思考停止を誘う「お守り言葉」としての「サムライ」「ナデシコ」

新渡戸武士道は、実在の武士を無視した虚像
 1580年武田勝頼は駿河に攻め入った時、「千本松原」と呼ばれた広大な松原を合戦の邪魔と伐採。お陰で防風林を失った農作物は、風害と塩害で壊滅的な被害を被った。このために農民は貧窮した。旅の僧長円が心を痛め、衆生済度の大願をかけてここに松苗を植え続けたと言い伝えられる。初めは潮風を受けて松苗は枯れてしまったが、植林に工夫を重ね5年の歳月をかけて松を根付かせたという。長円の美談は武田勝頼の乱暴狼藉なしにはあり得ない。長円を讃えて像を建立すると同時に、勝頼の乱暴を告発する碑を立てる歴史意識を持つ必要がある。

 内村鑑三の『デンマルク国の話』の副題は「信仰と樹木とをもって国を救いし話」である。長円の逸話は、『デンマルク国の話』のダルガスを思わせる。 長円像は沼津の千本松原に増誉上人として立っている。
  内村鑑三は、長円を知り『デンマルク国の話』をしたのだろうか。武田勝頼の狼藉を知った上で『武士道』を書いたのだろうか。

 「サムライ日本」「ナデシコ・ジャパン」騒ぎは、一体どんな人間像を念頭に浮かべてのことだろうか。
   古来「小さな女の子」や「愛らしい子供」を表した撫子に、清楚で凜とした美しい女性の姿を表したつもりか。僕は職場の花の役割を演じ続けて、家制度に奉仕する日陰の存在としての女性を思い浮かべる。職場の花とは、枯れても季節が過ぎても取り替えて捨てられる飾り物ということだ。

 侍には、領国拡大に躍起になる武将と彼に盲従して畑を荒らす乱暴者を想起する。その延長線上に、過労死の地獄を男の戦場と錯視して、社畜を目指す現代の就活生がある。
 ナデシコもサムライも広告代理店が操作する虚像である。
 騒ぎの頂点オリンピックには巨額の税金が湯水のごとく投入され、弱者に向けられる筈の
貧弱な予算までが簒奪される始末である。
 長時間労働も低賃金も低福祉も過労死も自己責任の言葉で放置されたままである。それでも国民の目は、虚像のサムライとナデシコに注がれ、弱者が目に入らない。
 
 鶴見俊輔は、敗戦後間もなく「言葉のお守り的使用法について」を論文にまとめ、大衆は何故太平洋戦争へと突き進んだのかを考えた。
  「大量のキャッチフレーズが国民に向かって繰り出され、こうして戦争に対する『熱狂的献身』と米英に対する『熱狂的憎悪』とが醸し出され、異常な行動形態に国民を導いた
 (大量のキャッチフレーズとは「現人神」「八紘一宇」「鬼畜米英」「皇道楽土」「神国日本」など) 政府も新聞も雑誌も、憑かれたようにこれらの「お守り言葉」を繰り出し、支配と戦争の実体を隠蔽した。おかげで、大衆を思考停止とヒステリーに導き黙従させたのである。
 僕は 「サムライ日本」「ナデシコ・ジャパン」などの聞き心地良い言葉が、「美しい国」「つくる平和」「アベノミクス」「クールジャパン」などと共に「お守り言葉」として、若者から年寄りまでに思考停止をもたらしていると考えている。

 大正年間には、静岡県の千本松原伐採計画があった。反対運動の先頭に立ったのは若山牧水、計画を断念させている。
  「腕かぎり泳ぎつかれて休らはむ此處の松原かげの深きに」牧水


 

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