『反乱するメキシコ』 1  常備軍廃止の思想的淵源

 

  ジョン・リードは『世界を揺るがした十日間』で1917年のロシア革命を生き生きと世界に伝えた。だが彼は、それより前1910年から10年以上も続いたメキシコ革命も取材している。それが『反乱するメキシコ』である。革命と貧農の結びつきが、生き生きと捉えられている。
 フエルナンド大尉は、立憲革命を目指すマデーロ派である。リードは彼らに仲間として迎えられる。

 フエルナンド大尉は身を乗り出して私の腕を軽くたたいた。
 「さあ、お前はこの男たちの仲間だ。われわれが革命に勝ったら、この男たちによる政府ができるだろう金持ちによる政府じゃない。われわれは今この男たちの土地を進んでいる。この土地は以前は大金持ちのものだったが、しかし、いまじゃわたしや仲間たちのものだ。」
 「そして君らが正規軍になるのかい」と私はたずねた。
 「革命が勝ったら」と驚くべき返答があった。
 「もう軍隊はなくなるだろう。みんな軍隊にはうんざりしているのさ。ドン・ポルフイリオが俺たちから搾り取ったのも軍隊があったからさ。」
 「でも、もし合衆国がメキシコに侵入するとしたら?」
 嵐のような反応があちこちに起こった。
 「俺たちはアメリカ人よりずっと勇敢だぜーいまいましいアメ公どもはフアレス市より南には来られまいよ。来るなら来てみるがいいさ。俺たちは奴らを国境を越えて追い返し、あくる日には奴らの首都を焼きはらってやるから!・・・」
「いや」とフエルナンドが言った。
「君たちの方が沢山金を持ってるし、兵隊も多い。しかし民衆は俺たちを守るだろうな。俺たちに軍隊は無用なんだ。民衆は自分の家や女たちのために戦うだろうよ。」
 「あなたたちは何のために戦っているんです?」と私はたずねた。旗手のフアン・サンチェスが不思議そうに私をみつめた。
 「なぜって、戦うのはいいことだ。もう鉱山で働かなくてもすむからな・・・!」(注1)
  ・・・一人の男が単調で、調子外れの歌をうたいだした。

 ・・・男が半分歌い終った頃には、部隊全員が曲に合わせてハミングしていた。そして歌い終ると、余韻の中で一瞬シーンとなった。
「俺たちは自由のために戦っているんだ」とイシドロ・アマヨが言った。
「自由とはどんな意味だ?」
「自由とは、自分でしたいことができるってことだ」
「しかし、それが他人を傷つけるとしたら?」
 彼はベニト・プアレスの偉大な金言で私に切り返した。
「平和とは他人の権利を尊重することである!」
 私はそのような答をまったく予期していなかった。この裸足のメスティーソのいだく「自由」の概念に私はびっくりした。
 「自分のしたいことをする!」これが自由の唯一の正しい定義であると私は述べたい。アメリカ人はそれを、メキシコ人の無責任さの例として勝ち誇ったように引用する。しかし私はわれわれアメリカ人の自由についての定義、つまり自由とは法廷が望むことを行なう権利であるという定義-よりも優れた定義であると思う。メキシコの学校の生徒は、だれでも平和の定義を知っており、それがなにを意味するかもかなりよく知っているように思える。にもかかわらずメキシコ人は平和を望まないと人は言う。それは嘘だ。しかも馬鹿げた嘘だ。アメリカ人よ、マデーロ派の革命軍のところまで来て、平和を望んでいるかどうか聞いてみるがよい! 民衆は戦争にうんざりしている。 ジョン・リード『反乱するメキシコ』


  フランシスコ・パンチョ・ビリャは、エミリアーノ・サパタと共にメキシコ革命を代表する天才的農民軍指導者である。彼は、妹を犯した役人を殺した16歳以来、22年もお尋ねとして政府に追われていた。学校に通ったことはないが、生来の正義感と明敏さで、革命の中心地チワワ州の軍政官になった。リードは、チワワでビリャにも会っている。

  ビリャもリードに次のように語っている。
 「新しい共和国が樹立された時には、もうメキシコには軍隊はなくなるだろう。軍隊は独裁の最大の支柱だ。軍隊がなけりや、独裁者もありえんね」
・・・「われわれは、軍隊を働かせるつもりだ。(注2)共和国全土に、革命軍の古参兵を集めた軍人入植地を作るつもりだ。州が耕地を与え、大きな工場をつくって古参兵を働かせる。
週のうち三日は、軍人は徹底的に働く。真面目に働くことは戦うことより重要で、真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ。そして残りの三日間は、軍事教練を受けたり、全人民に戦争の仕方を教えに出かけたりする。
そして祖国が侵略をうけた時には、メキシコ市の大統領官邸から電話がありさえすれば、半日でメキシコの全人民が起ち上がる、畑から、工場から、十分に武装し、装備も整い、よく組織された人民が、子供や家庭を守るために起ち上がるのだ」     ジョン・リード『反乱するメキシコ』

 画期的なのは、それまでは各個バラバラに政府軍と戦っていた革命ゲリラ軍指導者が会議を開いたこと、そして満場一致で将軍ビリャを革命軍総司令官に選んでいることである。
 この将校と将軍の言葉から、暴政に対するもっとも効果的な武器は、軍隊ではなく武装した人民であるということを、cuba革命やvietnam戦争より50年も前に、夜通しバラードを歌い踊り、ぼろをまとった、勇猛で陽気な農民兵士たちが、よく理解していたことを我々は学び知るのである。
 僕は、1948年12月1日、コスタリカ元首ホセ・フィゲーレスが、
 「コスタリカの常備軍すなわちかつての国民解放軍はこの要塞の鍵を学校に手渡す。今日から ここは文化の中心だ。第二共和国統治評議会はここに国軍を解散する」
 何故このように演説出来たのかが掴めないでいた。あまりにもあっさりしているからだ。
 だが、メキシコ革命軍の大尉と将軍の言葉から、ホセ・フィゲーレスの宣言が、いかに重いものであるかを知ることが出来る。そして中南米初の社会革命の精神が、根強く中南米各地の革命に受け継がれていることがわかる。つづく

(注1) 「チワワ滞在中に、リードはアメリカ人の経営する鉱山に行き、そこで以前に見たこともない貧しいメキシコ人労働者を見た。熟練工はみなアメリカ人で、度々起こるメキシコ人労働者のストライキを力で押えているということであった。リードは、その場を去る際に支配人から「アメリカ人の干渉を批判するようなことを書いたら、お前も生かしてほおかんぞ」とおどされたのであった」   『反乱するメキシコ』草間秀三郎・解説

(注2) 「皆さんのなかで、七月二六日にシエラ・マエストラへ行ったことのある人は、まったく知られていない二つのことを目撃したはずだ。オリエンテ州の、つるはしと棒きれで武装した軍、革命記念日には精一杯の誇りを持って、つるはしと棒きれを構えて行進に参加する軍、その一方で、銃を構えて行進する民兵の同志たち。」←クリック                                ゲバラ 1960年 公衆衛生省研修所での演説


子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる

子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。
summerhillの授業、左奥の白髪老人がAlexander Sutherland Neil
 「ソ連は教育上の自由、自治、創造を、大々的に振りかざして出発した。だがその後しだいに変化してきた。政府は次のような意味のことを言った。「これは大そうけっこうである。しかしわれわれは社会主義文明の建設を急いでいる。われわれは熟練した労働者、すなわち技師、教師、医師、支配人等々を必要とする。われわれは暇にあかして完全な自由を発展させることはできない・・・これはソ連がソ連の新制度を打破しょうとする多数の敵に取りまかれている結果であると、ソ連の支持者は考えようとする」ニイル著作集4                     
  「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、つねに同時に目的自体として扱わねばならない」カント
 人は、他と引き換えがきかない、序列化出来ない。つまり尊厳性がある。カントの定言命法を、軽々しくも社会的要請が退ける。確かに人類的社会的と言える要請が、個人を命を賭しての行動に駆り立てることがある。しかしそれは、個人の決意によるものでなれればならない、絶対に。
 社会が、会社に、クラスに、班になってゆく。集団がどんなに小さくなっても、個人は集団に寄与することを求められる。「個人主義」が組合でも教研でも否定的に語られ続けたのはそのためだ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は、みんなの「尊厳」を個人の「尊厳」の集合としてしまった。1個人の尊厳+1個人の尊厳=2個人の尊厳ではない。全員の尊厳-1個人の尊厳=ゼロなのだ、全員が一人であろうと1万人であろうと変わらない。
 自由が、あきるほどの暇があって漸く実現するものであれば、それは永遠に特権者の奇貨としておかれ続ける。
 
 70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。しかしその中身は、多数決による管理強化にすぎなかった。 
 「外見の自由は基本的人権であり、特定の高校に属することを理由に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服となれば、服装が特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
 「今の基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」という反論が直ぐにあった。大学で共に活動した仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」を言い出すものまであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
 事実全国的に高校が荒れはじめ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に就職してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。青少年の「荒れ」の現象の目まぐるしさに惑わされて、その実態や本質をつかめない不安が、教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷極まる事態を解決する万能の呪いのように思えたのだ。
 「基本的生活習慣」と言う漠然としたものが、なぜ服装で身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
 「学校が毅然として一致して生徒に迫るには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことを言う。ではいつ解除するのかと食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
 こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教師の「実践レポート」から授業が目立って減り始めたのである。
 もうあれから40年にもなる。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制しているのだ。

追記 工業高校がどこでも荒れていた訳ではない。この頃僕の勤務していた王子工高は、制服はなく生徒たちは私服であった。教師たちは定期的に校内で研究会を開き、授業と自治活動の改善に取り組んで、自由な「秩序」も保たれていた。それ故普通高校のベテラン教師までが、リベラルな職員集団と自由な生徒たちを実際に見て、自ら希望して転任してきていた。荒れている学校でもすべての生徒たちが荒れていたわけではないのだ。
  子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。ニイル

表現の不能・言論の不自由としてのヘイトスピーチ

僕にとって今年一番のnews は、「国際平和ビューロー」(IPB)が
2017年の平和賞を翁長知事ら「オール沖縄会議」に授与したことだ。

   暴走族は、誰に何を言いたいのだろうか、誰かを何かを憎んでいるのだろうか。ホームレスを襲う中学生はどうか。
 彼らの言葉を聞き・表現を受け止めるのは大人の義務であることを「子どもの権利条約」は宣言した。にもかかわらず世間は「非行少年」を厄介者扱いし厳罰を求め続ける、明らかに憎悪している。
 若者を日々抑圧疎外している面白くない現象、例えば親の失業・貧困、些細なことでの退学処分、居たたまれない選別の状況(近所や同級生・親戚の憎悪の眼差し・・・)は悪化するばかり。彼らのイライラ不安は募る。だが、それを言い当てる言葉を発見できない。現象の中に実態を掴み言語化することが出来ない。怒りや不安をぶつけるべき対象さえ見えない。たとえ言葉をぶつけるべき相手を前にしても、それを伝えることが出来ない。
 出来ないよう、学校も報道機関も行政も事柄の現象だけを扇情的に追う。カリキュラムがそう構成されている。少年たちは、正体不明の大きな力に取り囲まれ、しかも憎まれている。少年たちは、その不安・憤懣・恐怖を払拭するために、社会的弱者・周辺の人々に殊更攻撃的になるか、沈黙する。なぜなら、彼ら「社会的弱者・周辺の人々」こそが、少年達の未来を暗示して、少年達が最も意識したくない存在であるからだ。
 「私たちは、彼ら社会的弱者・周辺の人々ではない。なぜならその証拠に奴らを憎んで攻撃しているからだ。見てくれ、攻撃しているぞ」、という訳だ。でなければ無関心であろうと努める。無関心も深い闇を形成する。本来なら言葉を共有して、共通の相手に立ち向かうべき仲間を攻撃する。学校で家庭で職場で態度や外見をとやかく言われるたびに、自分に注目する華々しい場面や行為に走る。ヘイトスピーチの若者達は、こうして育てられ集う。
 ここにあるのは表現の不能であり、言論の不自由である。支配する側には、堪らなく「おいしい」光景である。それ故政府はヘイトスピーチを、表現の自由を持ち出して放置・擁護する。これが「遅れた」「反日」国家に向けられて、「愛国」意識を募らせ、平和への反感と戦力の誇示による大国意識を醸成することになる。この時日本を植民地のように隷従させている国への視線は、靴を舐めるような卑屈さに彩られる。闘う言葉の教育は焦眉の急務。言論の不自由の中に青年を隔離し続けてはならない。
 闘うとは、まずは知ろうとすること。既存社会に適応させる為に叱咤し「そんなことでは駄目だ」と恐怖させるのではない。
 就活へのアドバイスはもういい説教は聞き飽きた、仕事自体を求めて彼らと街へ出て歩き交渉しよう。言論の不自由に、大胆に駆け寄って言い分を引き出し聞こう。
 不正に「成功」した勝ち組の戯れ言に立ち向かい批判抵抗する言葉を青年が獲得すること、それは当面は身近な親や教師への怒りとして表出するかも知れない。彼らの言葉を聞き共に歩くことをしなかった大人への正当な怒りである。

 「彼ら」が憎しみに満ちて破壊的衝動に駆られるのは、世界から学校から家庭から職場から受け入れられず評価されず立ってさえいられないからである。だから破壊的憎悪の集団が、彼を取り込む。唯一の居場所となっている。
 我々は彼らを受け入れるに、根拠をを求めてはならない。例えば成績や行いがよくなったら、権威ある人物のお墨付きが出たら、・・・等という前提一切なしに受け入れねばならない。そうでなければ「社会参加」はあり得ない。
 自己が対象を定義するから主体的であり得る、対象が自己を決定してしまえば参加は義務と化す。今、学校の地域の企業の行政の「参加」は義務である。戦争という忌まわしい国家犯罪を、参加と呼ばせるのだ。

天皇が神なら、戦争でも兵隊が死なない、飛行機も落ちないはずでしょう  金子文子

 朴烈事件の予審判事・立松懐清の問い「天皇制に対してどういうふうに考えているというのか」に金子文子がこたえている。


 私はかねてから人間の平等ということを考えています。人間は人間として、平等であらねばなりません。人間の平等の前には、馬鹿もなければ、利巧もなく、強者もなければ、弱者もなく、地上における自然的存在としての人間があるのみです。そういう人間の価値は、完全に平等であり、すべての人間が人間であるというただ一つの資格によって、人間の人間たる生活の権利を完全に、かつ平等に享有すべきはずのものです。 具体的にいうと、人間によってなされたこと、なされつつあること、また、なされるであろうところの人間的行動は、すべて完全に人間という基礎の上に立っての行為であります。自然的存在たる基礎の上に立つ人間の地上における人間的行動は、ことごとく人間であるというただ一つの資格によって、一様に平等に承認さるべきはずのものです。しかるに、この自然的な人間的行為を人為的な法律によって、どんなにひどく歪めたり、否定したりしているかということを考えてごらんなさい。本来平等であるべきはずの人間が、現実の社会において、天皇というもののために不平等化されていることを、わたくしは呪うのです。 
 ・・・ 天皇が神様か神様の子孫であったら、歴代の神様たる天皇の保護の下に存在する日本の民衆は、戦争の際にも兵隊が死なないはずでしょう。日本の飛行機も落ちないはずでしょう。また神様のお膝元で、昨年のような大地震のために何万という忠良な臣民が死ぬはずもありますまい。ところが、戦争に行った日本の兵隊がよく死にます。飛行機もよく落ちます。お膝元に大地震が起こって、何万という人が惨死するのを、どうすることもできない天皇が、どうして神様だといえましょう。天皇が神様だなどということは、君権神授説の仮定にすぎません。すべての伝説は空虚な夢物語です。天皇が全智全能の神の顕現であり、神の意志を行うところの天皇が、地上に実在しておりながら、天皇の赤子は、飢えに泣き、炭坑に窒息し、機械に挟まれて惨めに死んでゆくのはなぜでしょう。それは天皇が神でもなければ仏でもなく、結局天皇に人民を護る力がないからです。 天皇の正体は一個の人間です。わたくしども人民とまったく同一な自然的存在です。平等であるべきはずのものです。・・・     金子文子(1924年5月14日 市ヶ谷刑務所にて)
奇っ怪なのは、金子文子ではない。
 「天皇制は神ながらの道そのものではないが、神ながらの道と容易にむすびつき、奇怪な軍国主義の成長を支えることができた加藤周一『親鸞』
   1903年1月25日~1926年7月23日。関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、朴烈と共に検挙され、十分な逮捕理由はなかったが、大逆罪で起訴され、死刑となった。後に恩赦で無期懲役に減刑されたが「天皇による恩赦」を拒否して刑務所長の面前で通知を破いている。奇っ怪なことに震え上がったのは所長であった。彼女は獄死。

  金子文子自身が、子どもの頃を振り返っている。
 私は小さい時から学問が好きであった。で、学校に行きたいとしきりにせがんだ。あまりに責められるので母は差し当たり私を母の私生児として届けようとした。が、見栄坊の父はそれを許さなかった。「ばかな、私生児なんかの届が出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん」 父はこういった。それでいて父は、私を自分の籍に入れて学校に通わせようと努めるでもなかった。学校に通わせないのはまだいい。では自分で仮名の一字でも教えてくれたか。父はそれもしない。そしてただ、終日酒を飲んでは花をひいて遊び暮したのだった。私は学齢に達した。けれど学校に行けない。 
・・・父はある日、偶然、叔母の店から程遠くない同じ住吉町に一つの私立学校を見つけて来た。それは入籍する面倒のない、無籍のまま通学の出来る学校だったのだ。私はそこに通うことになった。学校といえば体裁はいいが、実は貧民窟の棟割長屋の六畳間だった。煤けた薄暗い部屋には、破れて腸はらわたを出した薄汚い畳が敷かれていた。その上にサッポロビールの空函が五つ六つ横倒しに並べられていた。それが子供たちの机だった。 
・・・私立学校へ通い始めて間もなく盆が来た。おっ師匠さんは子どもに、白砂糖を二斤中元に持って来いといいつけた。おそらくこれがおっ師匠さんの受ける唯一の報酬だったのだろう。けれど私にはそれが出来なかった。生活の不如意のためでもあったろうが、家のごたごたは私の学校のことなどにかまってくれる余裕をも与えなかったためでもあろう。とにかくそんなわけで私は、片仮名の二、三十も覚えたか覚えないうちに、もうその学校からさえ遠ざからなければならなかった。叔母の店は夏の終りまで持ちこたえられなかった。二人はまた山の家へ引きあげて来た。家は一層ごたつき始めて、父と母とは三日にあげず喧嘩した。・・・     金子ふみ子『何が私をこうさせたか

追記 彼女がまともに教育権を享受していたら、東洋のアーレントになっていたと想像するのは荒唐無稽とは言えまい。小学校教育さえろくに受けていないが、翻訳・出版編集をこなすまでになっている。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...