だいぶ昔の人力「SNS 」 / 僕らが失ったもの

  敗戦間もない1950年代、人々はどのように「社会的ネットワーク」を築いていたのだろうか。鹿児島の田舎、情報源は良くて地方紙と有線ラジオ。電話は壁掛けで余程の資産家でなければ手も出ない頃。

  1957年秋の事だった。町で一番高い山御在所岳を知った。クラスの男子の半数で日曜日に登る事になった。言い出したのは転校生の僕。

 前の晩、祖母たちは御在所岳がどんな山か教えてくれた。道順も細かく聞いて僕はその夜なかなか寝付ず、寝坊してしまったが朝起きると、弁当と水筒と手ぬぐいや下着が祖父の背嚢に準備してあり、祖母たちまでが浮き浮きしていた。孫が冒険する歳になった事を喜んでいたのか。そういえば背嚢には軍隊用のコンパスに加えて熊よけの鈴までがぶら下がっていた。

 だが集合場所に来たのは僕以外にたった一人。約束したはずの何人かを訪ねると、うな垂れて親と一緒に立っていた。そしてお説教を喰らってしまった。「子どもだけで御在所岳に登るなんて危ない。あんたんとこは父ちゃんも母ちゃんも居れば屹度反対したはず・・・」反応はどこも同じだった。

 僕は家へ走って、祖母に報告した。

 「男が一旦約束したことは、簡単に諦めてはいかんよ。まだタップリ時間はある。」祖母たちはそう言う。


  意気揚々と川を遡り、分かれ道の角の大きな農家に立ち寄る。そこから道は大きな杉林の中。

 「御在所岳はどっちな」と聞けば

 「何処の子ね」

 「築港の・・・」と言うと、繁々と顔を覗き込んで笑いながら僕の苗字を当てた。祖母や大叔母の知り合いだった。

 台所から蒸かした芋を持ってきて

 「持って行け」という。

 続く農家はそれぞれ見えない程離れていたが、道を聞いたり井戸水を呑ませて貰ったりしながら必ず立ち寄った。もし行く方不明になれば、立ち寄った農家の記憶が手掛かりになる。

僕はまず水平線を引いた

 山頂が近づくにつれて森は開け、山栗やグミや椎が生えていた。採って食べなが見晴らしのいいところに出た。眼下に築港や家々の屋根が小さく見える。遠くには桜島、大隅半島、枇榔ヶ島、学校もお寺も川も。馴染みの町が手に取るように見えた。母が入院している結核療養所も浜辺の大きな松林の中にみえた。今度はあそこに行こう、あそこには団子、あそこにはきれいな湧き水が・・・と言いながら、互いに追いかけ合い、背嚢からスケッチブックを取り出して絵を描いた。


  アッという間に陽が傾いた、大急ぎで弁当を広げ道を戻り森の中に入ると既に薄暗い。熊も出そう。不安になり、知ってる限りを大声唄っていると、後ろからヘッドライトを点けたオート三輪がやって来て、

 「何処まで行くか、乗れ」と乗せてくれた。この時程ホッとしたことはない。川べりに出るとまだ明るかった。築港の入り口で降りて、集落を見たとき町並みが小さく見えた。(映画『スタンバイミー』の主人公達が三日の冒険の後感じたのと同じ光景。そのことに気付いてハッとしたのは30年後のことだ。)友達と別れ家に帰ると祖母たちと妹が待っていた。休む間もなく、「風呂の水を汲まんね、沸かさんね・・・」と声がかかるが、風呂は既に沸いていた。

 山で描いた絵を見せると「そうじゃが、じゃが、療養所が判ったね。角の婆さんは元気だったね・・・」。

   クラスの男子半数で登っていたら、こんなスリリングな体験は出来なかった。

 数日後、大叔母は芋の茶巾絞りを土産に僕が立ち寄った農家を訪ねたに違いない。それは祖母たちの楽しみでもあった。

  今は遠くなった昔のSNS=社会的ネットワーク・・・捨てたものでは無いだろう。人と人を優しく繋ぐのは、道具ではない。snsが便利なるにつれて、いじめやハラスメント・殺人か頻発している。賢い使い方が出来ないのなら捨てた方がいい。

   近松の時代にも、伴大納言の世にも、いつの時代にもそれぞれの社会的ネットワークがあった筈だ。共通しているのは、時代に相応しい狭さと遅さである。

 速さ、広さ、多さだけの仮想現実に気をとられる時、我々は実体ある人間と自然を忘れている。遅さと狭さが人の思考を確実にする。  

 あの頃、夜空には天の川が見えた。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...