雪舟天橋立部分 |
周文は、・・・牧谿を絵手本として頻りと摸していた。牧谿の柔らかい気分描写はこの時代の人に好かれたし、舶載の絵の中でも最も多かった。それで彼らは牧谿様の柔らかい美しい仕上げに得意であった。同様に馬遠や夏珪の緻密で繊細な筆様も摸していた。要するに彼らは、明の文人画に未だなずまず、専ら宋元の端正な院画風な絵を手本としていた。
等楊はどのように努力しても、絵がきれいにかけなかった。それは生来の彼の無器用さによるのだ。・・・ 等楊は己の才能を疑って、何度か絶望した。・・・
十年の後、等楊はその画技において、宗湛(兄弟子)と争うまでになっていた。
絵の仕上げは相変らず器用でない。しかし等楊は、その欠点を補う途を見つけていた。それは構図の妙であった。
一体、舶載されてきた宋元の画には大幅が無く、殆どが小品であった。それで日本の画家は布置の変改を試みようにも、狭小な絵手本の内容に縛られて工夫の見当がつかなかった。ここを彼処に、彼処を此処に置き変えるという創意の余地がなかったのである。殆ど真蹟通りの模倣であった。・・・それも小品の原図の引き伸しであった。それで、その欠点は、茫平として纏りのない、ふやけた結果となって顕われている。周文ほどの者すら、画面に改変の創意を加えることまで及ばなかった。
日本の風土とは全く異質の・・・実地を見たこともない画家たちは、専ら「画本」による概念しか得ていなかった。その、あやふやな観念に固定されているから、原図の呪縛から一寸も離れることが出来ない。だから部分的な作意の挿入も大そうな冒険で、怕くてやれなかった。その限りでは、悉く模倣から出ることはなかった。
享徳3年(1454年)、勘合貿易で賑わっていた山口に移り、機会を得て遣明船に乗ることが出来た。 応仁元年(1467年)の事である、49歳になっていた。約2年間を寧波から北京と水墨画修行に励んだ。 帰国船の中で、友人に明で何を得たかを問われ答える。
「画本でなく、実際の風景に接したということさ」
これだった。今までの概念的な知識でしかなかった宋元画の山水が、この眼で実地に見て具象的に実体を把握したことである。内面の充実がそこにある。何千何首と舶載画を見ても、頼りなげな観念は手本の画に縛りつけられたままである。実地に踏み入って確実に視覚で捉えた自信だけが、抜きさしならない手本の桎梏から解放されたのである。
教職は、模倣の殿堂である。それも貧弱な。例えば地歴科教育法を学んでも、歴史学を学んだことにも教育学を学んだことにもならない。運良く世界史教師として採用されても、歴史学専攻でない限りあやふやな生煮えの知識のまま教壇に立たざるを得ない。
経済学も政治学も知らない「政経」教師、哲学も思想史も学んだことのない「倫理」教師はざらだった。「社会常識」があれば事足りると、担当する人間自身が嘯いていた。免許は社会なのに英語や数学をねばならぬ教師も少なくなかった。
これらの教師は、高校の授業の記憶や教科書そして指導書に頼ることになる。せいぜい新書本や他人の実践集を使う事になりかねない。新書や実践集はそれ自体が安易な模倣か引き写しに過ぎない事が多い。社会の現実からは遠く離れる。文献による場合も原典を読むことはなく、簡単な解説に頼ってしまう。
それ故「日本の(教師)は・・・狭小な・・・手本の内容に縛られて工夫の見当がつかなかった・・・殆ど・・・模倣であった。・・・それも小品の原図の引き伸しであった。それで、その欠点は、茫平として纏りのない、ふやけた結果となって顕われ」る有様は、学校に溢れる。
それでも60年代までは、1教科が5単位であったから週に5時間教える事ができた。工夫すれば一科目だけを3クラスか4クラス持てば済んだから、他の科目を合わせて教える事は殆ど無かった。ある程度教材研究に時間をとれた。生活指導に追われることもなかった。田代三良が「教師の質の低下」を指摘したのは1975 年、この頃教師の教育労働の構造が変わったのである
一教科あたりの単位数は減り続け、現在は2単位科目が目白押し。一人の教師が3つも4つも科目を担当する羽目になった。年度毎に受け持つ科目が変わることもある。部活や生活指導にも時間はとられ、研究する暇はなくなってしまった。
だから、授業がふやけた模倣の又その模倣になっている。
現実の現象や原典に直接あたって、観察研究することなど想像も出来ない。生徒の実体も表面的にしか捉えられない。だから益々ハウツーものを読んで得意になった管理職や声の大きな教師に振り回されることになる。
日本の教師はますます「実地に踏み入って確実に捉えた自信」を持つ事が出来ない。
雪舟の時代の絵師にとっては、水墨画の実際の山水から地理的に隔絶している事が、緊張感の無い模倣を産んだ。現在の教師たちが陥っているふやけた模倣は、意味の無い繁忙の無限地獄がもたらしている。
2019年6月19日の報道によれば、OECD国際教員指導環境調査で日本の教員の長時間勤務が群を抜いていることが改めて判った。1週間の仕事時間は小学校54.4時間、中学校56.0時間で、ともに参加国・地域の中で最長。一方で職能開発にかける時間は小中とも最短だった。
ある学者は「長時間労働のもたらす最大の弊害は、能力開発の機会喪失である」と指摘している。これまでも同じ指摘は何度もあり、改善は遅遅として進まず徒に過労死を増やしてきた。思い切って声を上げ行動に移せば、過酷な処分が待ち構える状況は江戸時代と変わらない。
無駄な暇が無ければ、ヒトも創意工夫は出来ない。地球上の生命は全てそう出来ている。無駄を敵視する政権の元で、日本の知性は着実に衰退している。