やけっぱちな気分が、私には似合っていた |
いまは、嘔吐しようと口をひらくと、笑い声がこぼれてしまう。何ともしまりのない時代になってしまったものだ」 1981年10月 寺山修司
嘗て高校生達が教室で廊下で迫ってきたのも、「私」という制度への疑問だった。その多くは迫りつつある「進路」を巡る自己への嫌悪であった。進路こそは最初の政治体制・経済体制との対決であり、妥協であった。しかし今学生は、「私」という制度を、体制の部分として発見することで安寧を得ようと死にものぐるいだ。就職する前に社畜化する。嘔吐する前に「喜んで」過労死するのである。
仔牛は生まれてひと月もすると、飼い主に向かってきてぐいぐい押して来る。
高校生にとって尊厳とはなんだろうか。かわいい制服か、大会勝利の実績か、東大合格数か。個人の尊厳なんてどこにもない。尊厳までが偏差値別に分配されて、その結果を受け入れている。勉強もスポーツも容姿や家柄もいいところは、あらかた「名門」にさらわれ、その事実を肯定している。なぜなら彼等も成績や部活に到るまで推薦の種に、少しでも他人を出し抜くことに精を出した後ろ暗さがあるからである。勝ち組になるために一生懸命だった者が、負け組になったことを自然な成り行きと見なすのはあたりまえ。アフリカから拉致された世代のドレイは黒人であることの誇りを強烈に持っていたが、三代目になるにつれて、美しさや強さも含めて全ての価値は白人にあるとの世界観を受け入れてしまったという。尊厳の意識を持ったままではとても生きてはいられない日常であったのだ。
若者も労働者もディオゲネスや狩野亨吉のような自足は思いもよらず、日々ますます消費地獄に生き埋めされる快感に歓喜する始末。高校生がそういう意識の入り口にあるという危機感を教師は持たねばならないのに、主幹主任教諭試験如きに目がくらんでいる。
あのころ教師は何をしていたのか。一つ確かなことは、教師達の意識も勤務校の偏差値を上げることに向かい始め、進学説明会や中学校巡りをノルマ化したこと。つまり目の前の生徒達を置き去りにし始めたのである。教師は受験生に学校の誇大宣伝を、受験生は面接で自己美化を図る。その嘘に莫大な費用と膨大な時間を浪費する。教える側も教わる側も実態がない。実態のない世界に、友情も信頼もありはしない。ただ競争だけがある。生徒・教師双方とも感情は荒廃して批判精神は疲弊する。集団が競争して「尊厳」もどきが生まれると、個人の尊厳は次第に消滅する。
締め切り前に仕事を始めないことは、この時代にあっては英断である。明日出来ることを、今日してはならない。一旦やってしまえば、あさってのことも来月のことも来年のことも、あの世のこともやりかねないのだ。生徒は文化祭の計画を一学期に提出し、教師は一年前に日程を教委に文書で届け出なければならない。家を建てればローンが払い終わらないうちにリストラされる。長生きすれば達者なうちに、「終活」を迫られる。この国の真面目なヒトは、自分の滅亡を怒りとして表せず美化して涙する。総玉砕の思想に幻惑されやすい。僅かな退職金やしみったれた年金さえ受け取る前に過労死してゆく。
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