特権と成功

 或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習うべき隙なくて、年寄りにけり。『徒然草 第百八十八段』

   親の勧めで僧侶になろうとしてある男、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」との言い付けを守った。話を頼まれたとき馬で迎えに来るから、馬から落ちて恥をかぬよう乗馬を習った。また法要が終わった後には酒宴になるからと歌と踊りを習い夢中になる、肝心の経文には身が入らない。そうこうしているうちに歳をとってしまった。


 間の抜けた話だが、よくある。『絞りかすみたいな、いい先生』には、そんな教師を書いた。←クリック

 あの若い国語教師が、なぜ
常軌を逸した生活指導に走ったのか。解せないのは手痛い失敗を経験した後も、更にそれを強化徹底しようとしたことだ。

  吉田兼好も、先に引用した部分の後でこう言っている。

 京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益勝るべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山へ行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
 
 馬から落ちて笑われたり、無芸振りを謗られたところで何なのだ。僧侶なら説教に磨きをかければ良い。
 思えば発狂した彼は、長い間採用試験に失敗しつづけた。晴れて合格後、新任教師としてH高校に赴任したとき、生徒にも親にも同僚にも「信頼される教師になりたい」と思った。彼の場合、人一倍その思いが強かった。なまじ生活指導の手立ては、長い非常勤講師時代に見知っていたから「私がやればもっとうまくいく」という実践抜きの自信だけは膨れ上がる。

 実践抜きの自信の悲しさは、失敗できないことだ。 我々は失敗から学ぶことが出来るが、そのためには失敗の事実に向き合わねばならない。失敗が小さなうちに事実を認めねばならない。発狂した教師は、採用試験に失敗している最中は、力の抜けた勉強好きの教師で人気があった。
 待ちに待った嬉しい成功=採用試験合格が、彼を破滅させたのだ。合格しなければ彼は、型にはまらぬ希に見る良い教師になっていた、それは間違いない。非常勤講師だった彼がギター片手に教室に向かう姿を僕は羨ましく思った。教材と関係する歌を教壇で歌ってから授業に入るのだ。僕は根っからの無芸である、真似が出来ない。

 アロンアルフアという画期的瞬間接着剤は、剥がしやすい接着剤開発の失敗の中から出現している。

 しかし成功の願望には、他人の失敗がつきまとうことが多い。知らず知らずのうちに、他人の失敗を喜ばないまでも放置してしまう。

 それは、成功を特権の範疇に入れてしまうからである。成功を「特権」ではなく「権利」の範疇に入れて考える必要がある。発狂した教師を例にとれば、「自分が信頼される教師になる」ことと「みんなが信頼される教師」になることが一致しなれればならない。組合や教研や民間教育団体はそれを目指す組織であった筈だ。それが何時の間にか、自分だけの、抜け駆けの出世と自慢の場になっている。組合や教研や民間教育団体をリードする教師には、自他共に許す「実績」があるように見える。僅かな差に過ぎないが、それを不当拡大する機能が組織にはある。ここに「成功」が特権の範疇に包み込まれる危険性が潜んでいる。これは学校に限ったことでは無い。

 発狂した教師に同僚が声をかけることさえ出来なかったと聞く。悔やまずにはおれない。知らなかったことは言い訳にはならない。彼のいた高校まで駅三つの距離だった。

一攫千金は一人だが、膨大な数の貧困層を前提にしている

何かになるとは別の可能性を潰すこと
前者は困難だが、後者は容易く確実である
 アメリカ映画には、銀行強盗や詐欺を描く「悪巧み」ものがある。例えば『スティング』、『明日に向って撃て!』、『ゲッタウェイ』。観客は、無邪気に 「痛快」 「カッコいい」 「男前」などという感想をもらす。「非常に爽やか」「観終わった後も清々しい」と言う者まである。  ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードやスチーブ・マックイーンなど人気俳優を主役にして、いかにも憎々しげで間抜けな「悪役」を相手に、派手な演技で犯罪を魅せる。 
 しかし殺人を伴う犯罪さえも、「痛快」で「清々しい」と思わせて、莫大な入場収入を稼がせてしまうには、何か理由がある。北米合州国建国の歴史自体が、先住民インディオ相手のイカサマと虐殺と略奪の「一攫千金」の欲望に満ちているからだ。イカサマと虐殺と略奪を、痛快で明るいこととして語らなければ、彼らの心は一刻も安まらない。

 真実を知れば、カリフォルニアとニューメキシコをメキシコ合州国に返還し、インディオに不平等交換と詐欺の条約で奪った土地を返還して、大西洋を彷徨う白人になりたくなるだろう。心の奥底にそうした疚しさがあるからこそ、暴力や侵略や詐欺を正義の明るい事業として描かずにはおれないのだ。原爆を落とされ、世界一不利な条件で基地を置かれている日本人が、これらの映画を「痛快」と見なすとは。なんたる奴隷意識。

 しかし日本だって「悪巧み」を美しく描くことにかけては負けてはいない。肉親殺しと陰謀に塗れた皇室を「万世一系」と偽り,軽率な藩主の愚行がもたらした逆恨みのテロを『忠臣蔵』に仕立て上げ、アジア侵略を『八紘一宇』と言い募った神経は、体制の威を借り民百姓を虐げ、インド以下的低賃金と不衛生に目を背けた姿勢と裏腹なのだ。サムライやサクラと武士道は、「悪巧み」による一攫千金を美しく飾り立てる虚構なのだ。それは、美しい桜並木を道路や企業看板のためにいくらでも切り倒す政治に現れている。

 『キューポラのある街』の主人公ジュンの飲んだくれの父親は、工場を指名解雇になったにも拘わらず、妾を囲い贅沢三昧の乱脈経営を続ける経営者に諂い、飲んだくれをのために闘う若者たちに背を向けてこう言うのだ。「妾の一人や二人は男の甲斐性だ。社長とは工場が出来て以来の古い付き合いだ、悪いようにはしないと言ってるんだ。」
  見積もり抜きの言い値で、役立ちもせぬ米国兵器を爆買い、国民の不幸にはいくらでも耐える神経を持つ現政権と瓜二つだ。世界中を爆撃する米国を「それぐらいは大国の甲斐性」と言うに等しい。甲斐性とは一攫千金のことである。
 「一攫千金」は五輪金メダル狂騒で狂い咲きして、日本の政治と経済を覆い尽くしつつある。
   学力テストや身体計測は、無作為抽出で十分であって自治体から一校を、一校から数学級を選べば済む。それを自治体全校全教室で実施するのは、身体計測器関係企業とテスト業者に定期的に「一攫千金」の機会を献上するために他ならない。

 競技playerたちは企業専属契約を結び、自らの身体を広告掲示板化して収入にする。競技団体は競技場まで広告掲示板化、広告の隙間を縫うように、体中に企業名を浮き立たせたplayerが動き回る。それに同化して揃いのユニフォームに身を包みplayerやチームや「サムライjapan」と一体化するのだ。one teamと絶叫する明るく軽快なfasismが、競技団体に放映権料と広告料を莫大な収入となってなだれ込ませる。しかしこのone teamは決して連帯を生まない。常に敵を作ることで形成される「team」に自立性は要らないからだ。連帯に自立は欠かせない。
 中学生や小学生までが一攫千金を夢見て、プロの賞金稼ぎを目指しそれをマスコミは持て囃してしまう。自治体や政府までが、国際的催しやカジノの誘致による一攫千金の幻想に囚われている。災害までが一攫千金亡者に狙われている。復興予算に効果が現れないのはそのためだ。


 一人のイチローを作るために、千万単位の少年がイチローを目指し破綻する。破綻が多いだけ一攫千金の機会は大きくなる。全員が一攫千金を手にするのは不可能だが、全員が破綻することほど容易なことはない。我々はそれれを「生き神の国」日本が二発の原爆で壊滅したことで、痛切に学んだのではないか。
 普通に育てば、バイオリン好きの画家にも数学の得意な卓越した農民にもなる可能性のあった少年が体を壊し、精神を病む。
 普通教育の普通とは、何にでもなれる多様性をさしている。全面的発達とはそういうことである。『普通の学級でいいじゃないか』(地歴社刊)に僕が込めた意味はここにある。 
 イチローのように聡明な男がたった一人の一攫千金男のために、千万単位の少年の健康な可能性を殺していることに気付かない。たった一人のイチローだけでは、一攫千金は成り立たない、幾千万の失敗があって初めて輝くことを知る必要がある。凡庸な「普通」の少年/少女に子どもを育てる勇気を親は持つ必要がある。一攫千金が幻に過ぎないことを、すべての親と子ども覚った時、自由と平等は実現する。

 僕には嫌な予感がある。「大学入学共通テスト」への英語と記述式参入は、一攫千金を目論んでいた業界の受験生を舐め切った姿勢が暴露され失敗した。政治家や官僚に手と金を回していた業界の悔しさは大きいに違いない。彼らは更に大きな「一攫千金」を狙っているはずだ。それは全国の公立学校の定期試験の作成と採点を、ベネッセなどが受注することだ。その際、問題は指導要領に合わせて全国で統一する。学校現場を締め付けて得票を稼ごうとする自治体首長や文科省関係者は驚喜する。教委は世界的に批判を浴びている教師の負担を減らすと言う口実にもなる。しかし公教育は完璧に破壊されるだろう。
 ストライキで教師はこれと戦い、高校生は連帯するだろうか。
 
 かつて砂金掘りや金鉱探しが一攫千金の時代、多くの男が採掘権を買い荒野に虚しく死んだ。成功した僅かな男も、酒と博打に有り金を巻き上げられ失意のうちに死んだ。ゴールドラッシュで一攫千金を目論んだ砂金掘りは成功しなかった。成功したのは彼らにジーパンを売り、酒を飲ませ、疲れが取れると麻薬を売った連中である。
  「一攫千金」幻想で成功するのは、メダルを目指しプロ化するplayer自身ではない。放映権と入場料収入を握る競技団体及び関連商品業界である。利用され尽く疲れ果てたplayerが、メダル騒ぎ現象の実態=スポーツplayerの商品化に過ぎないことを知り、怒り行動するときから健全なスポーツは漸く始まる。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...