戦争は文化を滅ぼす・・・文化をして戦争を滅ぼさしめるべきが至当である

新憲法発布の年に、
ヒロヒトは99条に違反して
天皇メッセージを送っている。
  私たちはいままで世界の優れた国の人よりもおくれた考え方をしてきました。これからは世界のどこの国の人にもおくれをとらない考え方で、平和な開けたそして朗らかな国を作って行かなければなりません。そのためには国の政治を改めて、一番進んだ政治の形をとらなければなりません。この政治の形をとるために新憲法が生まれたわけであります。そこで皆さんが新しい憲法をまっとうする上に、どういう心構えが必要かと申しますと、私たちは自分でやったことには、自分で責任をもたなければなりません。  さてこの新憲法は、教育機会均等ということを定めてあります。これは皆さんと一番関係がふかいのです。いままでは金のある人は教育を受けられ、金のない人はなかなか教育を受けられなかったのです。  結局一番大切なことは、いままでは服従ということに重きをおいて来ましたが、それでは自分というものがほろびてしまいます。ほんとうの人間になるには、正しいちえ、また正しい考え方は、自分の中にあると信じきって、思う存分自分の心や腕を伸ばして世の中に立っていく、そのかわり、それがまちがっていたら、その責任は自分でとって、人のせいにしないという、心がまえが必要であります。    この心が日本人の全部にひろがってくれば日本は栄え、そうでなければ日本はだめになってしまいます。
 憲法担当国務大臣金森徳次郎「新憲法と小学生」1947年の5月3日(新憲法施行の日) 毎日小学生新聞に金森が寄稿。
  金森徳次郎は、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。戦前岡田内閣で法制局長官に就任したが、著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的と、右翼に攻撃され辞任に追い込まれている。

  新憲法施行の日の朝、金森が破れガラスの表戸を開けると、見知らぬ老人が立っていた。ビール一本とスルメ一枚を差し出し、涙声で喜びを述べ「引き揚げ者の一人」とだけ告げて、老人は立ち去った。金森は「生まれてから初めての興奮」を覚えたという。

 彼はこうも言っている。
  「戦争は文化を滅ぼすものであって、・・・文化をして戦争を滅ぼさしめるべきが至当である」
 文化を伝えるのが、学校の使命であることを忘れてはならない。

追記 金森は「いままでは服従ということに重きをおいて来ましたが、それでは自分というものがほろびてしまいます」と書いているが、不十分である。
 今までは、国民が政府に服従させられていたが、これからは「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が、この憲法に服従するのです」と書き加えねばならなかった。
 この1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して天皇メッセージがGHQに差し出されている。明確な憲法違反行為をヒロヒトは、こともあろうに憲法発布のその年にやってのけているのである。彼に戦争責任があることは勿論、戦後責任も免れ難く存在するのである。

理想のライオンはいない

  企業でも学校でも、採用する側は理想の若者や生徒がいると考えている。重役は独創的で協調性のある若者が、学校は文武両道の生徒がいると信じて採用活動をする。彼らの多くが、旧制高校や大学の話を持ち出す。あの頃の学生たちは、知的にも優れていたが、オリンピックにも出るほどの運動能力も兼ね備えていたと。それはスポーツする暇とカネのあるのは彼らだけだったからだ。すると、オリンピックに出ることまで求めはしないが、都大会を目指して練習に打ち込み受験にも励むのが過大な要求だとは思わないし、生徒もそれを理想としているという。
 会社の重役も似ている。創造性と協調性を兼ね備えた人材が欲しいという。

  強くて足の速いライオンはいるだろうか。いるに違いない、だからこそ百獣の王と言うのだと、言いたくもなる。しかし理想のライオンはいない。強いライオンとは破壊力が大きいことを意味し、顎が大きい。つまり頭が大きく、そのためには体も大きくなければならない。従って足の速いのは小型のライオンである。では、顎と足のバランスのいいライオンが優位に立つのか。どのような組み合わせが最適なのか、サバンナの状況は変遷してやまないから、組み合わせ自体が一定しない。
 期待されるライオン像などと言うものはないのである。様々なライオンが存在することが、ライオン界にとっては「理想」になる。
 あるとき、頑張るライオンが集まったことがある。獲物が多いと殺しすぎて、獲物そのものを減少させてライオンに餓死する個体が現れる。

  ライオンの品評会は開けない。豚や鶏には品評会もあり、人間の嗜好と経済性によって選別改良され金メダルが与えられる。豚や鶏は家畜であり、存在自体が人間に従属しているからだ。人間に金メダルがあるのを疑え。オリンピックだろうが、ノーベル賞だろうが、高校生の数学オリンピックだろうが、オスカー賞だろうが、人間をブランド豚扱いしている。考えてみろ。エリザベス女王やラーマ9世が、その国民に特別の感情を持って迎えられるのは、100メートルを9秒で走れたり、オードリー・ヘップバーンのように美しかったりするからではない。存在自体が尊いと思われているからである。東大法学部や医学部に入ったり出たりして、金メダルを並べて、へぇーと感心されるのは、この国では人間をその存在自体で重んじる精神に欠けているからなのだ。学校の正面に「△◇部○○くん、××大会出場」という垂れ幕をぶら下げることが、いかに見下げた行為かわかるだろう。「凡人」であることを誇れないのは悲しむべきことなのだ。皇室は、凡人だらけ、世界の王室も凡人だらけである。
 「期待される人間像」を偉そうにかかげた政府を持つことは、実に情けなく恥ずかしいことなのだ。
  サルトルはノーベル賞を辞退してこう言っている。
 「想像してごらんなさい。栄誉を得て、そしてその後転落していく作家と、栄誉はないが常に今一歩前進していく作家と、この2つの作家のうち、どちらが本当に栄誉に値するのでしょうか」
  王家やメダリストばかりが尊ばれているのは、「凡人」が軽んじられていることの裏返しなのだ。ベトナムのレ・ドゥク・トはノーベル平和賞を辞退して
「ベトナムにまだ平和が訪れていない」 
と言い切った。彼の脳裏にあったのは、フランスや日本との長い闘いを支え犠牲になった普通の人々、それこそが主権者、であったに違いない。脳天気に笑顔を浮かべて賞を受け取ったキッシンジャーとは天と地の差がある。

不幸な時代にわが精神を支えるのは誰か

 さいきん、軍備拡張の宣伝と軍需工業への不浄な投資という憂鬱な問題についてぼんやり考えていて、毎度のことだが、マシュー・アーノルドの詩「この不幸な時代にわが精神を支えてくれるのは誰かと、きみは質す」という一行を思い出した。        1934年フォスター「断想」

  ジョージ・ウォーカー・ブッシュは、アウシュビッツで使用された毒ガス(チクロンB)生産を行っていたIG ファルベンに投資。この投資で得た資金やナチスの資金を隠匿。その後ナチス幹部の逃亡の企てを行ったと言われる。ヒトラーへの投資を止めたのは、敵国取引禁止法案(1942年)が米議会通過後に過ぎない。強制収容所囚人から膨大な搾取は、犠牲者に返還されることなく、代々ブッシュ一族に受け継げられている。

  個人的な人間関係から始めれば、現代の混乱にも多少の秩序をもたらすことはできるのだ。人生をめちゃめちゃにしたくなければ人間がほんとうに好きで信じなければならず、したがって人に裏切らせないことが根本になる。人にはよく裏切られるものだが。そのためには、私自身がなるべく信頼に値する人間にならなくてはならず、そう心がけなければいけないということになる。だが、信頼は契約とはちがう。そこが、個人的人間関係と実務的な関係の相違である。 こちらは心の問題であって、文書に署名するような問題ではない。言いかえれば、信頼は自然な心の温かさがなければ成り立たないのである。たいていの人には、この温かい心がある。残念ながら冷えてしまうことも珍しくないにせよ。たいていは、政治屋のばあいでさえ、信義は守り「たい」と思うものだ。だからこそ、われわれはそれぞれのささやかな灯りを、たよりなく震えているささやかな灯りをかかげて、自分の灯りだけが闇のなかで輝く唯一の灯りではないこと、闇が負かすことのできない唯一の灯りではないことを信じられるのである。       フォスター『私の信条』1938年
  教師が先ず授業を好きでなければならない理由を、フォスターはうまく説明している。
 「自分の灯りだけが闇のなかで輝く唯一の灯り」という独断に教師集団は陥りやすい。教師集団と生徒の関係は、契約というには片務的であり、信頼は機嫌任せである。個人的人間関係が、信頼を育むのは確かだが、それは教員にあっては授業を基礎にしたものでなければならない。なぜなら教員がかかげる灯火とは、若者の知的成長を保証することであって汗や涙を流すことではない。裏切らせないことの基本は、あくまでもここになければならない。「不幸な時代にわが精神を支えてくれるのは」我が知性であり、他の誰かではない。

志賀直哉の終戦工作

 乃木大将殉死は、社会に衝撃を与えた。漱石は『こころ』を、鴎外が『興津弥五右衛門の遺書」を書いた。しかし、当時29歳の志賀直哉は、日記にこう記している。
志賀直哉・武者小路実篤・里見弴らの「白樺」は
学習院では禁書扱いであった。

 「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時「馬鹿な奴だ」といふ気がした。丁度下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」
 武者小路実篤は
「乃木大将の殉死は・・・残念なことに人類的な所がない。ゴッホの自殺は其処に行くと人類的の所がある。」
と『白樺』に書いている。乃木の硬直性、形式主義、徳目教育を嫌って、 ・・・人間本来の生命にふれない、人間本来の生命をよびさまさない・・・と酷評。夫人を道ずれにした乃木の精神性を痛烈に批判している。
 志賀直哉が学習院の生徒であったとき、乃木希典は学習院校長で多くの生徒に「うちのおやじ」と敬愛されていた。しかし志賀や武者小路ら『白樺』に集う者たちは、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑している。

 少年志賀直哉は海軍志望であったが、内村鑑三に出会い軍人を厭うようになった。徴兵検査は甲種合格。入隊後、柳宗悦を頼り軍医に診断書を書いてもらうことに成功し、たった9日で除隊した。難聴という診断であった。
 志賀は昭和天皇に屡々対面もし、天皇を「天子様」と呼んでいた。だが、戦争に対しては徹底して反対であった。志賀には、天子様をかつぎあげて、天子様を利用して国民を戦争にかきたてる軍人や政治家、それに端であおる人間たちが許せなかったと言われている。
 
 志賀を識る人たちが志賀を評して口にしたのは「立派で」「まっすぐで」「気持ちのいい」などの言葉である。志賀を前にすると、一様にその人間性に感心し深い尊敬の気持ちを抱いてしまう。一度彼に会った人間は再び志賀の人間にふれてみたくなり、「志賀詣で」がはじまる。
 「先生のまわりにはいつも清らかな風があるように思った。先生にお会いして帰るとき、いつも私は満ち足りた幸福な心持ちになっていた」        小林 勇『遠いあし音・人はさびしき』
 この志賀が戦中「秘密に終戦の工作をしていた」ことがある。戦争末期、志賀や武者小路ら文化人たちは、国民の悲惨さを憂え、戦争を早く終結させるために「同心会」をつくった。
 吉野源三郎によれば、志賀は相談だけではなく「実際の政治工作とひそかな結びつきがあった」。吉野は、腹をきめた志賀が秘密工作をしている男と会ったとき、相手の方がぶるぶる震えているのがおかしかったという後日談を志賀から聞いている。
 志賀は終戦工作に本気だった。彼は
「自分たちはもう老年なのだ。たとえ自分たちが死んでも、そのために子どもたちが仕合せに生きのびられるのだったら、そう願うのが本当だ」
と考えていた。
 志賀直哉の本分は「芸術としての小説」をみがくことにあった。志賀のめざすところは芸術により人に感動を与えることで、政治や思想を組織的に思索することは苦手で、関心がなかった。
 志賀は小林多喜二から送られてきた「蟹工船」を読んで、感心したと感想を書きながらも「小説が主人持ちである点好みません」と、思想が混じると芸術が弱くなる点を指摘する書簡を送っている。志賀は小説は芸術であって特定のまとまった思想を伝えるものではない、思想の表現は別の効果のある方法によるべきであるといった。
 志賀の作品に政治的思想的な匂いのあるものはない。およそそういうものから縁遠く、左翼思想などというものは右翼思想とともに、思想という括りで斥けるところがあった。彼はそういう類の判断はいつも直観によった。しばしばその直観が正鵠を射ることで、周囲の人たちは感心させられている。重厚な理論で武装したはずの左翼があえなく転向するのに比べて、生き方の深いところに自由があって動かない。
  
  「林達夫と久野収の対話」『思想のドラマトウルギー』(平凡社)によれば、戦争末期に、安倍能成、武者小路実篤、和辻哲郎など『心』グループに集まって、この戦争を終わらせるには天皇に直訴するしかない、と話し合っているうちに憲兵隊に嗅ぎ付けられた。縁の下で盗聴されたらしいのである。それを知った仲間が危ないからもうこんな会合はやめようということになった時、志賀が憤慨して
「われわれの息子たちが自分の責任でもない戦争に引き出されて命を犠牲にしているのに、われわれのような年寄りが、身の危険を案じてこんな会合さえやめようと言うのか。それでは余りにも不甲斐がなさすぎるじゃないか」
と言い、会は続けられることになった。これが、どんなに孤立して危険な決意だったかは、仏文学者渡部一夫が原爆投下一ヶ月前こう書いていることで分かる。
 「どの新聞を見ても、戦争終結を望む声一つだになし」『敗戦日記』
 戦後、前記のグループを中心にして『世界』が創刊(1946)された。安倍能成が「天皇制護持」を謳い文句に入れようとして賛成者も何人かいた、だが大内兵衛が真っ向から反対し、志賀が「そんなことどうでもいいじゃないか」と水をさして、「天皇制護持」は入れないことになった。更に志賀直哉は、
「年寄りばかりではダメだからとグループに共産党の中野重治や宮本百合子を加えることも提案し、みんなを困惑させたりもした」(佐高 信)
志賀直哉のこうした姿は、案外知られていない。

 英国の自由主義者も、ナチズムと徹底的に戦った。NHK海外ドラマ「刑事フォイル」(BBC制作、原題はFoyle's War )はそうした事情を良く描き出している。
 例えば、戦中もナチスと取引したり投資したりする米英の資本家が、犯罪に絡んだ取引で政治的に捜査を逃れようとするが、たった一人の部下と運転手しか持たない警視正フォイルはそれを許さない。確実に追いつめてゆく。そこがNHK前会長の神経をイラつかせたのか、突然不自然にうち切られ、会長が交代してまた再開している。反戦の労組活動家、良心的兵役拒否者、共産主義者と共に秘密活動する貴族、などが好意的に描かれている。フォイルの戦闘機乗りの息子も、オックスフォード大学では共産党員だったという設定である。
 「ゴーストップ事件」や小林多喜二がNHKテレビ小説で扱われることは想像だにできない。

「流言飛語」の言いがかりで禁固刑

岐阜・畳職・52歳――「こんなに働くばかりでは銭はなし税金は政府から絞られるし全く困ってしまった。それに物価は高くなるし仕事はなし、上からは貯金せよといって絞り上げる。実際貧乏人は困っている。よいかげんに戦争なんか止めたがよい。兵隊に行った人の話では全く体裁のよい監獄じゃそうな。兵隊もえらいしええかげんに戦争は止めたがよい。日本が敗けようと敗けまいと又どこの国になっても俺はへいへいといって従っていればよい。日本の歴史なんか汚れたとて何ともない。」(陸軍刑法第99条違反で禁錮6ヵ月)
福岡・理髪業・31歳――「皇軍兵士が戦死する場合無意識の間に天皇陛下万歳を叫んで死ぬ様に新聞紙に報道されているが、それは嘘だ。ほとんど大部分の者は両親兄弟妻子恋人等親しい者の名前を叫ぶということだ。」(禁錮5ヵ月)

 どちらも憲兵による弾圧である。
 1965年6月、米軍機がハンセン病療養所を爆撃、患者112人が死傷。8月には病院・結核療養所・師範学校などに無差別攻撃を加えた。また爆撃時に毒ガスも使用していた。
 この事実を現地で確かめ「「米軍が北ベトナム・クインラップのハンセン病病院を爆撃したことは、北ベトナムの撮影した記録フィルムから見て事実だ」と、大森実記者は1965年10月3日毎日新聞に記事を書いた。
 直ちに駐日米大使ライシャワーが「共産主義・警察国家の口車に乗せられた宣伝的報道」と流言飛語扱いをしたのである。
 なにが「流言飛語」なのか。禁じられ弾圧されたものこそ事実である。真実を語って禁固刑であれば、嘘を強制したものは極刑でなければならない。日本の敗戦総括はその過程を忘れ、誤魔化した。

 民主的政府は、真実を擁護し「流言飛語」を事実を以て反駁しなければならない。「在日特権」なる「流言飛語」が流布された時、官房長官は政府の声明責任者として、それが存在しないことを断言しなければならなかった。放置し続けることによって彼らは捏造に加担する。それは、社会科の教師にも言えることである。

 虐め自殺の情報が学校や教委から発表されるとき、その大方は事実からほど遠いという点で捏造である。志布志事件は警察ぐるみの犯罪捏造であることが、すでに裁判でも明らかになったが、捏造した当人たちの逮捕捜査は、未だにない。選挙のやり直しもしていない。
 戦前、選挙無効の判決が下ったことがある。1945年の鹿児島2区選挙無効事件である。翼賛議員同盟側の候補を当選させるために、政府・軍によるあからさまな干渉・妨害が行われた。大審院判決は「自由で公正な選挙ではなく、規定違反の選挙は無効となる旨を定めた衆議院議員選挙法第八十二条に該当する」として選挙の無効とやり直しを命じたのである。
 志布志事件は、国会自身が立法によって選挙無効を宣言すべきであった。       
 官製「流言飛語」は苦い過去や遠い世界の話ではない。共謀罪がそれを日常のものにする。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...