『反乱するメキシコ』 2  cuba革命思想的淵源

承前
もし先生の教えをうけなかったならば、
私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないか。
 リードはビリャの印象的な言葉や行動を記録して、『反乱するメキシコ』に効果的に散りばめている。その中に、ラテンアメリカの革命に共通する精神を見ることが出来る。

 ビリャの説明によると士官は教育があるのだから、もっと善悪の判断がつくはずだと言う。しかし、政府軍の兵卒は釈放した。その理由は、彼らの大部分が徴兵されたのであり、当人たちは祖国のために戦っていると考えていたからであった。・・・
 「戦争法規」のことなど、聞いたこともなかったにもかかわらず、ビリャ軍はメキシコの軍隊のなかで唯一の効果的な野戦病院列車を備えていた。それは内部をエナメルで塗装した40台の有蓋貨車からなり、手術台と最新式の外科器具を備え、60人を超える医者と看護兵が乗り込んでいた。戦闘のあった日には、重傷者を満載した列車が、前線とパラール、ヒメネス、チワワの基地病院の間を往復した。彼は自分の部下とまったく同様に、政府軍負傷兵の面倒も看た。
補給列車の前には、もうひとつ別の列車が走った。この列車は、ドウランゴ市とトレオン市周辺一帯の餓死寸前の住民に施すため、2000袋の粉と、コーヒー、とうもろこし、砂糖、煙草などを積んでいた。

 兵卒たちは、ビリャの勇敢さ、粗野でぶっきらぼうなユーモア故に、彼を崇拝した。いつも使う赤い車掌車の中で、床や椅子やテーブルにくつろいでいる20人ほどのぼろ服の兵卒たちと、簡易ベッドに前かがみに坐りながら親しげに冗談をたたいている彼の姿をよく見かけた。
 部隊が乗車したり下車したりする際には、ビリヤ自らカラーのついていない古い汚れた服を着て現れ、ラバの腹を蹴とばしたり馬を押したりして、家畜用貨車に乗せたり降ろしたりした。
  
 ビリャが情熱を傾けたのは学校だった。民衆への土地分配と学校が、文明社会のあらゆる問題を解決するだろうと、信じていたも彼は学校にとりつかれていた。ビリャが言うのを私はよく聞いたものだ。「今朝、どこそこの街を通ったら子どもたちが大勢いた。あそこに学校を建てよう。」
 チワワ市の人口は4万たらずだった。そこヘビリャは、いろんな機会に、50以上の学校を建てた。
 チワワ州政府を掌握するとすぐさま、軍に発電所、市街鉄道、電話、水道、それにテラサス家の製粉所を運営させた。没収した大農園にも兵士を派遣して管理させた。屠殺場にも兵士を配置し、テラサス家の牛肉を売って政府の収入にした。1000人の兵士を警察官として市場に配し、死刑をもって盗みや軍隊への酒の販売を厳禁した。酔った兵士は射殺された。彼は兵士を使って醸造所さえも運営しようとしたが、専門のこうじ職人が見つからず、失敗した。「平時に兵士たちをうまく扱う唯一の方法は、働かせることだ。暇な兵隊は、いつも戦争のことばかり考える」とビリャは言った。

  もしビリャが暗殺されなければ、・・・と思わずにはいられない。そしてコスタリカやキューバにおける教育と医療の成功は、ビリャの政治的感覚に流れるものと通底しているからこそではないか。

   リードがハーバード大学の恩師に宛てた書簡がある。
  「・・・もし先生の教えをうけなかったならば、私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないかと考えずにはおられませんでした。
 ・・・すなわち先生の話に耳を傾けることは、目に映つる世界の背後に隠された美を見出す術を学ぶことであり、また先生の友人であることは、知的に誠実であろうと努めることなのだと。・・・」
                                      ジョン・リード『反乱するメキシコ』大学恩師への献辞

  雨のように銃弾が飛び交い夜を徹して歌い踊る農民兵士たちの喧騒の中で、何がこの革命の実態で本質なのかを咄嗟に記憶して構成記録する、ジャーナリストとしての基礎を彼は大学で磨いた。我々が生徒に保証べき学力も、こうでありたい。

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