僕は桜の下で祖母が舞う夢を見る夢をみた |
らい患者を隔離して絶滅させる目的でつくられた「ライ療養所」。その強制収容の発案者光田健輔は「十年で絶滅させる」と息巻いたが嘘であった。患者は刑務所囚人以下の待遇で、治療も無く収容施設内の労働に駆り立てられ命を落とした。日本にも強制収容所はあった、アウシェビッツより遙かに長く維持され。雪で凍てつく断崖の坂道を炭を背負って足を血だらけにするのが「療養所」であった。堪りかねて逃げ出せば、職員による制裁と「監房」が待っていた。特に草津「重監房」では、冬は零下数十度に凍てつき、収容された延べ93命中23名が殺されている。光田はここを特別病室と呼んだ。
内務省は極めて伝染力の弱い「ライ」をペスト並みの怖い病気と宣伝、お陰で国中に蔓延した偏見と差別に抗する術もなく、祖父は彼女を他の病気で死んだことにし隔離収容施設に捨てた。その経過が、飛び飛びだが少しずつゆっくりと分かってきた。
祖母は名前を奪われ、戸籍上は「死んだ」。しかし彼女に溺愛され「お母ちゃんッ子」であった僕の父は、そのことを祖父から知らされ、戦前戦後を通じて施設の近辺に学び、住み、見舞いを続けたことになる。それが祖母の「死んだことにする」条件だったのかも知れない。甘えん坊の父がそうでなければ承知しなかったのかもしれない。父は死ぬまでそのことを誰にも語っていない。僕の遠く微かな記憶の中に、祖母の見舞いに同行した光景が残っている。しかしそれは下車した駅と収容施設付近でいつも消えている。その後は父の背中か我が家で目を覚ますのだった。
祖母は「らい」の症状がでた顔を孫に見せたくなかったのだと思う。祖母は療養所正門近くの面会所で僕を抱くことができたのだろうか。僕が小二の夏、祖母は他界したと思われる。
それ以降父はひとが代わったように、仕事に全力を傾けるようになる。それまではどんなに好待遇で誘われとも、頑なに極貧の生活を続けた。ぼくが覚えているだけで差し押さえは三回。税務署員は電球や火鉢にまで札を貼った。夜逃げという言葉も知り、スラムに隠れ住む暗い夢に幾度もうなされた。
生活は、一変した。僕は妹と鹿児島の祖母に預けられ、母は血を吐き結核療養所に入った。まだ結核は不治の病と見做されていた時期だ。父は福岡と東京に事務所を構え、アジア一とか日本一と呼ばれる様々な巨大構造物を設計し、傍ら数学の研究でも成果をあげていた。
帰郷の夜行列車で、父は僕に骨壺を持たせた。「父ちゃんの友達だ、しっかり抱えているんだぞ」と言ったが、その骨壺を父は祖父の眠る墓にこっそり納めた。骨壺は祖母のものだったに違いないと僕は考えている。「死んだら故郷に」が祖母の父への遺言に違いない。僕はこの時初めて、それとは知らず祖母を抱いたのだ。
7年前死んだ母の遺品整理中に、母が師範学校で使った地図帳が出て来た。中に二ヶ所手書きの印があり、一ヶ所が祖母を収容した「らい」療養所のある村に、もう一ヶ所は父が戦争中に朝鮮総督府鉄道局技師として歩き回った朝鮮北部山岳地帯。父と婚約していた母は、祖母の病気を知っていたのだ。遺品中に父に宛てた手紙が3通あり、困難を覚悟して結婚を心待ちにする内容であった。困難とは祖母の病ならば、母方の祖父母もそれを知っていたことになる。
都合の悪い事実はかき消され、祖母は人々の記憶から消えた。僕の祖母の記憶は予め奪われたが、僅かな手掛かりが残ってていた。
夢幻能の主人公のように、祖母が夢に現れた事がある。満開の桜の下で小学入学直前の僕の名を呼ぶ。「あな嬉しや、こんにった孫が吾が与えしランドセルを背負い来るという、嬉しや、嬉しや」と面をつけて舞う、母方の祖母と一緒に。そしてこの夢を見ている僕自身が「全生園」の桜の根元でうたたねしてているという二重の夢。夢の中の僕は「先生、先生、お待たせしました、お好きな酒を捜すのに手間取りました」「夢でもご覧になりましたか」とハンカチを差し出す若者たちに揺すぶり起こされるのであった。 つづく