教室で子どもたちは国家目的達成感に酔う日々を送った |
まず思い出すのは、南京に攻め入った陸軍将校による「百人斬り競争」である。当時の全国紙のトップを飾った事から異様な「達成感」に新聞人までもが汚染されていたことが分かる。もう一つは、太平洋戦争中小学校の教室に貼られた「大日本帝国」地図である。大本営の発表に合わせて子どもと教師が地図上に日の丸を入れた。教室で国家的「達成感」は日々作り上げられていたのである。占領すれば日の丸、攻撃すれば爆弾が付け加えられた。
現地の民衆が味わう惨劇や兵隊の死に様は掻き消されて、領土の膨張が子どもと教師に脳内麻薬を分泌、いつの間にか中毒していた。そうでなければ、神宮外苑での学徒出陣光景は考えられない。この大会を主催したのは文部省で会った。同様の光景は各地で繰り広げられた。
ナチス支配下の白バラ抵抗の気配はどこにも無い。イタリアや占領下フランスのようなパルチザン闘争も無い。
権力民衆一体となった途方もない「達成感」が演出された。それが一億総玉砕のスローガンを産み、竹槍でB29に対抗する絶望を準備さた。どこまで行っても「やめた」を言えない。「バンザイ」しか言えない。
皇族や将軍たちの子弟は、戦死もせず爆撃にも遭わず広大な邸宅の中で数百人の使用人に傅かれ飢える事も無かった。にも関わらず、焼け出され肉親を殺され飢ても民衆は、地位と特権塗れの大邸宅を襲う事もしなかった。民衆を搾取して蓄えた富を、民衆が回収し民衆の共同資産化する事は正当な行為である。食糧政策に欠陥があればなおさらのことだ。なぜ個別行動に走ったのか、不思議なことだ。敗戦の混乱の中で民衆は食料の確保を共同化する知恵に欠けていた。個別に警察の取り締まりをかいくぐって、農村に買い出しに出かけた。満員で乗れない列車の屋根にまで乗る危険で実り少ない民衆同士の不毛な争奪戦であった。
都立高校では買い出しのために「買い出し休暇」が制度化(後に研修日となった)された。なぜ「買い出し」を共同化しなかったのか。共同化出来なかった思想的弱さ、その延長線上にあるのが有害無益な偏差値競争である。学ぶことを国民共同の権利として、定員制も入試も廃止する。現在個別の家庭や若者が強いられる労力も費用もどんなにか軽減されることだろうか。国民経済全体で計算すれば恐ろしい数字になる。偏差値競争で実現されるのは、合格発表掲示板前で演じられる達成の涙だけだ。
それが国家管理による「達成感」に踊らされ挙げ句に脳内麻薬に中毒した結末だ。
必要なことを個人や集団で討議決定し実行できない精神と肉体になった。会社や学校で繰り広げられる「ノルマ」達成キャンペーンは、それを引き継いでいる。
決定や判断は「お上」だけがする、民衆はひたすら従順に従う。行動の本質には関与できないが、その実現に向けて頑張ることしか出来ない。それを奴隷と言うのだ。
その過程で我々は、人はすべて「存在自体が尊い」という感覚を忘れてしまった。地位やメダルや勲章や偏差値やギネスブックに平伏せば、いつの間にか存在するだけの自らには価値が無いと思い込む。
「存在の尊厳」を感じるには、静かで落ち着いた生活が絶対条件だ。自分の子どもや連れ合いの尊さが、生きている事実だけで感じられないなら、政治の貧困に目をむけて怒りをぶつけろ。たかが「達成感」のために、死者や怪我人を出してまで「涙」を流すのは倒錯に他ならない。
他民族の生活領域を爆撃し占領し強姦し、挙げ句の果てに餓死するために「達成感」は使われた。今も新たな企てのために、達成感は仕組まれている。要らないのだそんなもの。 憲法第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」 は、存在自体の尊さを擁護している。