アンガージュマンの概念はジイドが先んじていた。
他人に向つて自分の書物を説明するに先立って、私は先づ、他人が私の書物を私に説明してくれるのを待ってゐる。あらかじめ自分の書物を説明しようとすることは、とりもなほさず、その書物の意味を局限してしまふことである。その理由は、よし私たちは、自分達の書物の中でいはうと思ったことが、何であるかば承知してゐるとしても、果して私たちが、それ以外のものは云はなかつたかどうかは知らないのだから。事実また、人は常にそれ以上のことを言ってゐる。 - そして、私に一番興味のあるところは、実にこの自分でも知らずに言ったことなのである、- この意識しなかった部分、私はそれを神の分け前と呼ぼうと思ふ。一つの書物は、常に必ず合作だ、そして、その書物が値打のあるものであればあるだけ、作者の分け前は小さく、神のとりなしが大きい。 - いたるところに萬物の啓示を持たう、読者から、吾等の著作の啓示を待たう。アンドレ・ジイド『パリュウド』 角川文庫 堀口大学訳
僕は『パリュウド』本文より、本文の前に置かれたこの文章が気に入っている。
大学入試に作品を引用された作家が、問題文の「作者の気持ち」や「作者の考え」に正解出来ないことがある。問題が間違っていると異を唱えたり、からかったりする。入試作成者の考える「作者の気持ち」や「作者の考え」を問うているに過ぎない。作者自身が答えられないのなら、受験生は猶更答えられないだろう。ジイドの言うがごとく「私に一番興味のあるところは、実にこの自分でも知らずに言ったこと」だからだ。そして「一つの書物は、常に必ず合作だ・・・書物が値打のあるものであればあるだけ、作者の分け前は小さい。」
正解は無い。
ある時、こんなことを訴える生徒がいた。
・・・ 「(自由の森学園)でも先生たちの多くは、どこから板書が始まりそれがどこに飛ぶのか予測がつかない。先生の言葉のどこがどう展開してどの単語や図に結びつくのか、とても緊張したの」 ・・・
「自分の考えと先生の言葉が頭の中で混ざり合う、時には友達の考えや言葉、質問、それが一つのまとまったものとして出てくる。だから私のノートは先生と私の共同作品」
ノートが生徒にとって僕と彼女の共同作品なら、僕にとって授業そのものの全過程が共同作品である。息遣いやおしゃべりまでが同調して来るのである。
「ではこの学校の先生の板書は、ある意味で完璧だから困るんだ」
「そうなの、教科書を箇条書きにしてきれいに要約してあるから、それさえ写して暗記すればテストもほぼ満点。なーんにも考えないで済む。そして何にも考えなくなる。それを先生たちに言っても理解してくれないの」
「君にとって完璧な板書は、思考の妨害か」
blog『ノートは先生と私の共同作品』 ←クリック 彼女は『パリュウド』を読んでいたのだろうか。
学校で大切なのは、入学前の知識ではない。入学してどれだけの知識を獲得できるかであり、それは学生自身が判断するもの。試されているのは大学や高校の授業の質である。従って入試は要らない、有害無益。
『ソヴィエト旅行記』や『コンゴ紀行』でジイドは、極めて広い範囲の激しい評論を受けた。時には脅迫と捉えられかねないものもあった。我々に必要なのは、何を「発信」したかを受け取る側の反応を通して知る事なのだ。穴埋め式の手軽な問題で、生徒学生に「正解」を強いるのはまさしく知的成長を妨げることにしかならない。
アンガージュマンは単に社会参加することではない、自らを民衆の中に「投機」視線を広げ変える事である。他者の思考を自らの中に取り込む事なのだ。そうしなければ我々は「完璧な板書による思考妨害」から脱出出来ない。