生が終われば死も終わる

岡倉天心の墓は、森の中の簡素な土饅頭
 ある状況についての幻想を捨てたいという願いは、幻想を必要とする状況を捨てたいという願いでなければならない。  マルクス

 生が終われば死も終わる。山口由美子さんは「生と死は比べられない」と書いている。「死は生の次の世界だ」というわけだ。だが、「死は生の次の世界」ではない。 死は、生きている人間の中のイメージでしかないのである。他人の死は「物体」であり「数」である。だけど自分の死はけっして手でさわることはできない。生が終われば、いっしょに死も終わるのである。
 淵上毛銭が書いている。
じつは大きな声では言えないが過去の長さと未来の長さとは同じなんだ、死んでごらんよくわかる
              寺山修司    「時速100キロの人生相談」
 

   寺山に人生相談したのは高校生である。死についての幻想は、若者をも捉えて放さない粘着性の頑固さがある。幻想を必要とする状況を捨てることは、若々しいほど難しいのだろうか。
 幻想から逃れるのが怖ければ、せめて死後ぐらいは平等を実現したらどうだと思う。
 組織宗教は、予め不安と恐怖を流布して置いてしかる後に勿体を付けて「安らぎ」や「愛」を説く。曾て「マッチポンプ」を得意とする政治屋が暗躍したことがある。死後の不安に商機を見出す寺院や宗教団体は、永遠の「マッチポンプ」の観がある。お寺の敷地内に墓石屋が事務所を置き、タレントによるTV宣伝も欠かさない、古い墓石を更新しながら無縁墓石を整理して、詰まらない石を不当な高値で売りつける。時期が来れば又新しい材料やデザインで、「ご先祖様」を出しにして立て替えを促す。
  宗教団体が直轄で広大な墓地を販売すれば、数百億円単位の利益が無税で転がり込む。森林は剥がされ災害を誘発させかねない。


 西武が造成した55万㎡の鎌倉霊園には、一段高い所がある。天皇陵や徳川家墓所を除けば希有の広さを持つ提康次郎の墓である。かつては毎年元旦には、2代目がヘリコプターで乗りつけグループ幹部500人が墓前に手を合わせた。「感謝と奉仕」と称して「奉仕当番」制度もあった。西武グループ内各社社員2名が毎日手弁当で墓地に泊り込み、朝夕の「鐘つき」や清掃などの墓守りをした。まるでヤクザ一家の如き時代錯誤振り。「感謝と奉仕」が提一家の標語であったが、とっておきの場所を自分に確保して置いて、残りを小さく刻んで売り捌き客を睥睨するとはたいした神経であった。「感謝と奉仕」は提義明が顧客にするものではなく、自分がされるものであったのだ。
 寺院はたいてい、一等地を宗祖や代々住職らの大きな墓が恥ずかしげもなく占めている。提一家と同じ構図がある。
 

 2004年、西武鉄道株虚偽記載事件で西武鉄道は上場廃止、提義明は逮捕された。提一家の支配を断ち切った新執行部は「西武はもはや堤家のものではないのだから、そういう人の墓がグループ企業の霊園にあるというのは、会社のコンプライアンス上おかしい」と初代の墓の撤去を通告した。対して西武一家は「墓を撤去するなんて、眠っている人に大変失礼・・・」だと怒り心頭だったと当時の週刊誌は伝えている。どっちが失礼かも分からなくするのが、宗教の効用で
ある。

 

 生物は生を終えれば、全てを森や海に戻し、この惑星の循環の一部となった。
 食物連鎖の頂点にあった人間も、髪の毛から内臓に至るまで、動物と植物の滋養となる。

 その自然の掟を破っているのは鳥葬を除けば人間だけである。
 位牌も墓も戒名も七日毎の法事も、一切根拠はない。位牌は儒教からの借り物。戒名は受戒した者、つまり仏弟子になった証であり死んでから金で買うものではない。初七日から始まる無限に続く法要も、幕藩体制下で増加を遂げた寺院と僧侶の飯の種として考案されたに過ぎない。全てが金銭欲の道連れになっている。
 そんな詰まらぬ仕来りに時と金を浪費するから、ありもしない地獄を格差に満ちた世界に描いて恐怖するのだ。


 一方に堤家の広大豪勢な墓があり、他方に猫の額のような憐れな墓もある。その猫の額ほどの墓も買えなくて、うろたえる人が少なくない。生きれば格差に苦しめられ泣き、死んでも格差を思い知らされる。
 国や自治体が、芝を張った大きな土饅頭を中心にした簡素な霊園を整備し、誰でもそこに平等に祭られるようにしたい。海縁に海葬のための公園を作るのもいい。そのためには、法律を整備する必要もある。

 人々の不安につけこんで怪しい商売が勃興する。いずれ世界的に墓地は足りなくなる。東京都が多磨霊園に共同墓地を構想したが、潰れてしまった。怪しい勢力の暗躍が感じられる。僕は森や海に捨てて腐るに任せて貰いたいが、法が許さない。

 今のところさっぱりしているのは、献体による始末の付け方である。健康な臓器は移植に役立てることも出来る。


 
天皇家は巨大な墓を各地に持っている。提家の比ではない。天皇制を肯定する者は、日本各地の天皇陵に合葬することを政治的要求としてかかげたら良い。巨大な墓地公園になる。僕はそんなところに入れられるのは、まっぴらゴメンだが。
 それで戦争責任や「天皇メッセージ」の歴史的大罪が消えるわけではない。
 

 淵上毛銭は病を得て若くして死んだ。「柱時計」という作品がある。

ぼくが / 死んでからでも/ 十二時がきたら / 十二鳴るのかい / 苦労するなあ / まあいいや / しつかり鳴って / おくれ

勤評闘争か作った「留置場の教師に教え子たちの声援」

教師の勤評への姿勢が少年たちの世界観に影響を与えている
 東京医大の点数加算や減点による不正は、今に始まったことではない。半世紀前の小学校にもあった。
 僕は長く、クラ
ス同窓会に出ていない。出たくないのである。四谷四丁目の小学校では、長屋暮らしの洟垂れから
豪邸住まいの坊ちゃんまでが同じクラス、落語家の子どもも頭取の孫も机を並べて、敗戦後の混乱と多様性を象徴する学校だった。一学年4学級、6年間クラス替えはなかった。それだけではない、この区立小学校には、幼稚園が併設され、クラスの殆ど全員が幼稚園でも同じクラスだった。仲がいいわけだ。毎年、担任を囲んでクラス会を開いている。僕はそこに小4の夏休み明けに転校してきた。
 酒宴が盛り上がると、決まって軍歌が出る。「同期の桜」である。「咲いた花なら散るのは覚悟」という箇所では涙とともに絶叫するという話を聞いた。それを制止しようとせず唱和する担任に呆れ、ますますクラス会に出るのが嫌になった。

 特攻隊の若者は、人生に花を咲かせることなど出来なかった。恋愛も結婚も思いもよらなかった。少年兵に至っては蕾になる前に死んだ。
 第4航空軍司令官富永恭次は、特攻隊員に「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して隊員をことごとく死に追いやった。しかし富永は逃げ続け、敗戦後も恩給を受け取り生き延びた。敵前逃亡罪にも問われていない。司令官なら見事に「咲いた花」だ。そんな男が部下を死に追いり勲章と恩給を増やたのである。

 教師なら、少年を兵器に仕立てる発想はいかに生まれたのか、そのとき英米はどのような思想で武器をつくっていたのか史実に基づいて教えなければならない。何故イギリスでは戦後、「ゆりかごから墓場まで」の福祉社会が可能だったのか。戦争でイギリスも疲弊していたのである。しっかり教える必要がある。裏切って逃亡した司令官の名を脳裏に焼き付けなければならない、富永恭次だけではない。

 平和教育や生活指導教育の研究会発表に余念のない若い教師が、数年で受験名門校に消える。それを栄達・出世と見て、憧れ評価追従する向きもある。そうした行動言説が、生徒たちにどう受け止められているか、想像を逞しくするする必要がある。

 「偉そうなことを言ってたが、結局俺たちを踏み台にして裏切りやがった」そう言い、裏切った教師個人だけではなく、その属性をも憎むようになる。教師個人を揶揄するのではなく、その教師の属する集団を憎んでしまう。特に当該教師が組合員であった場合は激しい。これが教師がやった実践へのお返しである。
 問題行動が生徒個人によるにもかかわらず、生徒全体に網を掛けて規制したことの皮肉な効果である。
 裏切った教師は異動すればもうそこに存在しないから、生徒の怨嗟の声が届く筈がない。特攻兵の怒りを帯びた叫びが、逃亡した司令官に届かなかったように。
 その属性は同様の例が累積する度に、平和と民主と団結が好きな教師と類型化されて頭に叩き込まれる。民主主義や平和に背中を向ける傾向は、その筋の教師によって作られるから厄介なのだ。
  どこか戦前の「転向」に似ている。個人というものがない。思想が生き方のレベルに達していない。

  僕のクラスは8年間も同じ学級にいたのだから、嫌な思い出がただ一つを除いてない。だから毎年
担任を招待して楽しかった思い出に浸り、高額のお土産を贈り散会する。
 5年に進級した時だ。突然クラスの中が、成績別に4つに分けられた。成績のいい男女は廊下側の二列に、次の男女は窓側に二列、と言う具合に成績の良し悪しが一目瞭然となってしまったのである。
 「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」と皆が言う。あたかも避けて通れない自然災害のように「あの嫌なこと」を言い、急いで記憶の奥にたたみ込むのである。
 あれは、避けるべき教育政策=「勤務評定」が日本の教室を暗くしたのであり、抵抗する教師を政府は徹底的に弾圧した。
 同級生たちは塾に通いはじめ、受験参考書「自由自在」をランドセルに入れて登校するようになった。僕にカンニングをせがむ同級生も現れた。算数や国語の授業は、業者テストの時間であった。教室で実施したテストは、業者に送り採点されて戻ってきた。点数とともに、1000人中何位かが書き込まれていた。これは6年になっても続いた。クラスを暗く重い雰囲気が覆っていた。
  測定可能な成果を出すことを教師が競い始めた。僕らのクラスでは受験体制が強制されたわけだ。その成果は、私立中学進学者の多さとなって現れ、担任への盆暮れの届け物は、子どもの耳に達するまでになった。
  そんな雰囲気が面白い訳がない。6年3学期、クラスのお別れ会をやろうと担任が言い出した。出し物をグループ毎に工夫するのだ。僕は、手を挙げて反対した。担任は激怒した。よい子の筈の学級委員がたった一人で反乱したからだ。担任は言った。
 「このクラスがつまらなかったと言うのか」
 「つまりませんでした」
 「反対してるのはお前一人だけだ」小学生をお前呼ばわりしての異常な罵倒。
 「僕はやりたくありません。やりたい人は勝手にやれば良い。僕は出ません。卒業式にも」と言い切ってしまった。
 一時間近くを一人で反対した。終わると数人が飛んできて
 「ごめんな、おれも反対なんだよ」

 「怖くて手を挙げられなかった」
 「怖かったよ、あんな担任初めて見た」 僕は、一人位は味方がいるだろうと思っていたが、後の祭りだ。
 「もう終わったよ」
 「たわし、おまえ卒業証書いらないのか」
 「式に出なくても呉れるよ」

 翌日は、母までが担任に呼び出され、僕の非協調性を難詰したという。僕の母は、担任に贈り物をしない数少ない保護者の一人だった。母がある日
 「どのうちも先生に付け届けをしてるそうよ。うちもそうした方がいいかしら」と僕に言ったとき
 「止めて」と告げて咄嗟に家出、一日隠れてしまった。うちに帰ったとき母は、オロオロして
 「分かったよ、付け届けはしないよ」と約束した。僕はこの頃から頑固者だった。

  情けないことにこの後、僕は級友たちに「お前が出ないと詰まんないよ」と泣き付かれ、卒業式に出てしまった。後悔した。
 
 このときクラスを暗くしたのが「勤評」であることは、高校生になるまで知らなかった。しかし担任や学校のやり口には腹が立った。私立中学受験生に「5」を多く付けるために、通信簿の操作が行われたことも知った。私立を受験した同級生の通信簿と、僕のそれを比較する機会があって判明したのである。卒業から50年を経てからのことだ。あまりの改竄に同級生も開いた口が塞がらなかった。
 勤評は確かに教育と教師に対する未曾有の攻撃であった。しかし、迫り来る勤評体制に反対するどころか、積極的に適応して学級を競争の場として再編したことに、僕は怒っている。


 高校の担任となってから、僕は成績操作された内申書をいくつか発見した。非常に利発な生徒の内申書が非常に悪いので、呼んで中学校での成績を聞くと、仰天するほどの改竄操作が見つかる。貧困が理由で高卒で就職を決意した優等生の「5」や「4」が、進学校を目指す者に回されるのだ。

 成績別の並び方、「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」としみじみ振り返る同級生はかなりいる。「受益者」である成績の良かった連中や私立進学者たちは、あっさり忘れている。
  我々は、何故憎むべき対象を正視しないのか。戦争犯罪者として最も大きな責任を負うべき者を告発もせず、新憲法下で同じ地位を続けて保証し、その彼が彼の地位を保証した憲法を無視して沖縄を基地として米軍に提供した男の歴史的犯罪を直視しようとはしないのだ。辺野古の大問題も「天皇メッセージ」というスキャンダルの上にあることを確認しなければ始まらない。

  宇高先生は、中野教組委員長として「勤評」体制と闘い逮捕・収監された。先生が収監されたのは中野署、先生が勤務していた中野中央中の隣だった。生徒たちは休み時間になる度、獄窓に向かって「先生、頑張れ」と叫んだ。←クリック  

 クラス会の度に軍歌を教え子と歌うクラスと、獄中の先生に声援が届く学校。勤評に対する教師の姿勢がその違いを生んでいる。

 1966年ILOとユネスコは「教員の地位に関する勧告」出し、教育の目的で最も重要なものは「平和のために貢献をすること」と指摘した上で、「教員の正当な地位」の重要性を強調した。日本政府は 国連中心主義を標榜しながら、未だにこの勧告を無視している。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...