『ゲルニカ事件―どちらがほんとの教育か』 著者は、井上 龍一郎とお母さんたち この本に、子どもたちの「ゲルニカ」が紹介されている。 素晴らしい出来である。 |
この6年3組は、5年生の時には「クラス崩壊」していた。担任は何度も変わり、最後は教務主任が強権的に子供を抑えて、担任の代わりを果たす。いじめも絶えなかった。6年で新しく赴任して来た先生が担任になる。6年の教師集団も意思が通うようになった。新しい担任井上龍一郎先生は、「クラスの旗」を作ったり、授業にも工夫を加え、不断の努力で子供達を変えていった。やがて卒業式の時期になり、「卒業制作」で「ゲルニカ」の大きな大きな幕を作る。素晴らしい出来映えだったと言う。この制作には多くの時間が割かれ、子供達の学びが続き、緩やかな団結を育んだ。 生徒たちは「ゲルニカ」の幕を卒業式場の正面に飾りたいと考えたが、校長が日の丸・君が代にこだわり職権でやると譲らない。何度も職員会議が開かれ、式の委員会でも「ゲルニカ」が推されたのである。
卒業式当日、式次第が「国歌斉唱」まですすんだとき、卒業する」六年生の女の子が、「歌いません」と大きな声で発言し着席すると同時に、卒業生の約四分の一が着席、父母の中にも同調する人がいた。卒業証書授与の順番が、この女の子に回ってきたとき、彼女はこう発言した。卒業生は全員が父母席に向かって、決意を述べることになっていたからである。
「私は『ゲルニカ』をステージに貼ってくれなかったことについて深く怒り、そして、侮辱を感じています。校長先生は私たちを大切に思っていなかったようです。『ゲルニカ』には、平和への願いや私たちの人生への希望も託していたというのに、貼って下さいませんでした。私は、怒りや屈辱をもって卒業します。私は絶対、校長先生のような人間にはなりたくないと思います」
来賓席からは、下品な野次が飛んだ。このほかにも、十数名の卒業生が、「ゲルニカ」にふれて決意を述べた。この日から、この女の子と担任への地域ぐるみのいやがらせが始まり、担任は教育委員会から懲戒処分。このとき、日の丸は国旗ではなく、君が代は国旗でもなかった。
2007年06月16日 のゲルニカ事件を取り上げたあるblogに書き込みがあった。
井上先生懐かしい。私はゲルニカの絵を書いた6ー3の生徒だった者です。あれから色々あったけど、小学校の卒業式が一番の思い出です。井上先生から受けた教育は忘れられません。きっと元3組のみんなも、そう思ってると思います。一番今でも大好きな先生です。
着任後たった一年で、崩壊していたクラスを見事立ち直らせた井上先生への信頼は、厚いことがわかる。
子どもの気持ちを考えて、彼は提訴。裁判は最高裁まで持ち込まれた。東京のtv局はこれを「ゲルニカ裁判」と名付けた。裁判中担任は、右翼に付け狙われ、危険な場面も度々あった。ドスを右手で掴んだときには、ポロポロと指先が落ちた。彼は裁判で敗訴。定年を数年残し退職し「書家」となった。
「君は、国旗への忠誠、国歌の斉唱、その他類似の行事への参加を強制されない」これは、アメリカ・マサチューセッツ州高校生が、教育委員会の援助の下につくった高校生の人権ガイドの一項目。
もし、この事件がフランスで起こっていたらと考えてしまう。
フランス刑法431条1項 「表現、就業、結社、集会、もしくはデモを妨げる行為は、共謀及び脅しを用いた場合は1年の禁固刑及び1万5千ユーロ(約208万円)の罰金、暴力及び損壊行為によるによる妨害の場合は3年の禁固刑及び4万5千ユーロ(約625万円)の罰金に処す」こどもたちの、表現を妨げた校長やヤジを飛ばした人(実は、平和教育を敵視する地方議員であった)が罰せられることになる。法は弱い者を守る、それが法治国であり立憲主義である。
この校長が、もし教育者であれば、自分の在職中、学級崩壊になすすべ無かったことを恥じ、詫びる筈である。その上で子どもたちの意思を尊重し、6ー3の苦難と再生を振り返り総括すべきだった。折角の機会を自ら台無しにしている。
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