弱さは罪ではない、弱者を守るのが法

 すべての大人や教員がコルチャックのようであれば、「子どもの権利条約」そのものが必要ないのです。ナチスドイツがどんなに過酷な政策で、ワルシャワのユダヤ人を弾圧しても、コルチャックは平然とそれを無視し抵抗し子どもを守りました。
1968年10月2日、メキシコ政府はトラテロルコ三文化広場に集まった
学生たちを弾圧。わずか30分ほどの間に、数百人の死者
と数千人の逮捕者・行方不明者が出た。トラテロルコ事件である。
写真は政府側のカメラによるもの、逮捕された学生が下着姿にされ
軍隊の監視下に置かれている。報道は徹底的に管理された。
 もともと人間には、間違った政府・間違った法に抵抗する権利があります。間違った政府に従わない勇気をすべての人がもっていれば、どんな暴政もすぐ壊れてしまうのですが、そうはいきません。人間はみな弱いのです。学校によっては、高校生はデモに参加しただけで、退学処分にされかねません。退学させられる覚悟で不正とたたかう勇気は、なかなか持てません。デモへの参加が逮捕に結びつく国では、なおさらです。
 弱いことは罪ではありません。弱い者を守るのが法律です。言いたいこと、やりたいこと、抗議したいこと、協力したいことがたくさんあるのに、罰せられたり、不利に扱われたり、仲間はずれにされるのが怖くて実行できない、そんな弱い一人一人のためにも「子どもの権利条約」はあるのです。子どもの表現の自由や集合の自由が認められる社会では、子どもは罰を恐れることなく自分たちの言い分を掲げて行動できるのです。
                                                    
 今、日本の子どもたちは、勉強でも生活でも絶えず競争に追われています。競争でトップに立っても、心は休まりません。抜かれないように、走り続けなければなりません。競争させられるだけではなく、同質化することも同時に迫られます。これはとても幸いことです。
 多様であることが大事にされていれば競争は激化せず、参加しないことも降りることも簡単です。競争しながら同質化しなければならないとしたら、皆でいつまでも走り続けなければなりません。降りたら置き去りにされてしまいます。
 子どもにとっての不幸は、状況の厳しさばかりではありません。もっとも苦しいのは、自分らしく生きられない、自分のなりたいものになれないことです。まったく意味のないトップを決めるための競争で、自分らしく生きることをがまんしてトップになった子どもも、自分のなりたいものにはなれません。偏差値の高さが邪魔をして、人付き合いが苦手なのに、医者や弁護士を目指してしまうことがあるからです。子どもの競争は、学校という組織を介して行われています。
 子どもが、学校やその他の組織から自由にならなければ、子どもの苦しみはなくなりません。子どもの苦しみは、子ども自身が闘うのでなければ無くなりません。「子どもの権利条約」は、その手段の一つです。
                                      拙著『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版

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