似島検疫所は当時世界最大級 |
日清戦争(1894年~1895年)で日本軍は戦勝したものの、大量のコレラ罹患兵を抱えた。 この時期、明治27年の患者数は546(死者314)だったが明治28年1895年には患者数5万5144(死者4万154)と爆発。戦場から多数の患者および保菌者が一気に傾れ込めば、各地はコレラ恐慌に見舞われることは明らかであった。
その危機に直面して、3カ所の検疫所が計画・建設された。うち呉軍港に近い似島検疫所は、僅か2ヶ月で総建坪22,660坪、401棟の検疫所を完成。当時世界最大級の施設。この検疫で消毒した艦船687隻、総人員232,346人、内コレラ患者総数369人。コレラ罹患が確認された者は直ちに収容され、九日間の療養と再検査の後、故郷に向かった。他の国のように各地に散った帰還兵が病気を蔓延させることは無かった。
後にドイツ皇帝は日本の軍医に対し、「この検疫事業は無上の大成功である。日本は軍隊が強大であるばかりでなく、かかる事業を遂行する威力と人才があるとは」と驚嘆を伝えている。
このとき、衛生の語を「命をまもる」の意味を込めて造り、計画から建設運営までやってのけたのは、後の東京市長後藤新平である。僕はここで後藤の「功績」を語るつもりは無い。 位階や爵位ある者の義務だからである。
肝腎なことは、戦傷の苦しみと死の感染症に怯える帰還兵にとって、検疫所の広大な設備と手当てはどんなに心強かったことだろうかという点にある。 人々の安心は、莫大な費用を浪費した挙げ句多くの兵士を死に導いた巨大戦艦の姿や零戦から生じるのではない。
奮闘(検疫関係者の感染死は50 名を超した)の甲斐あって、1895年9月には患者は激減した。 しかし大流行が収まるには1920年を待たねばならなかった。
ここでは日中戦争中も検疫が行われ、原子爆弾投下後は被爆者の臨時救護所となった。戦後は厚生省検疫所、1958年閉鎖。広島市内の似島避病院舟入分院は、広島市立舟入市民病院として今も存続している。
今コロナに怯える我々は、世界最低レベルの検査と不足する貧弱な施設に苦ししめられている。130年前にやれた事さえ出来ない。遙かに貧しいベトナムやキューバが徹底した医療政策によって、コロナ制圧に成功した事実から何一つ学べない。日本政府には「衛生」=命を守る思想は無いからだ。それ故コロナ対策担当大臣は、厚労相ではなく経産相なのである。国民の命より、利権なのだ。官房長官は「感染防止は個人の責任」と言い捨てる残忍さである。