不幸な時代にわが精神を支えるのは誰か

 さいきん、軍備拡張の宣伝と軍需工業への不浄な投資という憂鬱な問題についてぼんやり考えていて、毎度のことだが、マシュー・アーノルドの詩「この不幸な時代にわが精神を支えてくれるのは誰かと、きみは質す」という一行を思い出した。        1934年フォスター「断想」

  ジョージ・ウォーカー・ブッシュは、アウシュビッツで使用された毒ガス(チクロンB)生産を行っていたIG ファルベンに投資。この投資で得た資金やナチスの資金を隠匿。その後ナチス幹部の逃亡の企てを行ったと言われる。ヒトラーへの投資を止めたのは、敵国取引禁止法案(1942年)が米議会通過後に過ぎない。強制収容所囚人から膨大な搾取は、犠牲者に返還されることなく、代々ブッシュ一族に受け継げられている。

  個人的な人間関係から始めれば、現代の混乱にも多少の秩序をもたらすことはできるのだ。人生をめちゃめちゃにしたくなければ人間がほんとうに好きで信じなければならず、したがって人に裏切らせないことが根本になる。人にはよく裏切られるものだが。そのためには、私自身がなるべく信頼に値する人間にならなくてはならず、そう心がけなければいけないということになる。だが、信頼は契約とはちがう。そこが、個人的人間関係と実務的な関係の相違である。 こちらは心の問題であって、文書に署名するような問題ではない。言いかえれば、信頼は自然な心の温かさがなければ成り立たないのである。たいていの人には、この温かい心がある。残念ながら冷えてしまうことも珍しくないにせよ。たいていは、政治屋のばあいでさえ、信義は守り「たい」と思うものだ。だからこそ、われわれはそれぞれのささやかな灯りを、たよりなく震えているささやかな灯りをかかげて、自分の灯りだけが闇のなかで輝く唯一の灯りではないこと、闇が負かすことのできない唯一の灯りではないことを信じられるのである。       フォスター『私の信条』1938年
  教師が先ず授業を好きでなければならない理由を、フォスターはうまく説明している。
 「自分の灯りだけが闇のなかで輝く唯一の灯り」という独断に教師集団は陥りやすい。教師集団と生徒の関係は、契約というには片務的であり、信頼は機嫌任せである。個人的人間関係が、信頼を育むのは確かだが、それは教員にあっては授業を基礎にしたものでなければならない。なぜなら教員がかかげる灯火とは、若者の知的成長を保証することであって汗や涙を流すことではない。裏切らせないことの基本は、あくまでもここになければならない。「不幸な時代にわが精神を支えてくれるのは」我が知性であり、他の誰かではない。

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