田代三良が「教師の質の低下」を指摘したのは1975 年だった  / 何が「質の低下」をもたらすのか

雪舟天橋立部分
 後の雪舟が京都相国寺に入り、等楊の名を与えられたのは12歳の時。絵の師は周文であった。ある分野の「質の低下」は何がもたらすのか。松本清張が、『小説日本芸譚』で興味深い考察を加えている。

 周文は、・・・牧谿を絵手本として頻りと摸していた。牧谿の柔らかい気分描写はこの時代の人に好かれたし、舶載の絵の中でも最も多かった。それで彼らは牧谿様の柔らかい美しい仕上げに得意であった。同様に馬遠や夏珪の緻密で繊細な筆様も摸していた。要するに彼らは、明の文人画に未だなずまず、専ら宋元の端正な院画風な絵を手本としていた。
 等楊はどのように努力しても、絵がきれいにかけなかった。それは生来の彼の無器用さによるのだ。・・・ 等楊は己の才能を疑って、何度か絶望した。・・・


 十年の後、等楊はその画技において、宗湛(兄弟子)と争うまでになっていた。
 絵の仕上げは相変らず器用でない。しかし等楊は、その欠点を補う途を見つけていた。それは構図の妙であった。
一体、舶載されてきた宋元の画には大幅が無く、殆どが小品であった。それで日本の画家は布置の変改を試みようにも、狭小な絵手本の内容に縛られて工夫の見当がつかなかった。ここを彼処に、彼処を此処に置き変えるという創意の余地がなかったのである。殆ど真蹟通りの模倣であった。・・・それも小品の原図の引き伸しであった。それで、その欠点は、茫平として纏りのない、ふやけた結果となって顕われている。周文ほどの者すら、画面に改変の創意を加えることまで及ばなかった。

 日本の風土とは全く異質の・・・実地を見たこともない画家たちは、専ら「画本」による概念しか得ていなかった。その、あやふやな観念に固定されているから、原図の呪縛から一寸も離れることが出来ない。だから部分的な作意の挿入も大そうな冒険で、怕くてやれなかった。その限りでは、悉く模倣から出ることはなかった。

 享徳3年(1454年)、
勘合貿易で賑わっていた山口に移り、機会を得て遣明船に乗ることが出来た。 応仁元年(1467年)の事である、49歳になっていた。約2年間を寧波から北京と水墨画修行に励んだ。 帰国船の中で、友人に明で何を得たかを問われ答える。

 「画本でなく、実際の風景に接したということさ」
 これだった。今までの概念的な知識でしかなかった宋元画の山水が、この眼で実地に見て具象的に実体を把握したことである。内面の充実がそこにある。何千何首と舶載画を見ても、頼りなげな観念は手本の画に縛りつけられたままである。実地に踏み入って確実に視覚で捉えた自信だけが、抜きさしならない手本の桎梏から解放されたのである。


 教職は、模倣の殿堂である。それも貧弱な。例えば地歴科教育法を学んでも、歴史学を学んだことにも教育学を学んだことにもならない。運良く世界史教師として採用されても、歴史学専攻でない限りあやふやな生煮えの知識のまま教壇に立たざるを得ない。
 経済学も政治学も知らない「政経」教師、哲学も思想史も学んだことのない「倫理」教師はざらだった。「社会常識」があれば事足りると、担当する人間自身が嘯いていた。免許は社会なのに英語や数学をねばならぬ教師も少なくなかった。
 これらの教師は、高校の授業の記憶や教科書そして指導書に頼ることになる。せいぜい新書本や他人の実践集を使う事になりかねない。新書や実践集はそれ自体が安易な模倣か引き写しに過ぎない事が多い。社会の現実からは遠く離れる。文献による場合も原典を読むことはなく、簡単な解説に頼ってしまう。
 それ故「日本の(教師)は・・・狭小な・・・手本の内容に縛られて工夫の見当がつかなかった・・・殆ど・・・模倣であった。・・・それも小品の原図の引き伸しであった。それで、その欠点は、茫平として纏りのない、ふやけた結果となって顕われ」る有様は、学校に溢れる。
 それでも60年代までは、1教科が5単位であったから週に5時間教える事ができた。工夫すれば一科目だけを3クラスか4クラス持てば済んだから、他の科目を合わせて教える事は殆ど無かった。ある程度教材研究に時間をとれた。生活指導に追われることもなかった。田代三良が「教師の質の低下」を指摘したのは1975 年、この頃教師の教育労働の構造が変わったのである
 一教科あたりの単位数は減り続け、現在は2単位科目が目白押し。一人の教師が3つも4つも科目を担当する羽目になった。年度毎に受け持つ科目が変わることもある。部活や生活指導にも時間はとられ、研究する暇はなくなってしまった。
 だから、授業がふやけた模倣の又その模倣になっている。
 現実の現象や原典に直接あたって、観察研究することなど想像も出来ない。生徒の実体も表面的にしか捉えられない。だから益々ハウツーものを読んで得意になった管理職や声の大きな教師に振り回されることになる。
 日本の教師はますます「実地に踏み入って確実に捉えた自信」を持つ事が出来ない。

 雪舟の時代の絵師にとっては、水墨画の実際の山水から地理的に隔絶している事が、緊張感の無い模倣を産んだ。現在の教師たちが陥っているふやけた模倣は、意味の無い繁忙の無限地獄がもたらしている。                                 
 2019年6月19日の報道によれば、OECD国際教員指導環境調査で日本の教員の長時間勤務が群を抜いていることが改めて判った。1週間の仕事時間は小学校54.4時間、中学校56.0時間で、ともに参加国・地域の中で最長。一方で職能開発にかける時間は小中とも最短だった。
 ある学者は「長時間労働のもたらす最大の弊害は、能力開発の機会喪失である」と指摘している。これまでも同じ指摘は何度もあり、改善は遅遅として進まず徒に過労死を増やしてきた。思い切って声を上げ行動に移せば、過酷な処分が待ち構える状況は江戸時代と変わらない。


 無駄な暇が無ければ、ヒトも創意工夫は出来ない。地球上の生命は全てそう出来ている。無駄を敵視する政権の元で、日本の知性は着実に衰退している。 

思考停止を誘う「お守り言葉」としての「サムライ」「ナデシコ」

新渡戸武士道は、実在の武士を無視した虚像
 1580年武田勝頼は駿河に攻め入った時、「千本松原」と呼ばれた広大な松原を合戦の邪魔と伐採。お陰で防風林を失った農作物は、風害と塩害で壊滅的な被害を被った。このために農民は貧窮した。旅の僧長円が心を痛め、衆生済度の大願をかけてここに松苗を植え続けたと言い伝えられる。初めは潮風を受けて松苗は枯れてしまったが、植林に工夫を重ね5年の歳月をかけて松を根付かせたという。長円の美談は武田勝頼の乱暴狼藉なしにはあり得ない。長円を讃えて像を建立すると同時に、勝頼の乱暴を告発する碑を立てる歴史意識を持つ必要がある。

 内村鑑三の『デンマルク国の話』の副題は「信仰と樹木とをもって国を救いし話」である。長円の逸話は、『デンマルク国の話』のダルガスを思わせる。 長円像は沼津の千本松原に増誉上人として立っている。
  内村鑑三は、長円を知り『デンマルク国の話』をしたのだろうか。武田勝頼の狼藉を知った上で『武士道』を書いたのだろうか。

 「サムライ日本」「ナデシコ・ジャパン」騒ぎは、一体どんな人間像を念頭に浮かべてのことだろうか。
   古来「小さな女の子」や「愛らしい子供」を表した撫子に、清楚で凜とした美しい女性の姿を表したつもりか。僕は職場の花の役割を演じ続けて、家制度に奉仕する日陰の存在としての女性を思い浮かべる。職場の花とは、枯れても季節が過ぎても取り替えて捨てられる飾り物ということだ。

 侍には、領国拡大に躍起になる武将と彼に盲従して畑を荒らす乱暴者を想起する。その延長線上に、過労死の地獄を男の戦場と錯視して、社畜を目指す現代の就活生がある。
 ナデシコもサムライも広告代理店が操作する虚像である。
 騒ぎの頂点オリンピックには巨額の税金が湯水のごとく投入され、弱者に向けられる筈の
貧弱な予算までが簒奪される始末である。
 長時間労働も低賃金も低福祉も過労死も自己責任の言葉で放置されたままである。それでも国民の目は、虚像のサムライとナデシコに注がれ、弱者が目に入らない。
 
 鶴見俊輔は、敗戦後間もなく「言葉のお守り的使用法について」を論文にまとめ、大衆は何故太平洋戦争へと突き進んだのかを考えた。
  「大量のキャッチフレーズが国民に向かって繰り出され、こうして戦争に対する『熱狂的献身』と米英に対する『熱狂的憎悪』とが醸し出され、異常な行動形態に国民を導いた
 (大量のキャッチフレーズとは「現人神」「八紘一宇」「鬼畜米英」「皇道楽土」「神国日本」など) 政府も新聞も雑誌も、憑かれたようにこれらの「お守り言葉」を繰り出し、支配と戦争の実体を隠蔽した。おかげで、大衆を思考停止とヒステリーに導き黙従させたのである。
 僕は 「サムライ日本」「ナデシコ・ジャパン」などの聞き心地良い言葉が、「美しい国」「つくる平和」「アベノミクス」「クールジャパン」などと共に「お守り言葉」として、若者から年寄りまでに思考停止をもたらしていると考えている。

 大正年間には、静岡県の千本松原伐採計画があった。反対運動の先頭に立ったのは若山牧水、計画を断念させている。
  「腕かぎり泳ぎつかれて休らはむ此處の松原かげの深きに」牧水


 

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...