「日本資本主義の父」渋沢栄一と「救癩の父」光田健輔のいかがわしさ


 ハンセン病療養所の死因統計を見ると、昭和 30 年代までは結核死が 3 分の 1 から半数近くに達している。劣悪で過密な居住環境の中で結核が蔓延、死亡者が続出したからだ。園に収容されなければ結核感染から免れた患者も少なくない。肉親から切り離され悲痛な最後を遂げた強制収容者はおよそ2万3800人、違法な堕胎嬰児殺害3000人。膨大な数が、「隔離」政策故に殺されたのである。 

 光田は何のために死ぬまでの隔離、絶対隔離に拘ったのか。

 12 畳半の大部屋に 8 人の患者が昼も夜も雑居する事が如何に過酷か。しかも過酷な「作業」を負わされて。彼らは如何なる意味でも罪人ではない。反抗も不服従も処罰の対象になった。

    国立療養所患者懲戒検束規定 昭和6年1月30日認可

第1条 国立癩療養所ノ 入所患者ニ対スル懲戒又検束ハ左ノ各号ニ依ル

        1 .譴責 叱責ヲ加誠意改悛ヲ誓ワシム

        2. 謹慎 30日以内指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交流ヲ禁ズ

        3. 減食 7日以内主食及副食物ニ付常食料ニ分ノ一マデヲ減給ス

        4. 監禁 30日以内監禁室ニ拘置ス

        5. 謹慎及減食 第2号及第3号ヲ併科ス

        6. 監禁及減食 第4号及第3号ヲ併科ス

 監禁は前項第4号ノ規定ニ拘ラズ特ニ必要トミトムルトキハ其ノ期間ヲ2ヶ月迄延長スルコトヲ得


  アンパン一つが三銭の時代。重い炭俵を担いで氷雪凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いても気付かない。肉体の限度を越えても自覚がなく労働に精を出す。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。

 「不自由舎の付添は一室七人の病人を住込みで一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである」(松本馨『多磨』一九六八年一一月号)

 一九六〇年、不自由舎(身体の自由がきかない患者の病舎)での患者付添が職員看護に切り替わる。あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し、週刊誌沙汰になった。 

 これを賛美する医師があった。

 療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。

 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。

 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。

 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした…。

 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。…

 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである。    林文雄『醫海時報』1930年                                           

 「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か。患者による無償の患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷な賃労働。ここに横たわる倒錯した人間観・世界観を『牢獄か楽園か』というタイトルが捉えている。林文雄は家族に見守れる中「コンナコーフクナモノハナシ」と書いて最期を迎えた。彼は 北大医学部を出て、将来の教授と期待されたが、全生病院に勤務、光田健輔の全幅の信頼を得る。研究者としての業績もあり、診療、文化、生活でも患者との日常的接触に努力。昭和初期は、林のような青年クリスチャン職員たちが増え、患者との間に隔てを置かぬ生き方は、患者の心をのびやかに明るくするものであったと『倶会一処』は書いているが、彼らの動きは数年で幻のように消えた。何故優秀な専門家が揃いもそろって「絶対隔離」や殺戮の鬼になるのか。 

 冒頭の画像は、国立としては最初のハンセン病療所「愛生園」園長官舎である。患者の地獄に「愛生」と名づける神経を僕は疑う。初代園長は光田健輔。大河ドラマ『天を衝け』で日本資本主義の父と持ち上げられ、飛ぶ鳥落とす勢いの渋沢栄一と共にハンセン病を「ペスト並みのおそろしい病気」と遊説して回った光田健輔の住居である。

 渋沢が日本資本主義の父なら光田は救癩の父。 

 各地の療養所=絶対隔離収容所にも豪勢な官舎が建てられた。大工仕事は患者作業によったから、材料費だけで済む。それでも、療養所建設に要した費用の一割をつぎ込んでいる。シーツの洗濯からアイロンがけ、窓磨きから庭木の剪定も、ある仕事は患者作業、ある仕事は患者作業で負担が軽くなった職員がになう。

 後に林文雄が園長となった星塚敬愛園には、「安村事件」(1936年)という醜聞がある。同意のない断種に公然と反対した54歳の患者の両義足を外して、山中の河原に置き去り追放した事件である。この時、林文男は、「本人はすでに無菌であり、善良な入園者を煽動して園の秩序を乱すので本人に言い含めて出てもらった」と説明している。未必の殺意と言うべきである。

  「天国」とは主を自称する者と彼を賞賛する者だけから構成される。自由な批判ある空間で、賞賛する者だけが集うわけがない。反抗する者や批判する者を先ず排除、次いで懐疑する者や自立する者まして生まれた「天国」である。

 主を自称する者は賞賛者に囲まれるうちに幼稚なカリスマ性を獲得、自らの世界のための安寧のために「罰」を生み出す。

 光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。 

 このあからさまな殺人を新憲法下の警察は、捜査すらしていない。誰一人罰を受けていない。それどころか 光田は1951年には文化勲章を受けている。このほかにも重大な犯罪行為がある。

 間違いは、極めて感染しにくいハンセン病を「ペスト並みの恐い病気」と偽ったことに始まっている。 光田健輔と渋沢栄一である。

 渋沢栄一は一万円札の肖像としては全く相応しくない、

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...