インドでは、鉱山開発の是非を住民が判断し決定する。

インド最高裁の裁定は、村ごとの集会で開発の是非を決めるべきというもの
 オリッサ州 Niyamgiri 地方でボーキサイト採掘を、英国Vedanta Resources 社が企て、2005年に州政府と合意。開発の見返りとして、現地Dongriaの「未開部族」の村に学校や病院を建てるという提案付きで。何やら原発建設や米軍基地受け入れを巡る、日本のおぞましい動きを思わせる。
   しかし、神聖な地を奪われる人々は、工事開始に強く反発。開発の差し止めを司法に申し立てた。ここまでは、日本でもある展開。だがこの先が、根本的に異なっている。
 反対運動は Vedanta Resources 社の足下、英国にまで広がった。影響の広がりを勘案したのか、インド最高裁の裁定は、村ごとの集会で開発の是非を決めるべきというもの。12の村のうち最大の村の集会でも、全会一致で開発拒否が決まり、Niyamgiri開発の中止が確実となった、2013年のことである。

 インドではこれを、民主主義史の画期だと評価している。政府が「未開部族」に自分たちの将来を決めることを許した初めてのケースとして。開発を拒み、学校のない社会の持続を選択したDongria。彼らはこう言うのだ。
 もし「この子が学校に通ったら、この子は山を出て行き、外の生活を学んでいくだろう。そして、彼は私たちの土地を大会社に売ってしまうだろう。学校では、自然とともに生きるすべなど教えてくれはしない。かわりに搾取によって生きていくすべを教えるんだ」
   Dongriaは決して「未開部族」ではないことを、フランツ・ファノンの言葉が裏付けている。
  「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」  
  日本では教育が、開発という破壊の先頭に立ち、司法は住民の声を封じる役割に邁進している。
 Dongriaの村人の言葉は、我々の、見返りを求めて環境破壊を看過するさもしい選択に釘を刺している。
 我らの社会は、コミュニティを解体すること、つまり自治体合併を「合理的進歩」と捉えて直接民主主義の息の根を止めてしまっている。

追記 英国はインドを過酷に支配し、独立運動を弾圧した。だが、ガンジーが独立の件でイギリス議会に呼ばれた時、市民は熱烈に歓迎している。Dongria開発の件でも、英国市民が積極的にVedanta Resources 社への抗議活動をしている。
 日本市民は、かつて支配した地域の同様な問題に英国市民ほど熱心な支援をしているとは言えない。愚劣な嫌中・嫌韓言説だけが満ちあふれて、日本企業のアジアでの振る舞いに関心が薄いのは情けない。

61年のルムンバ暗殺に責任 ベルギー政府が謝罪と賠償

  「61年のルムンバ暗殺に責任 ベルギー政府が謝罪と賠
ルムンバは、1960年6月24日に初代首相に就任1961年
1月17日ベルギー人将校に軽機関銃で処刑された。
償」これは2002年2月のニュースである。

   僕がこの古いニュースを思い出したのは、ミャンマーの混迷するロヒンギャ民族を調べていたからである。かつてミャンマー、かつてのビルマは英国の植民地だったが、第二次大戦中、日本が侵攻。仏教徒の組織が日本を支持したのに対し、英国はムスリムのロヒンギャに、日本を追い出したら独立させてやると約束し、仏教徒とムスリムの戦いを誘発して混迷を深くしたのである。アウンサンスーチーは英国と利害を共有している。だから発言が歯切れ悪い。パレスチナにおける英国の二枚舌外交が、中東の大混乱を招いたのと同じ状況がある。僕は、英国の知らんぷりと日本の無責任が、我慢ならない。 

 ベルギー政府は、ルムンバ暗殺の道義的責任を正式に認めることになった。ミシェル・ベルギー外務大臣が「今日適用されるべき判断基準に照らして、当時の一部政府役員とその時期の一部の政府関係者はパトリス・ルムンバを死に至らしめた一連の事件に対する弁解の余地なき責任を担う」と声明。
 暗殺計画をこの上ない明瞭さで綿密に記述して暴露したのは、Ludo De Witteの”The Assassination of Lumumba.“である。Ludo De Witteは文献資料漁りと暗殺に関係した人々証言に数年を費やした。この本が出版された後、ベルギー政府は国会でこの暗殺を調査することを迫られることになったのである。国会調査委員会はベルギー政府関係の諜報部員の広い範囲にわたって証言を聴取。ベルギー政府声明はこの暗殺に関する調査研究の結果である。
 暗殺計画の組織化に関して、ワシントンのアメリカ政府から発せられた電報の数々とCIAの果たした役割は既に明らかになっている。また、英国諜報部MI6の役割も明らかになっている。
 1975年に米国上院議員フランク・チャーチは“外国元首を含む暗殺計画疑惑”の調査を行い、結果は1975年上院報告書94-465 として出版された。(「朝日ジャーナル」1975年12月25日号『臨時増刊 CIAの外国指導者暗殺計画 全訳 米上院調査特別委員会レポート』)  カストロ議長らの執拗な暗殺計画も報告されている。
 このチャーチ調査委員会の報告とこのベルギーでの議会諮問の存在にもかかわらず、ルムンバ殺害陰謀に関する情報は広く流布されていないのが現実である。ベルギーなどヨーロッパの学者たちは依然として彼らがコンゴでやってきたことをアフリカ人の文明化と唱えている。更に看過出来ないのは、この暗殺行為とそれが産んだモブツ政権によって、コンゴ社会の政治的文化と知識人を毒し破壊し続けたことである。モブツの政権は、不法殺戮を遂行し続け、学生や組合幹部を殺害してきた。
 1990年、コンゴで国家主権会議なるものが開催され、国民的論議の基礎を発展される試みがなされたのだが、コンゴ人の職業的政治家たちも,ワシントン、ブリュッセル、パリの帝国主義的支持者たちも、真実が表に出てくることを望まなかった。モブツの失脚以来の中央アフリカ地域の大量虐殺戦争と500万を超える死者数は、ひとたび、何をやっても刑罰を受けないという政治状況が社会に根をおろすと、それを根治するのに、数世代ではすまない深い傷を作る。
 1997年にモブツが転覆された時、アメリカでは、コンゴに関する文書を公開する必要があるという討論があまた行なわれた。ルムンバの暗殺が行なわれた当時、キンシャサ(コンゴの首都)のCIAの長であった年老いたLarry Devlin がそうした討論会の一つに顔を出した。彼の出席が意味したのは、モブツの犯罪におけるアメリカの役割に関してはすべてが伏せられたままに留めるべきこと、列を乱すことは許されないことであった。
 しかし、1999年の末には、ワシントン・ポストの記事で、1960年、コンゴでパトリス・ルムンバを抹殺すべしという命令をアイゼンハワー大統領が直接与えていたという事実が公式に確かめられた。この暴露記事は、それまでの40年間、すでに公然の秘密であった事実、つまり、アイゼンハワー大統領が時のCIA長官アレン・ダレスにルムンバ暗殺の指令を直接出していた事実を確認するものであった。 冷戦状態も過去となった今、アメリカの行為で破壊されたコンゴの社会の新生のために、関係の秘密文書の公開が改めて要求される。
  ミシェル・ベルギー外相はユーロ議会で「当時の政府関係者は暗殺に至った事態に責任がある。遺族とコンゴ国民に心からおわびする」と言明。旧宗主国の「暗い過去」に一定の決着をつけることになる。ベルギー政府は賠償代わりとして総額375万ユーロでルムンバ基金をコンゴに設立、紛争予防や法の支配強化、教育に役立てるという。                
 
  ユーロ議会を傍聴したルムンバ首相の長男のフランソワ・ルムンバ氏は「暗殺で民主化が阻止され、内戦で数百万人が死んだ」ことを指摘した上で「ベルギー政府の政治的勇気を称賛する」と述べたと報道されている。      
 コンゴは「アフリカの年」といわれた1960年にベルギーから独立。しかし、ダイヤモンドなど鉱物資源が豊富なカタンガ州が独立を宣言、内戦状態となり、ルムンバ首相は同州内に拉致され、殺害された。


追記 ルムンバ首相の長男のフランソワ・ルムンバ氏は寛容なのか、怒りを抑えているのか。375万ユーロの賠償額は人をなめている。  9.11事件への寄付金は、3億5,000万ドルを目標にしている。
 1885年にベルギー国王、レオポルト2世の私有地「コンゴ自由国」とされたコンゴ。「国」となっているが、当時のコンゴは、ベルギー議会の影響も及ばない国王の完全な私有地。現地住民は象牙やゴムの採集を強制され、ノルマ達成できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科された。殺害したコンゴ人の数は、1000万人とも3000万人とも言われている。 当時ヨーロッパ帝国主義は、いずれも過酷な収奪弾圧に明け暮れていたが、その彼らさえ、レオポルト2世には恐怖を覚えたという。
  この残虐極まりない植民地支配の責任については、今なお、ベルギーは全く触れていないのである。知らんぷりで、文明化したつもりでいる。
 

安保闘争以前の高校生 1

 ここ二・三年、かなり顕着な変化が私たちの周辺の高校生にあらわれてきている。
文章の10年後の高校。セーラー服生徒のスクラムの
向こう側に、ヘルメットとセクト旗が見える。
 いわゆる「われらの時代」風の〝閉ざされた未来〃というような感覚がむしろあらわれず、生活態度が非常に端的になってきている。功利主義にわりきるものは受験勉強に集中する。デカダン主義のものはスケートリンクへ直行する等。だが大切なことは、生活をムード的に考えないで、かれらなりに相等高い社会的判断力をもって、社会問題をまっすぐに受ける生徒が多くでてきている。そしてそれが、勤評闘争等を見聞することによって一そうはっきりしてきている。
 こういう高校生は、原水爆禁止運動をすすめる高校生(仙台・東京)生徒会連合をすすめる高校生(高知・京都)だけでなく、すでにあちこちにその姿をあらわしている。

  しかも、そういう社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的であるし、それが、一、二の高校だけの現象でなくて、私たちの乏しい見聞によっても、どの学校にもでてきている。
 「勤評闘争、安保改悪反対いろいろ論争したけれど、みんな真剣に考えるようになった。少しずつ明るい未来が近づきつつあることを切実に感ずることが、最近ことに多い」
  と新潟の仲間から、三重の私のもとにいってきている。確かに、政治的無関心もある。「自衛戦争は正しい」という高校生もいる。「アメリカは民主主義国、ソ連は非民主主義国」と「中学校で習って」きた生徒もふえている。だが、
 「勤評は校長先生が行う。しかしどんな先生がよい先生であるかは私たちこそ知っている筈である。勤評を行い、文部省の狙いどおりになる教育が行われ、先生と私たち、将来の生徒との間にみぞができたら。…みぞならいい、もっと恐しいことがおこらないとはかぎらない。そんな所にカを入れるよりは、もっと日本の独立のためにカを入れてほしい。小林委員長が痛々しい姿で羽田へつかれたと聞いたとき私はふっと歌った。、わかものよ、からだをきたえて′おけ、美しい心がたくましい体にからくも…その日のために…」 (三年女)
 こういう生徒もまた、ふえてきているのである。そういえば、勤評闘争の時に、私たちもよく会議したし、生徒たちもよくよって話し合っていた。冷やかに両者をくらべてみると、教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い。

 そうだとすると、こういう、よい傾向を、確かにみつめ、それをのばしてやるのが、高校教育なのでないだろうか。
 それなのに、かれらが成長してくると、「生意気になってきた」と怒り、かれらが社会的関心をしめすと、教師の方が抑えてかかったりすることはないだろうか。昔、軍隊生活を経験した人は、一〇・五の軍靴をわりあてられた一〇・七の足の男が、それを訴えると、上等兵などから、「なんだと、足を削れ、足を」といわれたことを知っている。それでも靴はとりかえてくれた。教育の仕事は、このように具象的でないために、案外、それと同じことを、教師がしていることはないだろうか。まちがった教育愛や、必要な支援の不足が、かれらの生活に、靴ズレをつくり、しかも化膿するまで見おとしていることはないだろうか。おたがい高校数師は、生徒をみつめるのにもっともっと努力する必要がある。
     竹田友三 高校教師論 1960 三一書房

 「教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い
 同じことを、中野重治も書いている。他の論者たちも同様の指摘をしている。それが何時、どんな切っ掛けで、教師の「指導」が優位になってきたのだろうか。一つのヒントを、竹田は言っている。「・・・社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的である
         

ゲルニカ事件 1989年

  九州の小学校(1989年 福岡市立長尾小学校)で、六年生が平和への決意をこめて「ゲルニカ」の幕を作成、卒業式会
『ゲルニカ事件―どちらがほんとの教育か』
著者は、井上 龍一郎とお母さんたち
この本に、子どもたちの「ゲルニカ」が紹介されている。
素晴らしい出来である。
場に掲げることになり、予行では実際に正面にはられた。しかし、校長は、「日の丸」を重視、混乱が起こってもよいと、「ゲルニカ」を正面から撤去して父兄席の後ろに移して、日の丸を正面に貼り付けてしまった。


  この6年3組は、5年生の時には「クラス崩壊」していた。担任は何度も変わり、最後は教務主任が強権的に子供を抑えて、担任の代わりを果たす。いじめも絶えなかった。6年で新しく赴任して来た先生が担任になる。6年の教師集団も意思が通うようになった。新しい担任井上龍一郎先生は、「クラスの旗」を作ったり、授業にも工夫を加え、不断の努力で子供達を変えていった。やがて卒業式の時期になり、「卒業制作」で「ゲルニカ」の大きな大きな幕を作る。素晴らしい出来映えだったと言う。この制作には多くの時間が割かれ、子供達の学びが続き、緩やかな団結を育んだ。  生徒たちは「ゲルニカ」の幕を卒業式場の正面に飾りたいと考えたが、校長が日の丸・君が代にこだわり職権でやると譲らない。何度も職員会議が開かれ、式の委員会でも「ゲルニカ」が推されたのである。
 卒業式当日、式次第が「国歌斉唱」まですすんだとき、卒業する」六年生の女の子が、「歌いません」と大きな声で発言し着席すると同時に、卒業生の約四分の一が着席、父母の中にも同調する人がいた。卒業証書授与の順番が、この女の子に回ってきたとき、彼女はこう発言した。卒業生は全員が父母席に向かって、決意を述べることになっていたからである。
 「私は『ゲルニカ』をステージに貼ってくれなかったことについて深く怒り、そして、侮辱を感じています。校長先生は私たちを大切に思っていなかったようです。『ゲルニカ』には、平和への願いや私たちの人生への希望も託していたというのに、貼って下さいませんでした。私は、怒りや屈辱をもって卒業します。私は絶対、校長先生のような人間にはなりたくないと思います」
 来賓席からは、下品な野次が飛んだ。このほかにも、十数名の卒業生が、「ゲルニカ」にふれて決意を述べた。この日から、この女の子と担任への地域ぐるみのいやがらせが始まり、担任は教育委員会から懲戒処分。このとき、日の丸は国旗ではなく、君が代は国旗でもなかった。
  2007年06月16日 のゲルニカ事件を取り上げたあるblogに書き込みがあった。
 井上先生懐かしい。私はゲルニカの絵を書いた6ー3の生徒だった者です。あれから色々あったけど、小学校の卒業式が一番の思い出です。井上先生から受けた教育は忘れられません。きっと元3組のみんなも、そう思ってると思います。一番今でも大好きな先生です。
  着任後たった一年で、崩壊していたクラスを見事立ち直らせた井上先生への信頼は、厚いことがわかる。

 子どもの気持ちを考えて、彼は提訴。裁判は最高裁まで持ち込まれた。東京のtv局はこれを「ゲルニカ裁判」と名付けた。裁判中担任は、右翼に付け狙われ、危険な場面も度々あった。ドスを右手で掴んだときには、ポロポロと指先が落ちた。彼は裁判で敗訴。定年を数年残し退職し「書家」となった。
 「君は、国旗への忠誠、国歌の斉唱、その他類似の行事への参加を強制されない」
 これは、アメリカ・マサチューセッツ州高校生が、教育委員会の援助の下につくった高校生の人権ガイドの一項目。
  もし、この事件がフランスで起こっていたらと考えてしまう。
 フランス刑法431条1項 「表現、就業、結社、集会、もしくはデモを妨げる行為は、共謀及び脅しを用いた場合は1年の禁固刑及び1万5千ユーロ(約208万円)の罰金、暴力及び損壊行為によるによる妨害の場合は3年の禁固刑及び4万5千ユーロ(約625万円)の罰金に処す」
  こどもたちの、表現を妨げた校長やヤジを飛ばした人(実は、平和教育を敵視する地方議員であった)が罰せられることになる。法は弱い者を守る、それが法治国であり立憲主義である。

  この校長が、もし教育者であれば、自分の在職中、学級崩壊になすすべ無かったことを恥じ、詫びる筈である。その上で子どもたちの意思を尊重し、6ー3の苦難と再生を振り返り総括すべきだった。折角の機会を自ら台無しにしている。

弱さは罪ではない、弱者を守るのが法

 すべての大人や教員がコルチャックのようであれば、「子どもの権利条約」そのものが必要ないのです。ナチスドイツがどんなに過酷な政策で、ワルシャワのユダヤ人を弾圧しても、コルチャックは平然とそれを無視し抵抗し子どもを守りました。
1968年10月2日、メキシコ政府はトラテロルコ三文化広場に集まった
学生たちを弾圧。わずか30分ほどの間に、数百人の死者
と数千人の逮捕者・行方不明者が出た。トラテロルコ事件である。
写真は政府側のカメラによるもの、逮捕された学生が下着姿にされ
軍隊の監視下に置かれている。報道は徹底的に管理された。
 もともと人間には、間違った政府・間違った法に抵抗する権利があります。間違った政府に従わない勇気をすべての人がもっていれば、どんな暴政もすぐ壊れてしまうのですが、そうはいきません。人間はみな弱いのです。学校によっては、高校生はデモに参加しただけで、退学処分にされかねません。退学させられる覚悟で不正とたたかう勇気は、なかなか持てません。デモへの参加が逮捕に結びつく国では、なおさらです。
 弱いことは罪ではありません。弱い者を守るのが法律です。言いたいこと、やりたいこと、抗議したいこと、協力したいことがたくさんあるのに、罰せられたり、不利に扱われたり、仲間はずれにされるのが怖くて実行できない、そんな弱い一人一人のためにも「子どもの権利条約」はあるのです。子どもの表現の自由や集合の自由が認められる社会では、子どもは罰を恐れることなく自分たちの言い分を掲げて行動できるのです。
                                                    
 今、日本の子どもたちは、勉強でも生活でも絶えず競争に追われています。競争でトップに立っても、心は休まりません。抜かれないように、走り続けなければなりません。競争させられるだけではなく、同質化することも同時に迫られます。これはとても幸いことです。
 多様であることが大事にされていれば競争は激化せず、参加しないことも降りることも簡単です。競争しながら同質化しなければならないとしたら、皆でいつまでも走り続けなければなりません。降りたら置き去りにされてしまいます。
 子どもにとっての不幸は、状況の厳しさばかりではありません。もっとも苦しいのは、自分らしく生きられない、自分のなりたいものになれないことです。まったく意味のないトップを決めるための競争で、自分らしく生きることをがまんしてトップになった子どもも、自分のなりたいものにはなれません。偏差値の高さが邪魔をして、人付き合いが苦手なのに、医者や弁護士を目指してしまうことがあるからです。子どもの競争は、学校という組織を介して行われています。
 子どもが、学校やその他の組織から自由にならなければ、子どもの苦しみはなくなりません。子どもの苦しみは、子ども自身が闘うのでなければ無くなりません。「子どもの権利条約」は、その手段の一つです。
                                      拙著『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版

心理カウンセラーや教師が、白衣を着たがる哀れ

  臨床教育学という言葉を怪しいと僕は思う。教育現場の具体的課題を扱うのに、何故医学的言葉「臨床」を用いるのか。誰がどこに、横たわっているのか。建設現場の問題に密着した学問を、臨床土木工学というのだろうか。具体的課題に密着してこそ「教育学」ではないのか。そうでない教育学を、教育学・学と呼んだり空理教育学と呼んだほうが相応しい。

 「臨床」は、心理カウンセラーや教師が白衣を着たがるのに似て哀れである。白衣はハンセン病療養所内分校派遣教師のそれのように、自らと労働対象の隔離宣告である。
 現場・教育学などと言えば、そこに漂う泥臭さが嫌だったのか。Clinical Pedagogyの下手な直訳か。臨床という言葉に残る「白衣」的語感。現場の問題に密着すると言いながら、高みに上半身を置きたがる。教師を、魂の医者と書いた本までがあった。
 現場で役立たない土木技術・理論は意味がない。教育学も全く同じではないか。
 ある日のある教室でのやりとりから、失敗から、日常から出発しない教育学・学。ソクラテスやヘルバルトから始まり衒学的議論に走る「学」こそ、そのまま病床に送るべきものとして「臨床」の語を掲げねばならない。
 巷間言うところの「臨床教育学」は、一体何を病と見立てて、誰を医者と見なしているのか。教育における「病」は、教育行政と管理構造、格差と選別のあるところに発症する。例えば「教育原論」こそO月O日のO先生のO教室でのやりとりに徹頭徹尾こだわり、そのうえで普遍性ある記述が必要なのである。しかし、もしそれを書けば「経験的教育原論」「エピソード教育原論」と揶揄されるに違いない。ハンセン病療養所全生分教室の青山先生なら、どのような「教育原論」を書いただろうか。
 沢柳政太郎は、1908年に文部次官を退き『実際的教育学』を著し、「教育学」学に警鐘を発した。後に成城小学校を作るが、『実際的教育学』そのものが実際的でなかったことを反省してのことだと思う。

  「社会現象に医学上の範疇を適用するのは本当に理にかなっているだろうか・・・」(『バーガー社会学』学習研究社)。
 ライト・ミルズは《社会病理学者の専門的理念》と題した論文の中で、「社会病理」は、社会学者の帰属する社会層(中流階級・知識階級)の反映でしかないということを証明して久しい(『権力・政治・人民』みすず書房)

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...