師の前ではなんとも力を失うではないか。なぜなら土田や患者教師たちの見せた「普遍的価値」は、いまだに「姿を現す」機会を閉ざされているからである。

   大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。 しかし、表裏一体論は、官僚内部の交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先さる風潮は官庁街を闊歩している。権利も人権も押さえつける力は「特権」である。しかも「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後のしかも「私的」見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   日本らい学会が予防法廃止決議に踏み切り、自己批判書を公にしたのは1995年4月。 1995年7月、島比呂志は弁護士へ書簡を送り、次いで「法曹の責任」を発表、ハンセン病者の人権救済を求めたのである。「らい予防法が人権無視、存在理由のない法律だといわれ出して、どれだけの歳月を浪費してきたことだろう。その間、患者がどれほどの被害を受けてきたことか、その苦しみは無実の死刑囚にも匹敵する。・・・黙認してい法曹界は(らい予防法)存続を支持していると受け取られても仕方があるまい。・・・傍観は黙認であり、黙認は支持であり加担である」島比呂志そう言い切った。九州の弁護士たちは、たちまちのうちに137名で弁護団を結成。「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が組織された。
 1996年、国会はらい予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定から89年もの歳月を浪費、分教室閉鎖から17年を要したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの特権は死守した。
 あろうことか、ライ学会が自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞してことを納めようとした。この時彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


記 身近で小さなことを考えたい。例えば生徒は教師の胸元を掴んだり、座席を無断で移動しただけで退学処分だ。他方教師は生徒の顔面を殴打しても蹴っても「指導の一環」や「熱血漢」で済んでしまう。これは生徒から見れば、卑怯極まる特権以外の何物でもない。学校が若者の権利獲得・擁護の前衛であるためには、教師の特権を、管理職の特権を、教育行政官僚の特権を先ず廃止しなければならない。これを止めるのは簡単である、ただ決意して実行すれば良い。それが出来ないのは、我々教師が旧軍人たちと同じように「特権」が生徒や授業より好きなのに違いない。せめて職員室の掃除は自分たちでやろう。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...