社会的共通資本としての静寂や景観

静寂は万人の基本的権利
 NHKに「駅ピアノ」という番組がある。ヨーロッパや北米の鉄道駅や空港に置かれたピアノに小型カメラを設置して、通りすがりの老若男女が気ままに演奏する様を撮ったものだ。政権の御用聞きになり下がり、広告代理店や芸能プロダクション絡みの軽薄な番組だらけになったNHKらしくない。
  僕はNHKTVのチャンネルの一つは、一日中「駅ピアノ」でいいとさえ思う。視聴料金を納めない米軍のためとしか思えない米プロスポーツ中継専門nhkチャンネルは、即時中止でいい。
「駅ピアノ」は、いろいろなことを考えさせる教養番組である。
  
 第一は欧米の駅空間の美しさと静けさである。公共空間とは何かを考えずにはいられない。終着駅のホームに近い場所に置かれたピアノの演奏を邪魔する放送がない。日本なら、「エキナカ」の派手派手しい売店に埋め尽くされるような場所にピアノが置かれているのだ。
 旅行途中の高校生、残業帰りの保母、友達の結婚式帰りの若者、通勤客、引率中の教師、仕事に向かう職人、離婚したばかりの演劇家、・・・様々な人が立ち寄り、曲を奏でる。ホームレス風のうらぶれた人がピアノに向かう姿は、背筋は伸び、指は鍵盤を踊り、顔は歌い出さんばかりで感動的であった。刑務所でピアノを覚えた元受刑者は、駅ピアノを演奏中声をかけてきた女性と結婚した。一人で即興曲を弾いていて、いつの間にか連弾になることもあった。親方を兼ねる建設労働者が、ピアノを弾いた後語った言葉が印象的。「ピアノは磁石のようなもの、人と人を結ぶのです」
 二つ目は、芸術教育の厚さが根本的に違うことだ。ヨーロッパの高等学校の中には午後の授業がないところは少なくない。校内のここかしこから小編成の弦楽合奏が、静寂に溶け込むように流れてくる。卒業までに、少なくとも二つの楽器は演奏できるようにするところもある。だからいろいろな階層の人が音楽を嗜むのだ。駅にピアノを置けば、いろいろな人が演奏する。
 三つ目は、ピアノに向かう人も行き交う人も短パンにTシャツなどの軽装。それでいて、歴史的重みを滲ませる終着駅の雰囲気に違和感なく溶け込んでいる。徹底的に私人であることが、主権者としての市民を形成している。それが「公」である。東京駅や新宿駅なら、急ぎ足のダークスーツを着た勤め人や制服姿の学生が映り込む。そこにいるのは、市民ではなく従属した「社員」や隔離された「生徒」でしかない。

 部活のブラバンがメダルやランキングを競い、喧噪の中で青春を浪費するのとは大いに異なる。日本のブラバンは放課後になれば、楽器毎に学校中の部屋を占領する。喧しいこと限りない、他者の静寂への配慮は欠けらもない。活気だと勘違いしている。学校の中のどこにいても、読書会や実験や討論・相談など望むべくもない。


 弦楽四重奏は、指揮者もなく演奏者個人は常に全体と関わり部分となりきることはない。読書したり実験する仲間の邪魔をすることもない。これが、少なければ3年、長ければ10年続けば、個人の文化的素養は決定的な差をみせるに違いない。
 
 世界で最も多くピアノが家庭に置かれているのは、日本である。ピアノの大量生産大量消費には貢献をするが、音楽文化が生活に生きることはない。ピアノは駅に置かれれる前に喧噪とともに粗大ゴミとなる。
 新宿歌舞伎町界隈は、通行しながら会話することも出来ない。店頭や有線放送から吐き出される音の暴力。それを行政は賑やかさだと嘯いている。車の爆音、下水から立ち上る悪臭、目を眩ますような調和を欠いた色彩の宣伝で、まるで全感覚を苛み尽くす地獄の光景である。我々の生活で静寂に包まれる至福のひとときがどこにあろうか。葬式でさえ、葬祭業者のマイクが煩いのだから。日本に生まれたことの不幸を強く感じる。

 静寂や景観までが排他的に私有化されるこの国で、残る社会的共通資本は何か。医療も福祉も私有化され、次の葱鴨はどこだと鵜の目鷹の目で狙いを付けている。日本なら水か、海か、種子か、遺伝子か、宇宙か、天国と地獄か。現世の宗教は既に私有化されている。貧乏人は、恐怖におののき見るも憐れなな小墓に詰め込まれ、富と身分を持った者は豪奢な墓陵を作り他を睥睨する。こんな不条理を、許すものは宗教家ではない、神でもない。
 学校の休み時間の静寂を打ち破る教師による生徒呼び出しの放送も、公共空間を私物化するものであることを知らねばならぬ。僕が現役教師であれば、教科「公共」でこのことを論じてみよう。公共空間や公共資源がいかにして、私有化・私物化されるかを。

就職する前に社畜化して、嘔吐する前に過労死する我々の尊厳もどき

やけっぱちな気分が、私には似合っていた
 「六〇年代の、あのやけっぱちな気分が、私には似合っていた。なぜ?と問うことが出会いのはじまりとなる状況、「私」という制度への疑いが、そのまま政治的体制への疑問と釣り合う時代。私は、生きることにも心急ぎ、感じることも、急がるるという日々をすごしていたのである。
 いまは、嘔吐しようと口をひらくと、笑い声がこぼれてしまう。何ともしまりのない時代になってしまったものだ
」      1981年10月 寺山修司

  嘗て高校生達が教室で廊下で迫ってきたのも、「私」という制度への疑問だった。その多くは迫りつつある「進路」を巡る自己への嫌悪であった。進路こそは最初の政治体制・経済体制との対決であり、妥協であった。しかし今学生は、「私」という制度を、体制の部分として発見することで安寧を得ようと死にものぐるいだ。就職する前に社畜化する。嘔吐する前に「喜んで」過労死するのである。

  仔牛は生まれてひと月もすると、飼い主に向かってきてぐいぐい押して来る。

 高校生にとって尊厳とはなんだろうか。かわいい制服か、大会勝利の実績か、東大合格数か。個人の尊厳なんてどこにもない。尊厳までが偏差値別に分配されて、その結果を受け入れている。勉強もスポーツも容姿や家柄もいいところは、あらかた「名門」にさらわれ、その事実を肯定している。なぜなら彼等も成績や部活に到るまで推薦の種に、少しでも他人を出し抜くことに精を出した後ろ暗さがあるからである。勝ち組になるために一生懸命だった者が、負け組になったことを自然な成り行きと見なすのはあたりまえ。アフリカから拉致された世代のドレイは黒人であることの誇りを強烈に持っていたが、三代目になるにつれて、美しさや強さも含めて全ての価値は白人にあるとの世界観を受け入れてしまったという。尊厳の意識を持ったままではとても生きてはいられない日常であったのだ。
 若者も労働者もディオゲネスや狩野亨吉のような自足は思いもよらず、日々ますます消費地獄に生き埋めされる快感に歓喜する始末。高校生がそういう意識の入り口にあるという危機感を教師は持たねばならないのに、主幹主任教諭試験如きに目がくらんでいる。

 あのころ教師は何をしていたのか。一つ確かなことは、教師達の意識も勤務校の偏差値を上げることに向かい始め、進学説明会や中学校巡りをノルマ化したこと。つまり目の前の生徒達を置き去りにし始めたのである。教師は受験生に学校の誇大宣伝を、受験生は面接で自己美化を図る。その嘘に莫大な費用と膨大な時間を浪費する。教える側も教わる側も実態がない。実態のない世界に、友情も信頼もありはしない。ただ競争だけがある。生徒・教師双方とも感情は荒廃して批判精神は疲弊する。集団が競争して「尊厳」もどきが生まれると、個人の尊厳は次第に消滅する。

  締め切り前に仕事を始めないことは、この時代にあっては英断である。明日出来ることを、今日してはならない。一旦やってしまえば、あさってのことも来月のことも来年のことも、あの世のこともやりかねないのだ。生徒は文化祭の計画を一学期に提出し、教師は一年前に日程を教委に文書で届け出なければならない。家を建てればローンが払い終わらないうちにリストラされる。長生きすれば達者なうちに、「終活」を迫られる。この国の真面目なヒトは、自分の滅亡を怒りとして表せず美化して涙する。総玉砕の思想に幻惑されやすい。僅かな退職金やしみったれた年金さえ受け取る前に過労死してゆく。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...