勤評闘争か作った「留置場の教師に教え子たちの声援」

教師の勤評への姿勢が少年たちの世界観に影響を与えている
 東京医大の点数加算や減点による不正は、今に始まったことではない。半世紀前の小学校にもあった。
 僕は長く、クラ
ス同窓会に出ていない。出たくないのである。四谷四丁目の小学校では、長屋暮らしの洟垂れから
豪邸住まいの坊ちゃんまでが同じクラス、落語家の子どもも頭取の孫も机を並べて、敗戦後の混乱と多様性を象徴する学校だった。一学年4学級、6年間クラス替えはなかった。それだけではない、この区立小学校には、幼稚園が併設され、クラスの殆ど全員が幼稚園でも同じクラスだった。仲がいいわけだ。毎年、担任を囲んでクラス会を開いている。僕はそこに小4の夏休み明けに転校してきた。
 酒宴が盛り上がると、決まって軍歌が出る。「同期の桜」である。「咲いた花なら散るのは覚悟」という箇所では涙とともに絶叫するという話を聞いた。それを制止しようとせず唱和する担任に呆れ、ますますクラス会に出るのが嫌になった。

 特攻隊の若者は、人生に花を咲かせることなど出来なかった。恋愛も結婚も思いもよらなかった。少年兵に至っては蕾になる前に死んだ。
 第4航空軍司令官富永恭次は、特攻隊員に「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して隊員をことごとく死に追いやった。しかし富永は逃げ続け、敗戦後も恩給を受け取り生き延びた。敵前逃亡罪にも問われていない。司令官なら見事に「咲いた花」だ。そんな男が部下を死に追いり勲章と恩給を増やたのである。

 教師なら、少年を兵器に仕立てる発想はいかに生まれたのか、そのとき英米はどのような思想で武器をつくっていたのか史実に基づいて教えなければならない。何故イギリスでは戦後、「ゆりかごから墓場まで」の福祉社会が可能だったのか。戦争でイギリスも疲弊していたのである。しっかり教える必要がある。裏切って逃亡した司令官の名を脳裏に焼き付けなければならない、富永恭次だけではない。

 平和教育や生活指導教育の研究会発表に余念のない若い教師が、数年で受験名門校に消える。それを栄達・出世と見て、憧れ評価追従する向きもある。そうした行動言説が、生徒たちにどう受け止められているか、想像を逞しくするする必要がある。

 「偉そうなことを言ってたが、結局俺たちを踏み台にして裏切りやがった」そう言い、裏切った教師個人だけではなく、その属性をも憎むようになる。教師個人を揶揄するのではなく、その教師の属する集団を憎んでしまう。特に当該教師が組合員であった場合は激しい。これが教師がやった実践へのお返しである。
 問題行動が生徒個人によるにもかかわらず、生徒全体に網を掛けて規制したことの皮肉な効果である。
 裏切った教師は異動すればもうそこに存在しないから、生徒の怨嗟の声が届く筈がない。特攻兵の怒りを帯びた叫びが、逃亡した司令官に届かなかったように。
 その属性は同様の例が累積する度に、平和と民主と団結が好きな教師と類型化されて頭に叩き込まれる。民主主義や平和に背中を向ける傾向は、その筋の教師によって作られるから厄介なのだ。
  どこか戦前の「転向」に似ている。個人というものがない。思想が生き方のレベルに達していない。

  僕のクラスは8年間も同じ学級にいたのだから、嫌な思い出がただ一つを除いてない。だから毎年
担任を招待して楽しかった思い出に浸り、高額のお土産を贈り散会する。
 5年に進級した時だ。突然クラスの中が、成績別に4つに分けられた。成績のいい男女は廊下側の二列に、次の男女は窓側に二列、と言う具合に成績の良し悪しが一目瞭然となってしまったのである。
 「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」と皆が言う。あたかも避けて通れない自然災害のように「あの嫌なこと」を言い、急いで記憶の奥にたたみ込むのである。
 あれは、避けるべき教育政策=「勤務評定」が日本の教室を暗くしたのであり、抵抗する教師を政府は徹底的に弾圧した。
 同級生たちは塾に通いはじめ、受験参考書「自由自在」をランドセルに入れて登校するようになった。僕にカンニングをせがむ同級生も現れた。算数や国語の授業は、業者テストの時間であった。教室で実施したテストは、業者に送り採点されて戻ってきた。点数とともに、1000人中何位かが書き込まれていた。これは6年になっても続いた。クラスを暗く重い雰囲気が覆っていた。
  測定可能な成果を出すことを教師が競い始めた。僕らのクラスでは受験体制が強制されたわけだ。その成果は、私立中学進学者の多さとなって現れ、担任への盆暮れの届け物は、子どもの耳に達するまでになった。
  そんな雰囲気が面白い訳がない。6年3学期、クラスのお別れ会をやろうと担任が言い出した。出し物をグループ毎に工夫するのだ。僕は、手を挙げて反対した。担任は激怒した。よい子の筈の学級委員がたった一人で反乱したからだ。担任は言った。
 「このクラスがつまらなかったと言うのか」
 「つまりませんでした」
 「反対してるのはお前一人だけだ」小学生をお前呼ばわりしての異常な罵倒。
 「僕はやりたくありません。やりたい人は勝手にやれば良い。僕は出ません。卒業式にも」と言い切ってしまった。
 一時間近くを一人で反対した。終わると数人が飛んできて
 「ごめんな、おれも反対なんだよ」

 「怖くて手を挙げられなかった」
 「怖かったよ、あんな担任初めて見た」 僕は、一人位は味方がいるだろうと思っていたが、後の祭りだ。
 「もう終わったよ」
 「たわし、おまえ卒業証書いらないのか」
 「式に出なくても呉れるよ」

 翌日は、母までが担任に呼び出され、僕の非協調性を難詰したという。僕の母は、担任に贈り物をしない数少ない保護者の一人だった。母がある日
 「どのうちも先生に付け届けをしてるそうよ。うちもそうした方がいいかしら」と僕に言ったとき
 「止めて」と告げて咄嗟に家出、一日隠れてしまった。うちに帰ったとき母は、オロオロして
 「分かったよ、付け届けはしないよ」と約束した。僕はこの頃から頑固者だった。

  情けないことにこの後、僕は級友たちに「お前が出ないと詰まんないよ」と泣き付かれ、卒業式に出てしまった。後悔した。
 
 このときクラスを暗くしたのが「勤評」であることは、高校生になるまで知らなかった。しかし担任や学校のやり口には腹が立った。私立中学受験生に「5」を多く付けるために、通信簿の操作が行われたことも知った。私立を受験した同級生の通信簿と、僕のそれを比較する機会があって判明したのである。卒業から50年を経てからのことだ。あまりの改竄に同級生も開いた口が塞がらなかった。
 勤評は確かに教育と教師に対する未曾有の攻撃であった。しかし、迫り来る勤評体制に反対するどころか、積極的に適応して学級を競争の場として再編したことに、僕は怒っている。


 高校の担任となってから、僕は成績操作された内申書をいくつか発見した。非常に利発な生徒の内申書が非常に悪いので、呼んで中学校での成績を聞くと、仰天するほどの改竄操作が見つかる。貧困が理由で高卒で就職を決意した優等生の「5」や「4」が、進学校を目指す者に回されるのだ。

 成績別の並び方、「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」としみじみ振り返る同級生はかなりいる。「受益者」である成績の良かった連中や私立進学者たちは、あっさり忘れている。
  我々は、何故憎むべき対象を正視しないのか。戦争犯罪者として最も大きな責任を負うべき者を告発もせず、新憲法下で同じ地位を続けて保証し、その彼が彼の地位を保証した憲法を無視して沖縄を基地として米軍に提供した男の歴史的犯罪を直視しようとはしないのだ。辺野古の大問題も「天皇メッセージ」というスキャンダルの上にあることを確認しなければ始まらない。

  宇高先生は、中野教組委員長として「勤評」体制と闘い逮捕・収監された。先生が収監されたのは中野署、先生が勤務していた中野中央中の隣だった。生徒たちは休み時間になる度、獄窓に向かって「先生、頑張れ」と叫んだ。←クリック  

 クラス会の度に軍歌を教え子と歌うクラスと、獄中の先生に声援が届く学校。勤評に対する教師の姿勢がその違いを生んでいる。

 1966年ILOとユネスコは「教員の地位に関する勧告」出し、教育の目的で最も重要なものは「平和のために貢献をすること」と指摘した上で、「教員の正当な地位」の重要性を強調した。日本政府は 国連中心主義を標榜しながら、未だにこの勧告を無視している。

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