アレントの「活動」と部活の「活動」

  ハンナ・アレントは人間の働きを少なくとも3つに分けて考察している。労働(labor)、仕事(work)、活動(action)。
 そして、活動による真の政治参加を呼びかけた。この政治参加は投票に行くということではない。サルトルが重視したアンガージュマンでもない。"公共の生活"の新たな再生である。
  シモーヌ・ブェィユも「本当の人生は、感覚ではなく、活動-考え、行動するという意味での活動です」という文脈で「活動」を使っている。

  フランスの彼女たちが使う「活動」に対して、日本のクラブ活動や就活などの「活動」は、「火山活動」「活動写真」の単語が示すように、現象として活発に動いていることに過ぎない。つまり主体抜きの「活発」さだけが「活動」の要である。
 だから学校でこれら「活動」が禁じられることはない。むしろ奨励され、義務づけられ、強制される。学級活動、清掃活動・・・。
  就活にも、生きる主体としての若者の姿は見えない。どこまでも、雇って「もらう」ための迎合する眼差しに満ちた手続きに過ぎない。
 例えば、若者が職場を訪問して、この職場で「私にどんな仕事をさせたいのか」、「私はこんな能力を持っている、それをここは生かせるか」。「どんな待遇で雇うのか、差別はあるのか」。「組合は、私の当面の要求は・・・」などという交渉をすることが出来るだろうか。高校入試の面接でさえ、中学生が「体罰した教師の罰則はありますか」とか「セクハラはありますか」「私は、いじめから守られますか」などと聞く場面は想像できない。促しても、ありませんと呟くだけであった。「部活」から「終活」までおぞましい限りである。
 Actionとは、先ずは主張し行動して、相手に能動的に働きかけることである。そのことを通して「公」を形成する主権者となる筈であった。
 我々の言葉が、歴史的に洗練されていない。常に強者の成り行き、流行り任せである。

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