もし、君の庭が貴金属だらけになったら

  夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられて親も子も将来の稼ぎ高に目の色を変えて学校や企業をランク付けする。平等や公平と言う言葉は辞書の中で死んだようだ。それだけではない、歴史上の人物までがその稼ぎ高や地位に焦点を合わせて評価する番組が目白押し。その結果、賞を得た者が排他的に社会総体の実りを思いのままにする。

 学校や企業では、そんな我が儘勝手が横行し易い。偏差値に中毒する日本社会だ、「悔しければ、ひもじければ這い上がれ。」と新聞もtvも止むことなく煽り立てる。    

 根っからの自由人、辻 潤は餓死を選んだ。彼の墓は染井の西福寺にある。我々は貴金属だけの世界に住めっこないのだ。目が眩むような貴金属の眩しさと栄光に「悧巧」な君たちが酔いしれている時、対極には糞まみれの土にまみれながら種を蒔き、水を断崖を運び上げ害虫害獣収奪と日夜闘う者が「造られる」。君は呟くのだ「金さえ払えば文句はないだろう」

 これが太古の昔であれば、中央権力から遠ければ過酷な収奪からは少しは自由。中央の眩しさも伝わらない。たが今全ては暴力的に忽ち伝わる。それが便利で進歩だと。もっと早く、手軽に。

   辻 潤が餓死を選んだ1944年、大日本帝国は裏声で「大東亜共栄圏」愛に酔った。しかし愛は計画出来ない。恋愛を出会い頭の事故に例えたり天使のいたずらのせいにするのも、それがなぜ起こったか合理的な説明が出来ないからである。好きになったばかりに、祖父母や子どもの病状が急変して、慌てて駆けつけ大儲け出来なくなったり全財産を失ったりもする。好きになったばかりに、相手を殺す羽目に陥ったりもする。一途に思い詰め、周りも相手も自分自身さえ見えなくなるからだ。都合のいい時だけに、愛を設定することはできない。

  「五族協和」や「八紘一宇」も、当時の日本の思い上がった東洋支配への「愛」であった。いや明治維新の「四民平等」さえ傲慢な差別社会への「愛」でしかなかった。植民地主義のお先棒を担いだ教会も「愛」を掲げずにはおれなかった。まさに「夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」

 愛は計画できないと同時に、計画出来るものは愛ではなく夢想に過ぎない。だから「夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる」。「五族協和」や「八紘一宇」が、現実の政治過程に転化するや否や「愛」は支配や搾取の暴力性をむき出しにする。満州開拓の「理想」は中国農民の土地略奪であり、抵抗する者への弾圧殺戮であった。それでも「五族協和」や「八紘一宇」を信じる者は、ただの愚か者である。「夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らず」一億総玉砕を叫んで死んだ。

  

「人類は結局愚かであった。・・・人類は悧巧ぶることは出来たが、そのために悧巧になれなかった」串田孫一「断想集」


  今また日本は金さえ出せば何でも買えるはずと奢っている。どんなに足掻いても、ダイヤの畑に種は根を張れないのに。

 プロになりいくら稼げるようになったとしても、どんなに賞賛され祭り上げられても、君はもう二度と「楽しみ」の為にplayに興じることは出来ないのだ。

国家テロに、覇権国家が依存するわけ

   白起は紀元前257年生まれ、中国戦国時代末期の秦の武将。司馬遷は『史記』で「料敵合変、出奇無窮、声震天下)」と評した。長平の戦いでは降伏した40万の趙兵を尽く生き埋めにしたと伝えられるが、主君の昭襄王は自害を命じる。

    2024年2月植民国家イスラエルは、ガザ全域の市街を破壊しパレスチナの存在を消そうとしている。ジェノサイドが止まらない。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によれば゛昨年10月以来ガザ地区でイスラエル軍が殺害した子どもたちの数1万2300人は、2019年から2022年までの4年間に世界中の紛争で殺された子どもの合計よりも多い。


    ジョナサン・パーカーの著書『テロリズム その論理と実態』は 、一八世紀から一九世紀にかけてアジア、アフリカで展開されたイギリスによる「虐殺」の数々を、「国家テロ」として挙げている。一部を引用する。

  大英帝国支配下のベンガル(印度東部からバングラデシュに跨がる地域)総督の副官であったジョージ・フィッツクラレンス大佐は、ビンダーリー族について 「盗賊として有名だった彼ら戦う権利を持つ敵として彼らを支配するのではなく、彼らを根絶することが目的だった」と語っている。

 「いったいどうやってマオリ族を文明化できるというのか」と、1834年にニュージーランド北沖で船が難破した・・・英帝国軍人船長は問いかけた。「確実にやつらを射殺すること。一人残らずニュージーランド人にマスケット弾丸を打ち込むより他に、あの国を文明化する方法などない。」

  オーストラリアの裕福な牧場主でもあったウィリアム・コックス将軍は、1825年に開かれたボーフォートでの公開集会で演説した。「我々がなしうる最善のことは、すべての黒人を射殺してその死体を土地の肥やしにすることだ。・・・黒人を根絶するために、女と子どもは特に確実に殺さなければならない。」


 これら「大英帝国」植民地支配を担う軍人の歪んだ世界観は枚挙に暇がない。アムリットサル事件はその頂点の一つ。

  非武装の集会の参加大衆に対してレジナルド・ダイヤー准将率いるイギリス領インド帝国軍一個小隊は発砲、さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。

  今尚イスラエルがパレスチナでやっていることは、

 フランスがアルジェリアやアフリカ各地で、イギリスがインドが世界各地で、ベルギー人がコンゴやアフリカ各地で、アメリカ人がベトナムや世界各地で、スペイン人が南米で、イタリア人がアフリカで、ドイツ人がナミビア等のアフリカ各地で、日本が朝鮮や東アジアでやった国家犯罪=国家テロの一部にすぎない。

  これら嘗ての植民地帝国諸国が、挙ってイスラエルのジェノサイドを「国家の権利としての防衛」と見做すのは嘗ての国家犯罪=国家ロを合理化するからであり、反省や謝罪の意識は何処にもない。

大きな声が必要なのは誰か

  ある都立高校のgooglemaphttps://www.google.co.jp/maps/ 口コミ欄にこんな感想が寄せられている。

 「毎週末、グラウンドでの部活動がチンピラまがいの騒がしさです。野球部とサッカー部もかな。わざわざ、校舎側でなく民家側に寄って無駄な大声を出し放題。ペアガラスなんて意味なく、音楽も聴けません。

 例えば試合で、誰かが良いパフォーマンスした時などに盛り上がる位は全く構わないのですよ。楽しんで欲しい。ですが、練習などでワンアクションする度に無駄な掛け声など必要か?大声出せばパフォーマンス上がるのか?上がらねえよ。子供達が悪いのではなく、指導者が問題。大声出させたいなら校舎側でやって。」


 この学校も嘗てはnhk tvの番組で度々取り上げられる程の所謂「名門」だった。敷地の民家寄りには古い学校らしく大きな桜並木があり、絶好の日陰を造る、そこに複数の部活数百名が集まり騒ぐから喧しい。

 「名門」なら何でも許されると言わんばかりに部活顧問教師は無神経に大声を煽る。近隣住民の堪忍袋も切れる。

 大きな声が必要なのは「住民」の方ではないか、「うるさいぞ、迷惑だ」と注意を喚起する為に。しかし彼らは窓を閉め切って怯える。

権力は飾り立てたがる

 関東大震災の時も大きな声を挙げ威圧したのは武装した自警団。朝鮮人や中国人・社会主義者たちは為す術無く惨殺された。「武装した自警団」とは言わば公権力の規制から逸脱した「自由主義」者=「新保守主義即ちネオコン」に他ならない。近代民主主義社会が成立すれば、公権力は「自由主義」とは相容れない。

 公権力は声がやたらに大きく勲章や地位の好きな「お上」とは本質的に違う。特に学校では自覚する必要がある。教委も学校管理職も安易に自らを「お上」に擬えたがるからだ。勘違いも甚だしい。彼らは公僕であり、公権力=市民による議会に忠実でなければならない。それは多数決とは次元が違う。常に小さな声に敏感でなければ、平和と教育は直ちに崩壊する。

盗んだ品物を返しさえすれば窃盗の罪もチャラかい?

 定期テストや進級テストで不合格宣告されたら、事後訂正すれば合格か?  医師国家試験や司法試験終了後、間違いがあっても言い訳すれば合格なのか?   だって自民の国会議員のやり放題は、ズバリそんなとこだ。

 自民党国会議員の政治資金パーティー裏金作りは、秘書のミスや事後訂正で済ませて知らん顔が当たり前、それをマスメディアがもて囃す。元々怪しさ満載の政党交付金制度導入自体、企業・団体献金禁止が前提だった筈。

  そんな国家・民族なのか、僕の住むこの場所は。原爆を二度も落とされ水爆の害さえ被ったにもかかわらず、加害国家に従属して80年が過ぎようとしている。あろう事か、被爆者を差別し加害国家の隠蔽工作に忖度し続けている。

 我々はとんでもない「思考停止」に陥っている。

 世界に類を見ない大規模な消費税を自然現象のように受け入れ、天皇一族には珍妙な敬称をつけたがり面倒で費用の嵩む元号を不必要に弄びながら、他方では福祉教育医療を後退させ続ける。

  利用価値のうすい「北方領土」や竹島・尖閣諸島には眦を決して拘るが、戦犯昭和天皇は住民ごとアメリカに占領続行を懇願させ責任を問おうとはしない。正常で独立した判断を捨てたか、麻痺させたか、無知なのか。この時新憲法は既に施行されていたのだ。

 「天皇陛下万歳」や「殉忠愛国」「天皇帰一」「皇国の亀鑑」に類いする呪い言葉は、この民族の批判精神を凍結させたのだ。

  スポーツや遊戯のプロ化も大掛かりだが手軽な「思考停止」装置に他ならない。何故ならあらゆる進歩や発展の指標が悉くアジア諸国に追い抜かれている現状への考察をさせないからだ。

  学校に於ける「思考停止」装置は「部活」である。教委や管理職にとって学校の使命は授業では無くなって久しい。その証拠に校長は授業出来ない身分である事を恥とも屈辱ともしないのだ。ひたすら校舎の壁や廊下に各種大会の入賞歴を晒す事を誉れとしている。何時になったら、校長や教委が授業に夢中になるのだろうか。

パレスチナ・ガザ沿岸に「病院船」を派遣するイタリア

 CNNによれば、 イタリアは2023.11月8日病院の機能を持つ海軍の船舶をパレスチナ自治区ガザ地区へ派遣する。現地の犠牲者を治療するためという。クロセット国防相は記者会見で、この病院船は8日にもイタリアを出発すると述べた。船の乗員は170人で、このうち30人が救急医療の訓練を受けているという。報道によれば、パレスチナ側との合意に基づいて、野戦病院を直接ガザに搬送する。彼は「我々はあの地域で人道的活動を行う最初の国であり、他の国々も我々に続くことを望む」と述べたという。


  かつて僕は、米軍にの戦争参加要請に抗してベトナムに病院船を派遣したドイツについて書いた。

   「 病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断 」     https://zheibon.blogspot.com/2020/08/jet.html

 再掲する。

病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断

Helgoland号甲板の乗り組み看護婦と治療後のベトナム幼児
 ベトナム戦争中米国は、同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは武器と兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約を遵守、米国の民族皆殺し政策に加担して殺すのではなく、北ベトナム、南ベトナム双方の民間人を治療したのである。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んしだ。

 これは、沖縄の基地をベトナム爆撃に使わせていた日本が率先してやるべきことだった。憲法九条を持つ自称「海洋国家」の何たる失策。世界に反戦運動が盛り上がる1969年、進水した原子力船「むつ」は失敗を重ね、膨大な費用を文字通りドブに捨てた。為にならないことには精を出し、害が明らかになっても中止する判断さえ出来ない。希望がない。
 


独は、伊からのコロナ患者輸送のために、エアバスA310 を改造
 そして今度は、コロナ患者のための世界最高のMedEvacである。高度な施設での治療が必要な患者を、治療を行いながら迅速かつ効率的に医療機関に搬送するICU専用jet 機。ドイツは、イタリアからドイツの病院にコロナ患者を運ぶために、エアバスA310 を改造。この飛行機には44床のベッドがあり、そのうち16床は高集中治療患者向けのもので、最大25人の医療スタッフが搭乗していると。

 病院船も ICU専用jet 機も、日本にこそ必要なものではないか。全国に散らばる離島のコロナ患者や医療破綻自治体の為に、複数のICU専用jet 機と病院船、そして病院列車が、大勢の医療stuffとともに必要だ。
 中国封じ込めのために、阿倍が世界中に専用機でばらまいた資金援助だけで 30 兆円。
 せめて首相専用機をICU専用jet機にしても罰は当たらない。何ら有効活用していない豪華専用機だ。
 莫大なコロナ対策費が、又もドブに投じられ却ってコロナ禍を広げ深刻化させている。
 集団的自衛権行使を容認して積極的平和主と嘯く日本は、いつまでも経っても、失敗を認めない、惨劇を中止出来ない国だ。
 日米欧6カ国首相のコロナ対応策調査「ケクストcnc」が7月中旬各国1000人対象に行った。プラス評価はドイツのメルケル首相(42%)のみ 、最低は日本阿倍首相のマイナス34%。


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「勝つことだけ」に執着する「プロ」の悲劇 Ⅰ

 

   引退する頃にボンヤリ分かっていたことが、三年ほ

 元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 
ど前になってハッキリ分かったんだよ。俺が女も家庭も全て捨ててやって来たボクシングが、実は金持ちが貧乏人を殴り合わせて見物する非道いことで、しかも金は結局見物していた連中が、、いろんなテクニックで巻きあげてしまうのさ、・・・ファイト・マネーの上前ははねる。その上、やれ一緒にビシネスをやろうとか、出資しろ、土地を買って朝鮮キャロットを植えれば、ボクシングをやめてもピンクのキャデラックに乗り続けられるなんて、それはいろんなことを言って来るんだ。リングに登る直前の控室から、一文無しになったこの頃まで、男も女もひっきりなしに俺の金を狙い続けるんだ。ボクサーは、強ければ強いほど他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。   サンディ・サドラー   元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 


   集団の中にどんなに優れた人がいても、集団の判断は知能の低い者に向かって平均化される。   マクドゥーガル   

 戦争や災害など密室化した空間で、我々は理性的判断を如何に保てるのか。社会が特に報道が、批判を怖れないことは不可欠。しかし今この国は戦争でも無いのに、新聞もTVも挙げて理性的・合理的判断を放棄、「勝つことに執着」している。 Japan as Number Oneと持ち上げられ慢心し続けたこの国は、あらゆる指標で落ちぶれ内に籠もっている。容易く稼げる「一位」を探し、やっぱり優れていたとの判断に縋ってしまうのだ

 

 勝敗に関係なく相手を理解することは、自己認識の前提である。負けることや互いに楽しみを分かち合うこと以上の悲しみはない。

   幸いに通算103KO勝ちのチャンピオンサンディ・サドラーは、強ければ強いほど・・・他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。」ことに気付くことが出来た。

 プロ野球、プロサッカー、プロゴルフ、・・・プロパチンコ、プロ麻雀・・・今や栄光のオリンピック各種競技もアマチュアでは無い。放映権で荒稼ぎする業界お抱えのプロだ。囲碁将棋も少年時からプロを目指したくなる。だが強くなればなるほど他のことは知らなくなる。これを成長と呼ぶことは出来ない。

 人間は全面的な発達を目指すべく宿命づけられている。

何時「才能」が発現するか、開花しないかも知れない。子ども時代からプロを目指すのは、才能の芽を早期発見することではなく、可能性を摘み取ることにしかならない。どんな時期に如何なる環境で誰とともに才能が伸びそして消えるのか。たとえ死ぬまで才能の発現が無いとしても、彼も又天才かも知れない。。比べ競うことは犯罪的賭けなのだ。失敗して路頭に迷う確率は、成功するより遙かに高い。

 手当たり次第にtopを目指す性癖は天皇制fasismの逃れられない宿命である。

 第1次南極調査隊の副隊長兼越冬隊長の西堀栄三郎や初期マナスル登山隊の今西綿司らは登山家としてはアマチュアであった。それ故「強くなればなるほど他のことは知らなくなる」ことからは自由であり、優れた科学者として成果を挙げ続けることができた。

 コロナ対策の「専門家」会議の医者や学者たちは、病院経営の専門家=「プロ」として莫大な利権を手中に収めた。利権を手中にすればするほど医師や学者としては恥多き失敗をかさねている。

 アマチュアであり続けることだけが人間らしい成長や発達の不可欠の条件なのだ。鶴見俊介も小田実も決してプロ評論家やプロ作家では無かった。

元いじめられっ子と元番長たち

  「「突っ張るのを止めた」生徒たち」でもう一つ思い出した。

 あれは遅刻の量も質もずば抜けて多いクラスで、会議のたびに担任の僕は槍玉に挙げられた。だが、面白さも抜群だった。

 下町の工業高校にやって来た元番長の猛者たちが学習意欲を高めたのは、小中学校でいじめ尽くされすっかり自信を失っていたO君と仲間になってからである。

 学級担任することになって、僕のクラスにだけ元番長が三人も揃ったことが判ったとき、多くの教師がある古手グループの「陰謀」を疑った、7学級のうち特定の学級にだけ中学校の番長を務めた三人が揃う確率はあり得ない。あったら分散させる。

 僕はそれらしい「陰謀」の主たちを思い浮かべてムカッとしたが、知らんぷりすることに決めた。

 最初のHRで、僕は開口一番「人間は誰だって知られたくない過去がある、中学校からの内申書は見ない」と言っておいた。

 すぐに、どこかそれらしさが残る生徒が準備室にやってきて

 「先生、ほんとは知ってんだろ、俺のこと」

 「名前以外は知らない、内申書のことだろう、見るか」と言ってロッカーの引き出しを開けてみせた。一クラス分の内申書が一通ずつ封印したまま紐で括られて入っている。

 「ホントに見てないんだ。・・・先生、俺番長だったんだよ。でも安心しなよ。俺もうしない、そう決めてんだよ」

 「そうか、君は有名人だったのか。でもやめるんだろ。だったら今聞いたことも忘れるよ。これから君がこの学校でやることだけが、君の価値を決めるんだ」

 次の日三人の元番長が揃ってやってきて、それぞれが別々の学校で総番長をしていて互いに知り合いだったと自己紹介をした。その一人はある区の番長組織のサブリーダーだった。三人とも口を揃えて

 「高校生になってから突っ張るのは、ガキ。高校デビューっていうんだ。だからもうやんないよ、安心しなよ」という。

 「じゃー勉強するために、学校に来たのかい」

 「そのつもり、一応将来のことも考えようと思ってんだ、よろしく、先生」よく見れば三人とも人懐っこい顔している。


 さっそく始めた個人面接では、先ず皆に「君たちの名前以外何も知らないから、自己紹介してくれ」と言った。

 だがO君は下を向いたまま何も言わない

 「いじめられたかい」と聞くと、大粒の涙が落ちて音を立てた。小学校でも中学校でも、男子からも女子からもいじめ尽くされた経験を語った。

 「このクラスになったからには、絶対にいじめはさせない。約束するよ」そういうと

 「・・・先生、僕勉強できるようになりたいんです。どうしたらいいんですか」

 「二つある。一つは友達に教える。二つ目は自分が興味を持ったことを、自分で調べてノートを作ることだ。なるべく長く一つのことを」

 彼が興味を持ったテーマは『教師の犯罪』。夏休みや冬休みのたびに、大学ノート一杯に新聞記事を貼り付け、本からの引用を使った感想を添えて、見て下さいと持ってきた。選んだテーマに彼が小中学校で受けたいじめの実態が見えて、胸が痛んだ。

 授業が始まって暫く経つと、O君が級友に親切に教えていることが教員の間でも知られるようになった。友達から聞かれてわからないことは、自分で調べたり教員に聞いたりしていた。元番長たちは、ことあるたびにO君の厄介になることになった。お陰で、彼の成績は三年間すべて「5」、造った実習作品も素晴らしい出来で、卒業後は展示された。


 だが、彼の家庭には不幸や不運が続き、アパートの電気やガスが止められたりした。昼飯を抜いて教室でぐったりすることも続いた。元番長たちはオロオロして僕に助けを求める。

 「先生この頃O君何も食べないんだよ。昼休みも机に突っ伏したまま。俺たちがパンを持って行っても食べてくれないんだ。何とかしてよ」百戦錬磨の番長たちが、友達のことではオロオロするのがおかしかったが、O君を呼んで話を聞いた。父親も姉も家を出て、家賃も払えない部屋に彼一人が残されたのだった。放課後飲み屋でアルバイトしていたが、そこで晩飯が出る、それだけで耐えていたのだ。しかし彼の成績が下ることはなかった。


 夏休みに元番長三人は神津島に行く計画をたて、O君を招待した。「そんなつもりで一緒に勉強したんじゃない」と固辞するO君を、説得してくれと又泣きついてきた。O君も戸惑っている

  「あいつらは、君と親友になれたんじゃないかと喜んでる。きみはどうだい」

  「僕も嬉しいです、こんな友達が出来たのは初めてだからどうしていいかわからなくて」

 「こうしょう。今は金がなくて苦しいから、好意に甘える。就職して楽になったら、かえす。または君があいつらを招待する」

  「わかりました。そうします」と笑顔を見せた。

 対等な関係が育む友情は、三人にとってもO君にとっても文字通り目くるめく体験だったのだと思う。

 元番長たちはそれぞれなかなかな企業に就職。三人をまとめて僕のクラスに画策した古手教員はわざわざ当該企業に電話を入れた。その一つ、日本を代表する名門企業の人事部は「元番長だと言うことも知った上で採用しました。大きな組織では彼のような繊細なリーダーシップが欠かせません」と僕にも連絡をくれた。O君は立派な大学の推薦入学も大企業もあっさり断って、現場密着の小さな会社に就職した。

 個人も組織も国家でさえ、突っ張るのを止めたいと願っている。その環境を整えることが出来るのが成熟した「社会である。

 SSHなど目立つ学校の生徒が強いられる致命的不幸は、O君や元番長たちに決して巡り会えないことだ。彼らが政治的指導者や指導的経営者に成った時、彼らはO君や元番長たちを国や職場の主権者として認識出来るだろうか。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...