高校生と学校が争った判例・ブラック校則と闘うために 3

承前         拙著『法律をつくった高校生』国土社刊から抜粋・再構成


,「学生権利法」は,1974年度マサチューセッツ州法
第82条から第85条として成立した
 60年代頃まで、アメリカのほとんどの中学・高校でも髪形や服装のきまりがあった。男生徒の肩に届く長髪は禁じられ、女生徒を床にひざまずかせて、スカート丈を見る服装検査もあった。裁判になった例をあげよう。

△1969年、ブリーン対カール事件-2人の高校生が校則にそむいて長髪を続けたために、違反の長髪をやめるまで登校禁止処分をうけた。
 校則は「頭髪は洗われ、櫛がとおされていなければならない。また、後部においては、襟の線より下にさがらないこと。両側面においては、耳にかぶさらないように、また、前部においては、まゆ毛より下に垂れないよう整髪してお
くこと、ひげはそられていなければならないし、もみあげの長いものは許されない」というものであった。

△1972年、アーノルド対カーペンター事件-インディアナ州のある高校では服装規定が、高校生・教師・管理職によって構成される委員会によってつくられ、高校生の投票によって採択されていた。
 それを知りながら、カーペンターは親の了解のもとに、長髪を続けたため、級友と授業から隔離された。

△1965年、テンカー事件-メアリ・ベス・ティンカーは、ベトナム戦争への抗議のために、黒い腕章をつけて数人で登校した。これはベトナム戦争への、クウェーカー教徒の抗議運動の1つであった。テンカーらは、帰宅を命じられ、この抗議行動が終るまで登校を禁じられた。

△1971年、ロレッタ事件-アメリカにはN.H.S.(National Honor Soclety)とよばれる組織がある。成績・奉仕・人格・指導性のすべてがすぐれた高校生を推薦し、奨学金・大学入学など特典を与えられ、卒業式では特別席にすわることができ、大変な名誉と考えられている。ロレッタ・ワートは、3年生の時に学費を自ら稼ぎながら、オールAの成績をとり、N.H.S.会員になり懸命に活動をしていた。だが4年生になって、未婚のまま妊娠したロレッタは、「妊娠した以上人格・指導性に疑いがある」と校長からN.H.S.を脱会しなければ除名すると通告をうけた。

△1970年、スコヴィル対ジョリエット町教育委員会事件一学校当局の認可をうけていない新聞を、校内で配布したとして、2人の高校生が退学処分をうけた。

 ここにあげた裁判の判決をみてみよう。

△1969年,ブリーン対カール事件一学校側は,校則違反は学校を混乱させ,学校の権威を傷つける,教育は権威への敬意を教えねばならぬと主張した。判決は,男子生徒の長髪が,注意散漫や成績低下をもたらすことは,立証されていないとしたうえで,長髪を選ぶ生徒の権利は,合衆国憲法の保障する表現の自由,個人の自由,プライバシーの権利に属するとした。さらに判決は,学校は憲法上の権利を制限する場合には,それにより優越する利益の根拠を示さねばならないとし,生徒側の勝訴となっている。

△1972年,アーノルド対カーペンター事件一判決は,たとえ校則採択手続きに生徒が参加した民主的なものであっても,頭髪の自由など憲法上の権利を制限するにあたっては,それを理由づける根拠-たとえば学校環境の重大な混乱の合理的予測が必要として,高校生側の権利を認めた。

△1965年,ティンカー事件-1992年の大統領選挙戦で,クリントン候補が学生時代ベトナム反戦活動をおこなったことが,ブッシュ陣営にとりあげられ問題化したことに示されるように,アメリカでも自国の戦争に,堂々と反対を表明することは,難しいことであり,非常に勇気を要することである。13歳の少女がそれを地域社会の非難の中やってのけたのは,まさに戦争中のことであった。
 同じような事件は他でもおこった。この事件の判決は,1969年連邦最高裁で確定している。この判決で中学生や高校生にも,一般市民と同じように合衆国憲法修正1条の保障する表現の自由があることを,連邦最高裁は認めた。中学生,高校生も自己の言論,表現の自由を校門の外においてくる必要はないのである。大人がベトナム反戦の意志をあらわす,腕章やバッジ,ゼッケンをつけて歩けるように,中学生もまた,学校で反戦の意見を,バッジや腕章で表明できるのである。←クリック

△1971年,ロレッタ事件一口レッタは,妊娠がN.H.S.会員資格を失うほどのことなのか,また妊娠した女の責任は追求されるのに,なぜ妊娠させた男は問われないのかと疑問を提示し,N.H.S.からの脱会に応じなかったために,除名された。事件は ロレッタの提訴により法廷に持ちこまれ,3年後,連邦裁判所は妊娠を理由にN.H.S.からの除名は性差別であり,除名処分は無効であるとした。

△1970年,スコヴイル対ジョリエット町教育委員会事件-ティンカー事件の判決は,高校生の憲法上の権利が制約されるのは,教育活動に実質的な混乱が生じることを,学校側が証明できる場合に限るとした。この事件でも判決は,高校生は憲法上の権利の主体であると認め,退学処分を違憲であるとしている。

 Massachusettsの高校生も,憲法や法廷が高校生の権利を守ることを,知らなかった。知らなければ,不当な扱いをうけても不本意ながらあきらめるか,不満をかかえてイライラして八ツ当りしたり,社会を恨んで破壊的な行為にはしりたくもなる。
 自分を守る法や制度があることを知るだけで希望が持て,自分や社会への誇りと信頼感を失わずにすむのである。
 この法を取り上げた記事は、こう書いている。
 「『学生権利法』という州法を作るのがいちばんいい,と高校生たちは考えた。紹介議員になってくれる人をさがし,法案をまとめ,議会を傍聴し・・・。半年後『学生権利法』が成立した(1974年)。『生徒自身が身をもって民主主義を学んだのです』」 (朝日新聞 1986.2.26)

 アメリカ合衆国憲法は,教育には一切言及していないことから,教育は,州にまかせられた事項であると考えられている。したがってアメリカの公教育は,州ごとにまたは市ごとに郡ごとに特色を持ち多様である。
 法案は,議員提出によるものと,政府提出のものがあるが,アメリカは連邦議会,州議会ともに圧倒的に議員立法が多い。高校生たちは,州議会に足をはこび,「学生権利法」への理解を求め,法案提出をひきうけてくれる紹介議員を,さがしたのである。高校生たちの熱心な説得に,議員たちは支持を約束した。
 その間に高校生のつくった法案は,より整理されたものに練り上げられ,議会にかけられその審議過程を高校生は,熱心に傍聴したのである。
 こうして,「学生権利法」は,1974年度のマサチューセッツ州法第82条から第85条として成立した。
 高校生評議会の結成が1972年,法の成立が1974年,わずかの間に,これだけのことをやりとげることができたことに注目したい。

 高1でこの間題にかかわった高校生が,卒業する前に成果を見ることができる。今,生徒たちが日本の高校で何か改革を目指しても,手続きと裁判に時間がかかりすぎて,在校中に解決というのは絶望的に難しい。だからいつもしらけてしまう。


Massachusetts「学生権利法」はどうつくられたか・ブラック校則と闘うために 2

承前    拙著『法律をつくった高校生』国土社刊から抜粋・再構成
 
教科書「民主主義」は閣僚・裁判官・官僚・議員
が読み、国民がその学習具合を点検しなければならない
 Massachusetts『学生権利法』が生まれたのは、高校生たち自身の取り組みの結果。70年代はじめ、各地で高校が荒れていた。校内暴力、中退者の増加、異人種の生徒間の暴力事件……。学力の低下も深刻だった。
 1949年の調査によると、アメリカの高校長の悩みといえば、「虚言と不敬」が最も重大な問題で、数のうえでは「無作法な行為」「廊下を走る行為」などが問題となる程度でしかなかった。
 1956年の調査では、大都会教師の28%が、1年間に教師に対する生徒の暴力を目撃したことを示し、校内暴力持にスラムにおけるそれの始まりをとらえている。
 1977年FBIは、青少年犯罪の増加を報告している。15~18歳の青少年による殺人・強姦・強盗・傷害という対人犯罪の逮捕率が、1953年には10万につき85人であったのが、1974年には295人に増加している。また同年代による建造物侵入・窃盗・器物破損・放火の対財産犯罪は、1953年に10万人あたり160人であったものが、1974年には520人にふえ、その影響は学校も例外でなくなった。
 アメリカでは、麻薬の大部分は、学校内で購入することができる。アメリカは、十代の麻薬問題で最も大きな悩みをかかえている。
 非行による損害額は、1970年から73年当時年間5億ドルにも達していた。
 またニューヨーク市の統計によれば、1973年から74年にかけて、学校関連犯罪の増加率は次のとおりである。
  窃盗 136.2%
  麻薬使用  86.5%
  性犯罪  52.6%
  暴力行為  44.9%
  不法侵入  42.1%
  強盗  33.5%
  武器所持  26.4%
 1972年1年間だけで、ニューヨーク市では、496件の教師を襲う事件が報告されている。警官が学校によばれたケースは、1973年の1月から7月までで5530件。
 そのために教員連盟は「教師と生徒の安全確保のための手引き」を1974年に作成して、高校生に襲われた場合の措置をマニュアル化したほどである。1973年にフロリダ州は、学校内暴力による器物破損、運営妨害に年間185万ドルを支出している。

  なぜ荒れるか高校生自身が考える

 アメリカでは教育行政は、州単位。マサチューセッツ州は、荒れる高校を前にして、管理を強めるという方法をとらなかった。なぜ荒れるのか。それを生徒たち自身に考えてもらう方法を選んだ。きわめて異例、当時の教育長が進歩的な人だったからでもある。教育委員は住民による公選であるから、教育に対する住民の意志は、教育行政に直接反映する。
 かつて日本でも、戦後民主化政策の一環として、自治体の教育委員は、住民による選挙で選出されていた。1955年、知事による教育委員の任命、教育委員会の長である教育長については、さらに文部大臣による承認を要することになった。そればかりか、教育委員会の予算原案の提出権まで奪われたのである。
 このことは荒廃する学校・高校生に対し押しなべて管理的方法が導入された日本と、マサチューセッツのちがいの条件となっている。
 マサチューセッツ州には400ほどの高校がある。各高校から選出された代表によって構成する生徒評議会が結成されたのは1972年。
 全体会を月1回、地域ごとの会合は、頻繁に開かれた。とくに暴力のひどかったボストン市中心部の高校では暴力行為のリーダーを評議員として意識的に選んだ。

 欧米では、学校や教育行政に父母・生徒・学生・住民が直接関与するシステムがある。
 たとえば、フランスやイタリアの高等学校では、学校評議会が学校内の最高決定機関であることが、法律で定められている。その構成員は、行政・事務代表・教員代表・親の代表・高校生の代表・地域の代表からなっており、教員評議会はその下部組織となっている。
 カリキュラム編成・高校生の処分の他、学校予算・決算も学校評議会の権限である。(フランスの制度は1989年のジョスパン法によってさらに前進、後述するがこの前進は、フランスの高校生が自ら闘いとったものである。)
 アメリカでは、地域によって様々な高校生参加方式が、こころみられている。たとえばニューヨークでは、市内の高校に教員・高校生・父母のそれぞれ5名から構成される諮問委員会を設置し、高校生が学校運営に参加している。
 マサチューセッツ州では、教育政策決定に高校生が参加する公式の仕組みがつくられ、高校生の代表が、教育委員会と同じやり方で論議を重ね、その結論を教育委員会に提案する。提案された事柄がどう取り扱われたかについて、高校生は公式の回答をうけとることが定められている。
 こうした民主的風土の中で、話し合いが開かれたのである。
 どんな話し合いが開かれたのか、想像するしかないが、代表の中には優等生も、暴力行為のリーダーも含まれていたのだから難行したに違いない。優等生にとって、暴力をふるい学校の秩序を乱し、名誉を傷つける高校生は、単に勉学の妨げでしかなかったかもしれない。処分を重くし、管理を強化することを望んだ意見も、少なくなかっただろう。
 「話しあううちに、学校がちがっても、抱えている悩み、問題は同じだ、ということがわかってきた。ひとことでいえば、生徒の不満は『生徒が人間として尊敬されていない』ということだった。

  今日本で、ブラック校則が問題になるのは、高校生が荒れているからではない。
 警察庁の調査によれば、2015年中に刑法犯として検挙・補導された少年(14~19歳)の人数は約3万8,900人で、12年連続の減少となり、戦後最低を更新している。
 荒れていることを理由に、管理を強めることでさえ正当とは言えない。まして荒れてはいないのに、ブラック校則は増殖して偏在する。ブラックな校則は、いったい誰のどんな行為や態度に対応しているのだろうか。こんな理不尽があるだろうか。『人間が人間として尊敬されない』状況が作り上げられているのではないか。  つづく

 

Massachusetts「学生権利法」・ブラック校則と闘うために 1

18歳は投票するだけか。法をつくりそれを行政や学校に
守らせる主体でもある。それが主権者であるということだ。
 拙著『法律をつくった高校生』国土社刊から抜粋・再構成した。
① 表現の自由 生徒には新聞、出版物を通じてする発言、生徒会で直接する発言の自由が保障される。 
② 外見の自由 生徒は、健康・安全・清潔を侵さない限り、頭髪と服装の自由が保障される。 
③ 校外での行動 校外で何か罪を犯して逮捕されても、それを理由に退学・停学になったり、登校を拒否されることはない。妊娠した場合も同様。 
④ 法の遵守 各学校は、この学生権利法に準拠して校則を決めなければならない。

 これは、1974年にアメリカ、マサチューセッツ州で成立した「学生権利法」(Right and responsibilities of public secondary school student)と通称される正規の法律である。わずか4条で構成されている。
 注目すべきは、これが高校生自ら非行や麻薬・暴力で荒れる高校をたてなおすために、まとめあげたものだという点である。高校生はまとめ上げた法案を議会に持ち込んで議員を説得、議員たちが取り上げ審議して可決したのである。その州法に学校運営は拘束されることになった。憲法も法律も、人々を縛るものではない。権力を行政をコントロールする、民衆の武器でなければならない。

 「みんなの努力でお互の幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標である。・・・それが民主羊義である」(注)とすれば、荒廃した自分たちの学校を再建しようと才能や長所を発揮し、高校生たちの幸福を実現する行為は、民主主義の学習であると同時に実践である。 

 「民主主義は、本で読んでわかっただけでは役に託たない。・・・人間の生活の中に実現された民主主義のみが、ほんとうの民主主義なのだからである」(注)

 注目すべき点はまだある。高校生たちの討論が組織されたのは、1972年。州法として成立したのは1974年であることだ。Massachusetts州だけではなく、現在ほとんどの州に同様の州法がある。
 我が国では、たかが靴下の色や刺繍をかえるのに三年以上かかったりする。これを「民主主義は時間がかかる」と言って賞賛する向きもあるが、かえって「民主主義に期待しない」層を増やしてしまう。それは投票率の低さに表れている。                                                                         つづく

 (注)1948年から1949年にかけて当時の文部省が、高校一年生に向けて発行した教科書「民主主義」から引用した。敗戦直後の文部官僚の姿勢は、現在の文科省からは想像だに出来ないほど進歩的であった。

(Right and responsibilities of public secondary school student)の州政府によ解説はここにある。


『反乱するメキシコ』 2  cuba革命思想的淵源

承前
もし先生の教えをうけなかったならば、
私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないか。
 リードはビリャの印象的な言葉や行動を記録して、『反乱するメキシコ』に効果的に散りばめている。その中に、ラテンアメリカの革命に共通する精神を見ることが出来る。

 ビリャの説明によると士官は教育があるのだから、もっと善悪の判断がつくはずだと言う。しかし、政府軍の兵卒は釈放した。その理由は、彼らの大部分が徴兵されたのであり、当人たちは祖国のために戦っていると考えていたからであった。・・・
 「戦争法規」のことなど、聞いたこともなかったにもかかわらず、ビリャ軍はメキシコの軍隊のなかで唯一の効果的な野戦病院列車を備えていた。それは内部をエナメルで塗装した40台の有蓋貨車からなり、手術台と最新式の外科器具を備え、60人を超える医者と看護兵が乗り込んでいた。戦闘のあった日には、重傷者を満載した列車が、前線とパラール、ヒメネス、チワワの基地病院の間を往復した。彼は自分の部下とまったく同様に、政府軍負傷兵の面倒も看た。
補給列車の前には、もうひとつ別の列車が走った。この列車は、ドウランゴ市とトレオン市周辺一帯の餓死寸前の住民に施すため、2000袋の粉と、コーヒー、とうもろこし、砂糖、煙草などを積んでいた。

 兵卒たちは、ビリャの勇敢さ、粗野でぶっきらぼうなユーモア故に、彼を崇拝した。いつも使う赤い車掌車の中で、床や椅子やテーブルにくつろいでいる20人ほどのぼろ服の兵卒たちと、簡易ベッドに前かがみに坐りながら親しげに冗談をたたいている彼の姿をよく見かけた。
 部隊が乗車したり下車したりする際には、ビリヤ自らカラーのついていない古い汚れた服を着て現れ、ラバの腹を蹴とばしたり馬を押したりして、家畜用貨車に乗せたり降ろしたりした。
  
 ビリャが情熱を傾けたのは学校だった。民衆への土地分配と学校が、文明社会のあらゆる問題を解決するだろうと、信じていたも彼は学校にとりつかれていた。ビリャが言うのを私はよく聞いたものだ。「今朝、どこそこの街を通ったら子どもたちが大勢いた。あそこに学校を建てよう。」
 チワワ市の人口は4万たらずだった。そこヘビリャは、いろんな機会に、50以上の学校を建てた。
 チワワ州政府を掌握するとすぐさま、軍に発電所、市街鉄道、電話、水道、それにテラサス家の製粉所を運営させた。没収した大農園にも兵士を派遣して管理させた。屠殺場にも兵士を配置し、テラサス家の牛肉を売って政府の収入にした。1000人の兵士を警察官として市場に配し、死刑をもって盗みや軍隊への酒の販売を厳禁した。酔った兵士は射殺された。彼は兵士を使って醸造所さえも運営しようとしたが、専門のこうじ職人が見つからず、失敗した。「平時に兵士たちをうまく扱う唯一の方法は、働かせることだ。暇な兵隊は、いつも戦争のことばかり考える」とビリャは言った。

  もしビリャが暗殺されなければ、・・・と思わずにはいられない。そしてコスタリカやキューバにおける教育と医療の成功は、ビリャの政治的感覚に流れるものと通底しているからこそではないか。

   リードがハーバード大学の恩師に宛てた書簡がある。
  「・・・もし先生の教えをうけなかったならば、私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないかと考えずにはおられませんでした。
 ・・・すなわち先生の話に耳を傾けることは、目に映つる世界の背後に隠された美を見出す術を学ぶことであり、また先生の友人であることは、知的に誠実であろうと努めることなのだと。・・・」
                                      ジョン・リード『反乱するメキシコ』大学恩師への献辞

  雨のように銃弾が飛び交い夜を徹して歌い踊る農民兵士たちの喧騒の中で、何がこの革命の実態で本質なのかを咄嗟に記憶して構成記録する、ジャーナリストとしての基礎を彼は大学で磨いた。我々が生徒に保証べき学力も、こうでありたい。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...