インド最高裁の裁定は、村ごとの集会で開発の是非を決めるべきというもの |
しかし、神聖な地を奪われる人々は、工事開始に強く反発。開発の差し止めを司法に申し立てた。ここまでは、日本でもある展開。だがこの先が、根本的に異なっている。
反対運動は Vedanta Resources 社の足下、英国にまで広がった。影響の広がりを勘案したのか、インド最高裁の裁定は、村ごとの集会で開発の是非を決めるべきというもの。12の村のうち最大の村の集会でも、全会一致で開発拒否が決まり、Niyamgiri開発の中止が確実となった、2013年のことである。
インドではこれを、民主主義史の画期だと評価している。政府が「未開部族」に自分たちの将来を決めることを許した初めてのケースとして。開発を拒み、学校のない社会の持続を選択したDongria。彼らはこう言うのだ。
もし「この子が学校に通ったら、この子は山を出て行き、外の生活を学んでいくだろう。そして、彼は私たちの土地を大会社に売ってしまうだろう。学校では、自然とともに生きるすべなど教えてくれはしない。かわりに搾取によって生きていくすべを教えるんだ」Dongriaは決して「未開部族」ではないことを、フランツ・ファノンの言葉が裏付けている。
「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」日本では教育が、開発という破壊の先頭に立ち、司法は住民の声を封じる役割に邁進している。
Dongriaの村人の言葉は、我々の、見返りを求めて環境破壊を看過するさもしい選択に釘を刺している。
我らの社会は、コミュニティを解体すること、つまり自治体合併を「合理的進歩」と捉えて直接民主主義の息の根を止めてしまっている。
追記 英国はインドを過酷に支配し、独立運動を弾圧した。だが、ガンジーが独立の件でイギリス議会に呼ばれた時、市民は熱烈に歓迎している。Dongria開発の件でも、英国市民が積極的にVedanta Resources 社への抗議活動をしている。
日本市民は、かつて支配した地域の同様な問題に英国市民ほど熱心な支援をしているとは言えない。愚劣な嫌中・嫌韓言説だけが満ちあふれて、日本企業のアジアでの振る舞いに関心が薄いのは情けない。