「臨床」は、心理カウンセラーや教師が白衣を着たがるのに似て哀れである。白衣はハンセン病療養所内分校派遣教師のそれのように、自らと労働対象の隔離宣告である。
現場・教育学などと言えば、そこに漂う泥臭さが嫌だったのか。Clinical Pedagogyの下手な直訳か。臨床という言葉に残る「白衣」的語感。現場の問題に密着すると言いながら、高みに上半身を置きたがる。教師を、魂の医者と書いた本までがあった。
現場で役立たない土木技術・理論は意味がない。教育学も全く同じではないか。
ある日のある教室でのやりとりから、失敗から、日常から出発しない教育学・学。ソクラテスやヘルバルトから始まり衒学的議論に走る「学」こそ、そのまま病床に送るべきものとして「臨床」の語を掲げねばならない。
巷間言うところの「臨床教育学」は、一体何を病と見立てて、誰を医者と見なしているのか。教育における「病」は、教育行政と管理構造、格差と選別のあるところに発症する。例えば「教育原論」こそO月O日のO先生のO教室でのやりとりに徹頭徹尾こだわり、そのうえで普遍性ある記述が必要なのである。しかし、もしそれを書けば「経験的教育原論」「エピソード教育原論」と揶揄されるに違いない。ハンセン病療養所全生分教室の青山先生なら、どのような「教育原論」を書いただろうか。
沢柳政太郎は、1908年に文部次官を退き『実際的教育学』を著し、「教育学」学に警鐘を発した。後に成城小学校を作るが、『実際的教育学』そのものが実際的でなかったことを反省してのことだと思う。
「社会現象に医学上の範疇を適用するのは本当に理にかなっているだろうか・・・」(『バーガー社会学』学習研究社)。ライト・ミルズは《社会病理学者の専門的理念》と題した論文の中で、「社会病理」は、社会学者の帰属する社会層(中流階級・知識階級)の反映でしかないということを証明して久しい(『権力・政治・人民』みすず書房)
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