高校生たちの「荒れ」は「授業から逃亡する教師」への異議申し立てだった。

  承前 「校則強化肯定に潜む「因果関係」捏造」

  「・・・校則の厳格化や教諭らの指導が進む中、数年で生徒たちの行動も落ち着き始めた」「毎日新聞」(2022.02.16夕刊)と強弁して 、厳しい校則の効果を強調する論調は悲しいほど強い。

 しかし必要なのは、生徒管理に都合のいい現象を自らの取り組みに無理矢理結びつけることではない。表現の術を悉く奪われた荒れる少年たちの立場に立つことではないか。

 彼らの「荒れ」は校則で落ち着いたのではない。生徒たちの「荒れ」は、授業を忘れた学校への「異議申し立て」だった。異議申し立てを正面から受け止めた例は極めて希だ。いくら申し立てても、教師たちは聞く耳を持たなかった。

 疲弊した少年たちに広がったのは、「厳しい校則への依存」だった。

 アルジェリア独立革命を思想的に支え続けた精神科医ファノンの言葉がここでも有効だ。

  「植民地の民衆とは、その進化が停止し、理性を受け入れず、白身の事柄を処理できず、指導者の永遠的存在を求めている民衆である」 フランツ・ファノン『なぜ我々は暴力を行使するのか』1960年


 「因果関係」を「荒れ」と「秩序の欠如」の間に見い出す安逸な惰性が、如何に学校を堕落・停滞させたかを考えねばならない。「厳しい校則への依存」=指導者の永遠的存在への依存は、生徒だけの問題ではない。親にも教師にも行政にも広がったのだ。ファノンはこの屈辱的状況をこそ植民地的と呼び、独立への戦いを組織した。  

  

 90年代半ば、山手線に近い都立B高校定時制課程が荒れていた。生徒たちは校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火、校庭にもたばこの吸い殻や菓子袋が散らばった。切っ掛けは校舎改築だった。教師たちは建物を可愛がった、壁にテープを貼るな、落書きをするな。建物が新しいから少しのゴミでも目立つ。口うるさくなる。生徒と校舎どっちが大事なんだと荒れる。近所からの苦情は絶えず、対策に追われて職員会議は週二回が定例。教員は疲れ果てるが為す術がない。

 ところが思い掛けない事で事態は一変する。夜間中学を卒業したお婆ちゃん数名が、勉強を続けるために入学したのである。

 彼女たちは、荒れる高校生に一瞬たじろぐが「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」と言いながら、教室に入り教科書とノートを広げた。数日の間に花火は姿を消し、静寂が訪れた。荒れ狂ったツッパリ達がおとなしく鉛筆を握ったのである。教師達が束になって説得し脅しても駄目だったことが、あっさり解決した。何が違うのだろうか。

 教師は、~するなと言う。命令である。お婆ちゃんたちは、~すると宣言し実行した。荒れるツッパリとその同調者だけで構成された均一の空間に、異質のお年寄りが加わることで突然起きる根底的変化、それが革命である。

 B高校定時制課程には、花火とバイクの日常があったのではない。学校の日常としての学習が無かったのである。式や行事と口やかましい清掃はやたらにあるが、日常としての学習は続かない。テストやオリエンテーションで芸術鑑賞など行事で呆れるほど中断される。退屈しないように、生活にメリハリを付けるとの御託であったが、退屈するほど淡々としているのが日常である。長閑で欠伸が出るのが極楽ではないのか。お釈迦様が欠伸をするほど長閑で退屈だから、蜘蛛の糸を地獄に垂らしてみたのである。それが日常である。それが無ければ、脅しても説得しても甲斐はない、彼らは何をすればいいのか分からない、しかし校舎が生徒より大切という教師たちには我慢がならないのだ。教師たちは、勉強しろと説教するのは得意だが、自ら勉強するのは何より嫌いなのだ。

 花火やバイクは少年たち自前の行事なのかも知れない。であれば、自前の手本で示すに限る。


 高度成長期、企業は気前よく泊まりがけの社員旅行を奮発した。海外も珍しくない。中でも人気はタイと韓国への買春ツアーであった。日頃国内では世間の目・世間体や社則に縛られ礼儀正しい筈の日本社員達は、飛行機のただ酒で酔い、ホテルロビーに着くや大声で「おんなはどこだ、女」と叫ぶ。彼らは日常を切り離して会社に置いてきた、その程度の世間であり常識であった。安手の日常が無ければ When in Rome do as the Romans do である筈だが、そこはローマでもロンドンでもない。アジアへの上から目線で、ここではカネが全て、日常も常識も要らない無いと決めてかかる。情事の後、ホテルのロビーに寝間着で繰り出し喚き歌い倒れる。一人ではやれない。成田に帰り着いた途端、常識や社則に復帰、「やっぱりみそ汁だね」と一等国意識に浸る。取り外しの出来る消費財としての日常・常識。男達だけではない、遅れて若い女性や主婦達が「男、オトコ」と海外リゾートで嬌声を挙げたのである。

 カントもこれが20世紀も後半の大人のことと知れば仰天するに違いない。中学生までは規律や道徳の規準は仲間集団にある。それが青年・高校生に成長するに伴い、道徳律は個人の内面に移り自立する。「たとえみんなが~しても僕は~しない」と。他者の異質性を容認擁護する覚悟はこうして芽生える。しかし我々の日本社会では、内なる道徳律は依然として確立困難。藩の掟、村の掟、家の掟、内務班の掟・・・が内なる道徳律の成立を妨げた。今、校則と部の掟そして会社の掟が青年の倫理的道徳的自律を妨げる。日常とは多様な個人が、コモンセンスによって合意する領域である。 違うことが、選別や憎しみの根拠となるのではなく、平等の前提となる。


 偏差値が異なることが選別の理由であり差別の根拠であると見せつけられた高校生が、「底辺」とは造られた体制と感じ、それを理不尽と捉えるのは知的成長の証である。荒れる怒りは、選別の体制仕組みに向けられねばならない。怒りが学校や教師に向けられるのは、選別体制の最前線と見なされたからであり、まさに文科省・教委の教員管理はそのように仕組まれている。善意で熱心であるほど生徒は荒れる。荒れる生徒を根拠に、行政は組織実態の無いに等しい教員組合を攻撃、教員教員の管理を強めるというわけだ。その点でも「底辺校」は選別体制に欠かせないものとなっている。

     

 B高校定時制に突然現れた「学ぶ」おばあちゃん達は、見かけも年齢も価値観も生活歴も全くの異質であった。中には民族や言葉の異なる場合もある。ツッパリから見れば他者。仲間内の掟が闊歩する言葉を要しない均質社会に、コモンセンスが浮かび上がらざるを得ない。冷静に見れば、おばあちゃんの存在は、あんこの中の僅かの塩にも似ている。教師は生徒が毛嫌いする饅頭を、旨いぞ旨いぞと手を変え品をかえ砂糖を増やすばかりであった。飽きるように怒りが込み上げるように工夫を凝らして無駄に消耗する。

 思いがけない展開で、B高校定時制は職員会議を減らし、やがて二週間に一度に変えた。こうして高校定時制の生徒も教師も学校の日常を発見したのである。

 

 学校は生徒の中にも教員の中にも、異質な他者を具体的に含む事で、普遍的健全性を実現するのだと思う。困難校の厄介で気の滅入る困難も、異質の他者性を回復することで容易く消える筈である。


 スーパーサイエンスハイスクール如きを賞賛すれば、その対極にB高校定時制同様に荒れる学校が必ず出現する。さもなくば社会全体が、厳しい校則への依存症に感染する。「総合学科」、単位制高校、特色ある学科、公立中高一貫教育校など高等学校の多様化・特色化が一気に進んだのがB高校定時制課程が荒れ始める少し前、90年代である。

 学校の日常は平凡に長閑に学ぶことを核に構成されねばならない。そのためには選別を排して、雑多な社会を教室に職員室に再生する必要がある。スーパーサイエンスハイスクールや底辺校の日常が個別に存在するのではない。それは教育の非日常なのだ。


  もう一度言う。「厳しい校則への依存は、生徒だけではない。親にも教師にも行政にも広がってしまったのだ・・・国会にも。

  「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」は教師にも向けられている。

校則強化肯定に潜む「因果関係」捏造

 かつて東海地方の中学校管理職がシャープペンシルを禁じた。「シャープペンシルは重いから頭が悪くなる」と言うのが彼の理屈であった。

 東京のある女子校で、遅刻三回で退学という校則を作った。見事「遅刻」する生徒はいなくなった。これをこの学校は、生活指導の成果と説明した。

 学校管理に潜む都合のいい「因果関係」捏造は絶えることがない。


 「因果関係」捏造は霞ヶ関の十八番だった。厚生行政は、「絶対隔離のおかげで日本のハンセン病は消滅に向かった」と言い続けた。それが業界の利益を守るからだ。

 その醜悪な政策を支え続けて来た「日本らい学会」のあまりにも遅い自己批判が有る。引用する。  

 ・・・最も確かな統計とされる徴兵検査の際に発見されたらい患者、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・

 ハンセン病治療は、当初から外来治療が可能であり、・・・特別の感染症として扱うべき根拠はまったく存在しない。・・・

 「現行法(らい予防法)」はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない  1995年4月22日 「らい予防法」についての日本らい学会の見解 第68回会長 中嶋 弘

 全生園園長を務めた国立ハンセン病資料館長成田医師は、更に言う。                                  

 「はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・療養所の医療は・・・はっきりいえば、、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・」 


 ・・・ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい伝染病」と脅威を捏造宣伝し、実体のない恐怖を煽り立てただけでも大罪である。事もあろうか、捏造した恐怖を根拠に、有無を言わさず患者を収容、全患者絶滅に向けて強制労働を課し、劣悪な衣食住環境に放置、治療を回避、尊厳も命も奪った。償いようのない未曾有の犯罪であった。世界の非難を浴び続け、世界に遅れること数十年、漸くにして隔離の無効性と間違いを、その専門医が「自己批判」した。1995年4月22日、余りにも遅いのである。彼らが謝罪すべき人びとの多くは、すでに惨めな死を強制されていたのだから。

 日本のハンセン病行政に、国際的な医療技術・理論・思想に謙虚に学ぶ姿勢さえあれば、日本のハンセン病者にはまったく異なった人生があったことは疑いない。らい学会自己批判がそれを明確に語っている。

 奪われた数万に及ぶそれぞれの、強いられた人生とあり得た人生を、想像しなければならない。

 隔離は死亡率の高い急性感染症だけに適用される。ハンセン病は急性ではなく、感染力も死亡率も極めて低いのである。感染症の隔離には、相対隔離と絶対隔離がある。相対とは条件付き、絶対とは条件なしということである。前者が例えば、自宅隔離を認めたり、治癒後は退院を認めるとか、家族生活や家族による看病を認めたりするのに対して、後者は本人の意志に係わりなく例外なく終生隔離するのである。日本では始め「浮浪癩」を対象にしたが、政策考案者光田健輔は当初よりすべての患者隔離を目論み、やがて実現させてしまう。                        拙著 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊


 絶滅隔離とハンセン病消滅の間に因果関係はない。栄養状態や住環境など生活環境向上がハンセン病を絶滅に向かわせた。結核とツベルクリンの関係も同様、業界に都合のいい辻褄合わせに過ぎない。


 画像の毎日新聞記事は、「・・・校則の厳格化や教諭らの

「毎日新聞」(2022.02.16夕刊
から切り取り
指導が進む中、数年で生徒たちの行動も落ち着き始めた」ことで 、厳しい校則の効果を強調している。

 我々に必要なのは、都合のいい現象を自らの取り組みに無理矢理結びつけることではない。生徒たちの「荒れ」は校則で落ち着いたのではない。生徒たちの「荒れ」は、授業を忘れた学校への「異議申し立て」なのだ。ここでは「因果関係」を「荒れ」と「秩序の欠如」の間に見いだすことが、如何に学校を堕落・停滞させたかを考えねばならない。

 厳しい校則への依存が、生徒にも親にも教師にも行政にも広がっていることに気づく必要が有る。我々は少しも歴史に学んでない。  

  「植民地の民衆とは、その進化が停止し、理性を受け入れず、白身の事柄を処理できず、指導者の永遠的存在を求めている民衆である」 フランツ・ファノン『なぜ我々は暴力を行使するのか』1960年

 90年代半ば、山手線に近い都立B高校定時制課程で起きたことを次回例示する。

追記 ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい伝染病」と光田健輔とともに宣伝し恐怖を煽り立てた渋沢栄一が新しい一万円の顔になる。日本の過去から都合のいい側面だけを抜き取る風潮は危険だと思う。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...