紅茶の産地ダージリンで無期限ゼネストが続き、ハンストも継続、人間の鎖は100kmに、デリーにもデモが拡大。
ネパール語を母語とし自治州の設立を要求するするゴルカ人に、西ベンガル州政府は同化政策を強行、ベンガル語の履修を義務化。衝突が相次ぎ、すでに3人が死亡。
19世紀からベンガルのゴルカ人は自治を求め、1980年には1200人が死亡する事態に発展している、ゼネストも今回が初めてではない。自治州「ゴルカランド」創設を求める「ゴルカ人民解放戦線」は、ベンガル語を話す外部の人間がゴルカ人の資源を搾取し、ベンガル人の文化や言語を押し付けていると批判している。
日本のTVは東京の繁華街に出かけて、「紅茶が高くなると困る」という声ばかりを拾っている。一人ぐらい、老人や高校生が、「私は、ストを断乎支持します」との声がないのが、歯痒い。電波にのらないだけかもしれないが。
こんな時に自前の特派員を送れもしないマスコミも情けない。新聞の値段ばかりは飛び抜けて高いのだ。
例えば、日本の大新聞は街のスタンド売りで、一部130円一ヶ月3925円、対してワシントンポストがスタンド40円、一ヶ月 450円、英国フィナンシャルタイムズ 7ヶ月で50ドル。それでいて日本の新聞のページ数は英米の半分である。一社当たりの発行部数を考えれは、収益総額は比べ物にならない。
新聞教育〈NIE〉は、新聞社の自画自賛に終始していて醜悪かつ幼稚である。押し紙や記者クラブの問題、官製報道の垂れ流しによる新聞精神劣化、などを新聞教育が取り上げないのは分かり切っている。子どもの批判精神をこんなところでも骨抜きにしているのだ。
こういう時、BBC報道では、「紅茶は・・・でもストは、彼らの権利だ」という街の声が入る。階級意識が国民の意識深く浸透しているのがわかる。この意識があってこそ「ゆりかごから墓場まで」のビバリッジ報告は保守党が作業をはじめ労働党が受け継いだのである。何故なら大戦が終わったとき、大戦の英雄チャーチル率いる保守党の圧倒的勝利を誰も疑わなかったが、予想を裏切って労働党が大勝利を収めたからである。そしてこれがおそらく、かの「偉大なる」英雄チャーチルの最晩年が伝記に描かれない理由である。
日本では、敗戦後から一貫して、スト迷惑論がマスコミの主論調であった。
追記 ストライキによる損失日数(2015年、仏2010年、単位、千日)を比べると、恐ろしい。米740、仏3850、独1092、韓国447、日本15、我々の労働基本権は無くなったに等しい。
ベルツ最後の忠告 専門化を抑制せよ
「会議をあまり多くの分科会に分散しないよう、くれぐれもご注意いたしたいと存じます。それぞれの専門家にとっては、いうまでもなくその専門事項が一番重要に思れるのですから、他の犠牲にして特にその専門事項を強調し勝ちなものであります。どうもわたくしには、今からしてすでに、あまりにも強いこのような傾向が起りそうであるか、 ないしはそれがもう見られるように思われるのであります。・・・ だがこのような専門家にとってこそ、日頃あまりにもかたよった仕事をしているのですから、こんな機会に全般的研究と自己の専門領域との関係を知ることは特に価値があるわけです。と申しますのは生ある有機体におきましては、個々の部分が相互に不可分に関連しているからであり、また多くの専門研究家は殆ど効果を予期しなかったような方面から、しばしば最大の成果を得ているからです」ベルツ
お雇い外国人医師ベルツが、帰国するにあたって行われた日本医学界での講演からとった。ベルツが日本に残したものは多い。彼は東大医学部で教えると同時に、明治の元勲や皇族達を診察したが、僕が気に入っているのは、ペスト並の恐ろしさとハンセン病を決めつける日本ライ学会を叱るように、東大病院では一般皮膚病患者と同様に外来でも入院でも扱った事である。
「ペスト並みライ病」とキャンペーンを張った光田健輔は、ハンセン病絶滅隔離政策発案者であり、世界の医学界からの度重なる抗議や勧告を無視し続け取り返しのつかない禍根を残した。小笠原登はその絶滅隔離に生涯反対して、京大で通院治療を続けた。隔離を巡って激しい対立論戦が繰り広げる2人の医学者の対談を、あるハンセン病回復者が記録している。
光田が体にハンセン病菌が残る限り全治とは言えないから、全治は不可能で死ぬまで隔離すべき断言するのに対して、
田中文雄 「京都大学ライ治療所創設者小笠原登博士の近況」『多磨』1967年12月号(小笠原) 「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」(光田) 「チブスがそうです」 (小笠原) 「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」 (光田) 「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません
「専門外なので・・・知りません」と無知を言い逃れ、数万のハンセン病者と家族の人生を徹底的に破壊したのである。彼に勲一等瑞宝章を贈るのがこの国の政府である。 彼らが少しは専門外に関心を向ける教養人であったらと思う。
ノーベル経済学賞に最も近いと言われた宇沢弘文は数学者でもあった。湯川秀樹には漢文の、アインシュタインにはバイオリンの素養があった。宮沢賢治を愛読した高木 仁三郎は、既に1995年、「地震」とともに、「津波」に襲われた際の「原子力災害」を予見している。
欧米の大学では、専攻の他に副専攻を選ばねばならず、なるべく遠く離れた科目を勧められる。
日本では「専門外なので・・・知りません」が学者だけではなく政治家や経営者にも当たり前になっている。それは専攻に打ち込んで脇目も振らず一心不乱に学んだと言うことではない。我が国では「ガリ勉」でなかった事は、組織で円滑な付き合いの前提となっている。だから大学入学と同時に学びに熱中は、格好悪いものとなってしまう。専門ですらろくに知らないのだから、専門外は勿論全くの素人であることが求められさえする。
高校教師も専門教科以外に関心を持つ者は希である。僕は政治と経済が得意だが、物理や生物にも歴史や哲学にも関心を持たずにはおれない。そうでなければ「現代」も「社会」把握できないし解釈も出来ない。
だが研究会や集会では、明治時代にベルツが警告した「多くの分科会に分散」する傾向は、新奇な話題を求めたがる性癖も手伝って未だ衰えない、ますます盛んである。
我々は、小型の光田になってはいけないのである。原発業界も大惨事の後にあっても「専門外なので・・・知りません」的専門家で身動きがとれない。DoctorとはSpecialistであって且つ Generalistである人だけに与えられるべき称号である。
谺祐二少年・一人殺人的いじめに対峙する
「パンドラの箱に残った希望」 拙著 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊から引用する
いじめの対象を、少年たちは「厄」と呼んだ。いじめによる負傷で症状をこじらせ死に至った「厄」は、ハンセン病の作家冬敏之の兄とヤマキ少年を含む3~4名。ヤマキ少年が犠牲になった時、谺雄二少年は病床の兄に呼ばれる。
当時ハンセン病者は治療の対象ではなかった。絶滅を期待され収容所に隔離された。外に出られるのは火葬場で煙となる時であった。子供の患者たちは、はたちまで生きられるかと言われた時代である。過酷な生活の中で病状が悪化すれば、病室に送られる。
S少年も生まれ故郷で迫害された挙句収容、療養所では両親を失い天涯孤独となった。松本寮父の子どもたちと同じように抱えきれない悲しみと苦しみに押し潰されていた。違いは、S少年には悲しみを聞いて一緒に涙を流す大人がいなかったこと。谺少年の言葉とオギヤマ少年の小さな拳は、一瞬にしてその役割の半分を果たした。だからS少年は手出しもせず泣くことが出来た。オギヤマ少年も叩きながら泣いていた筈である。あとはS少年の物話を聞くばかりである。
S少年には、根拠なしの愛情の請求権があった。だが、そのために闘う言葉を持たなかった。
神話は、「パンドラの箱」から災いが飛び出したあとに「希望」が残ったと結んでいる。 隔離の壁を越えた「社会」では、子どもまでが鬼畜米英を叫び総玉砕の狂気に向かって秩序正しく崩壊しつつあった。だが熱狂から一歩退いた療養所の片隅では、「子どもの発見」が新しい時代の普遍的教育を静かに準備していたのである。
追記 自分より強い者に、たった一人で挑み、周囲を粘り強く説得する谺少年の姿は、「たとえ一人でも闘う」と「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟」を提訴、仲間を増やし勝訴したその後の生き方に連なる。自己投機を熱く語って、サルトル君と渾名された所以である。
今も少年たちに、谺祐二少年のようであって欲しいと思う。しかし今学校内の暴力・理不尽の多くは教師によるものである、大人の不始末を子どもに期待する前に、大人がしなければならないことがある。S少年と同じように現在のいじめにかかわる子どもたちも、ひとりでは「抱えきれない悲しみと苦しみに押し潰されて」いる。その父母や教師までが、過労死線上で喘ぎながら生活している。この状況そのものが、国際的労働環境からみればすでに、許しがたい「いじめ」であるという認識を持ち、ついで、ではいじめているのは誰なのかとの問いをたてねばならぬ。この問いを発することにすら、反感を抱く者やたじろぐ者が多すぎる。彼らこそが我々よりはるかに「強い」者であり、我々が谺少年のようにたった一人であっても立ち向かうべき対象ではないのか。それはいろいろな姿をして立ちはだかっている。国家首魁の顔をしているとは限らない。
「私(谺祐二)は1942年9月、七歳の時多磨全生園に入園し、・・・・国民学校の二年生から新制中学三年を卒業するまでの八年間、全生学園と少年舎に在籍した年月は、苦痛の連続であったと思う。・・・少年に限ってだが、いじめは日常的だったし、患者の教師や寮父による依佑贔屓とか差別など、どれだけ子供の心を傷つけたか計りしれない。 全生学園と少年舎での八年間は、私にとって開きたくないパンドラの箱である。・・・・いじめも、少年舎では日常的であった。代表的なものを上げると、布団むしと胴上げ落としである。いじめの対象とした子供を掴まえ、10枚ばかりの掛け布団を乗せ、その上から少年たちが登るのだ。一番上になった子の背中が、鴨居に届いていたのを私は見たことがある。また、胴上げ落としは、リーダーの合図で、胴上げをした手をみんなが一斉に引くのである。落下した子は気を失うこともあった。いじめというよりも、リンチというべきかもしれない。こうしたいじめに対し、当時の寮父は自室に引寵もり、何もしなかった。止めれば彼自身がやられると思ったのかもしれない」 谺雄二 『知らなかったあなたへ』ポプラ社 p85~87
いじめの対象を、少年たちは「厄」と呼んだ。いじめによる負傷で症状をこじらせ死に至った「厄」は、ハンセン病の作家冬敏之の兄とヤマキ少年を含む3~4名。ヤマキ少年が犠牲になった時、谺雄二少年は病床の兄に呼ばれる。
当時ハンセン病者は治療の対象ではなかった。絶滅を期待され収容所に隔離された。外に出られるのは火葬場で煙となる時であった。子供の患者たちは、はたちまで生きられるかと言われた時代である。過酷な生活の中で病状が悪化すれば、病室に送られる。
「「おまえは、Sにくらべれば下級生だ。だけど、同じ少年舎に暮らすものでありながら、Sのいじめを放置した。ぼくはおまえを許さない。ヤマキがいる解剖室ですわっていろ!」と厳しくいさめられた。 兄にいわれて、わたしはヤマキ少年の死体が安置された解剖室にすわって、一晩中考え続けた。・・・・ そしてその日から、・・・園の授業が終わって少年舎へもどる途中、一人ひとりをよびとめては、「もうSのいうことは聞くな。こんないじめを続けていたらダメだよ」と、声をかける。まず、S少年と同級の、一級上の少年たちを懐柔し、次に同級生たちを説得した。もしも懐柔策がS少年にばれたら、自分自身が「厄」にされてしまうことは目にみえていたから、ほんとうにドキドキだった。同級生まで懐柔できれば、あとはわけはなく、下級生はすんなりと味方についてくれた。懐柔策がうまくいったところで、わたしはS少年に向かって、「もういじめはいいかげんやめろ。おまえのやっていることはひどすぎる」と、対決を申しこんだ。S少年はすぐに、「おお、いいぞ」と応じてきた。だが、少年舎の子どもたちがゾロゾロとわたしのうしろにまわってしまったのをみて、予想外のなりゆきに驚き、びびったようすだった。そのときだった。S少年より三つか四つ年下のオギヤマという少年が、わたしのうしろからいきなり飛び出して、S少年に殴りかかった。・・・S少年はもう手も足も出なかった。・・・・S少年は泣いていた」
『知らなかったあなたへ』
S少年も生まれ故郷で迫害された挙句収容、療養所では両親を失い天涯孤独となった。松本寮父の子どもたちと同じように抱えきれない悲しみと苦しみに押し潰されていた。違いは、S少年には悲しみを聞いて一緒に涙を流す大人がいなかったこと。谺少年の言葉とオギヤマ少年の小さな拳は、一瞬にしてその役割の半分を果たした。だからS少年は手出しもせず泣くことが出来た。オギヤマ少年も叩きながら泣いていた筈である。あとはS少年の物話を聞くばかりである。
S少年には、根拠なしの愛情の請求権があった。だが、そのために闘う言葉を持たなかった。
神話は、「パンドラの箱」から災いが飛び出したあとに「希望」が残ったと結んでいる。 隔離の壁を越えた「社会」では、子どもまでが鬼畜米英を叫び総玉砕の狂気に向かって秩序正しく崩壊しつつあった。だが熱狂から一歩退いた療養所の片隅では、「子どもの発見」が新しい時代の普遍的教育を静かに準備していたのである。
追記 自分より強い者に、たった一人で挑み、周囲を粘り強く説得する谺少年の姿は、「たとえ一人でも闘う」と「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟」を提訴、仲間を増やし勝訴したその後の生き方に連なる。自己投機を熱く語って、サルトル君と渾名された所以である。
今も少年たちに、谺祐二少年のようであって欲しいと思う。しかし今学校内の暴力・理不尽の多くは教師によるものである、大人の不始末を子どもに期待する前に、大人がしなければならないことがある。S少年と同じように現在のいじめにかかわる子どもたちも、ひとりでは「抱えきれない悲しみと苦しみに押し潰されて」いる。その父母や教師までが、過労死線上で喘ぎながら生活している。この状況そのものが、国際的労働環境からみればすでに、許しがたい「いじめ」であるという認識を持ち、ついで、ではいじめているのは誰なのかとの問いをたてねばならぬ。この問いを発することにすら、反感を抱く者やたじろぐ者が多すぎる。彼らこそが我々よりはるかに「強い」者であり、我々が谺少年のようにたった一人であっても立ち向かうべき対象ではないのか。それはいろいろな姿をして立ちはだかっている。国家首魁の顔をしているとは限らない。
心を病んだ教師
免許を持ったり採用試験に合格するだけで、一クラス・一学年・全校生徒を指導できる、すべきた、しなければならないという傲慢不遜で軽薄な世界観がどうして形成されるのだろうか。
生徒たちの中に教師より優れた力を持つものはいくらでもいる。専門の教科に於いてさえそれはある。ましてや自治活動やクラブなどの指導力などは、平均人揃いの教員を凌駕する力を持っている者も少なくないはず。その能力に対する畏敬の念を欠いて、照れもせず指導者顔をする。
元全学連委員長K君が、高校時代の対照的な教師の思い出を語っている。(拙著『平凡な自由』大月書店 p115「いい先生の条件」)
自分では優れた民主的良心的進歩的教師であると自認吹聴する教師が、実は大いに生徒から軽蔑されていることは少なくない。橋下や石原の思想の根底にはこれがある。彼らは、尊大で指導者然としているが実力のない高校教師を非道く憎んでいる。反対に反動的と言えるほどの世界観の持ち主で、気むずかしく生徒を近寄らせない教師が、畏敬の目で迎えられることもこれまた例外ではない。それを分かつのは授業の中身と隠された人格である。
若く人気がある、おもしろい、などという要素を削ぎとって、教師に向いているのか、それを一生やれるのか、実習で感じ取らねばならぬ。そのためには指導教師との対話的関係が欠かせない。授業と付き合いから何を読み取るのか、自由な批判精神や洞察力がなければならない。
F先生は文句の付けようのない非常勤の国語教師であった。ギターを抱えて教室に向かう姿を良く見た、授業の導入にフォークソングの歌詞を使うのが得意だった。そうした芸が僕には一切ない。教材に社会科関係のことが触れられていれば、準備室にやって来て、教科内容について質問勉強して話し込んだ。
苦節七年ようやく合格、正教員として異動。彼と再び出会ったのは異動から六年後。都心の巨大書店であった。書棚の前で本を選んでいると、視線を感じる。見渡すが誰もいない。再び目を本に落せば再び気配を感じるが、矢張り誰もいない。それを何度か繰り返した後、F先生が書棚の影に隠れるのを見た。僕は懐かしくて彼を追った。ゆっくり話したかった。逃げられて諦めるとまたF先生が書棚の影から覗いている。追いかけた。そのうちに、これは統合失調症かと不安がよぎる、不安なまま帰宅。
翌日F先生の勤務校の知り合いに状況を伝えた。数日後やはり尋常ではないとの報せがあった。だが管理職の優柔不断が対策を一年も逡巡。入院した時には、手遅れで再帰不可能となっていた。何があったのか。知り合いの家を訪ねて事情を聞いた。
彼は正式採用とともに所謂底辺校に赴任したが「立派な」教師を目指して、なり手の少ない担任を希望した。彼にはやりたいことと自信があった。実践書も読み、様々なクラス運営を傍から学んでウズウズしていた。
クラスづくりは早い方がいいと、第一回目のHRは入学式前。クラス通信は三年間毎日発行。個人面接にも時間をかけた。弁当は教室で食べ、文化祭も体育祭も遠足も全力で取り組んだ・・・年賀状もクラス全員に出した。何もかも指導者らしく取り組んだ。卒業文集も素晴らしい物にしなければならない、またそうなる筈だった。「何を書いても良い、検閲は絶対しない」と請け合った。しかし出来上がった文集ではクラスの全員が彼に向かって「死ね」と書いていた。しかし彼はめげない。直ちに再び担任を希望。
失敗を総括して、F先生は最初のHRを三月に前倒し、クラス球技大会も行った。彼の総括は「指導が足りなかった、熱意が通じなかった」であった。学級便りは夕刊まで出したのに、三年後彼が手にした文集には再び「死ね」の文字。
僕が彼と書店で出会ったのはその五月である。彼は僕の本(『普通の学級で好いじゃないか』地歴社刊)も読んでいた。「何もしなくてもあの程度であれば、一生懸命やれば遥かにうまくゆく」彼はそう考えて頑張ったのか。誤読である。しかしそう読む人が少なくない。僕が言いたかったのは、上手くやろうなどと考えるのはやめたということにすぎない。
F先生は書店で僕を見かけ「何故なんだ、僕はやることは全部やったんだ。あなたより遥かに熱心に」と詰め寄ろうとしたのかもしれない。昔の懐かしさを抑えきれなかったのかもしれない。わからない。
彼の生徒に対する熱心さは、彼自身の存在証明であり生徒はその手段に過ぎなかったのではないか。生徒のためと妄想しながら、いつも主人公は自分であった事に気付かなかった。
彼の精神は可塑性を失い退院帰宅、側には声をかけるのも躊躇われる程に悄気切った初老のお母さんが座っていたという。思い出す度、僕は居ても立ってもおれない気持ちになる。精神の異常に気付かなかった同僚や管理職に怒りも感じる。訪ねて酒でも飲もうと誘わなかった自分自身に腹が立つ。
ギターを抱えた明るい教師を変えたのは何だったのか。非常勤の頃と変わらない彼であれば、自己紹介で「僕には弾き語り以外には取り柄がないんだ。採用試験にも落ち続けた」と言いながら弾き語りして笑わせたに違いない、そういう男だった。
免許取得や採用試験合格は一体何なのか。何を証明するものか。合格して彼に芽生えたのは、過剰な責任感とはやる自信。いいクラスに、今まで見てきたどのクラスよりいいクラスにしたい、出来る。彼はそう考えていたのではないだろうか。ギターを抱えた非常勤教師の若者は、責任感とは無縁な自由人だった。その生き方にその頃の生徒たちは共感したのだ。
追記 教育実習は高校免許の場合、たった二週間でもいいことになっている。実習校はその期間中に体育祭などを組み込み実習生を労働力として利用したがる。大勢の卒業生がやって来る学校では、授業もHRもほんの僅かしか経験できない。働く「お客」のうちに終了してしまう。だから生徒は、感想に書くことがないから「楽しい授業でした、いい先生になって下さい」と書くしかない。
実習生も、生徒との遣り取りの繰り返しの中から問題に辿り着く前に実習が過ぎてしまう。これでは少し長めの観光旅行である。いい思い出だけですんでしまう。修学旅行のバスガイドは、何時もいい人だったと評価される。教育実習の重要な機能の一つは、教師に向いていない学生を発見して早めに進路変更を促すことにある。そのためには短すぎる。 しかし一年間の実習なら少しはいい、しかし殺人的な多忙に悲鳴を上げて、誰も採用試験を受けないだろう。だがそれも学生には重要な事である。
しかし、どうして教員の職場には過剰で後戻りの利かない「自発的」競争が生まれるのだろうか。矮小な「優等生」気質を生徒に期待してしる間に、自らがそれに飲み込まれてしまうのだろうか。
生徒たちの中に教師より優れた力を持つものはいくらでもいる。専門の教科に於いてさえそれはある。ましてや自治活動やクラブなどの指導力などは、平均人揃いの教員を凌駕する力を持っている者も少なくないはず。その能力に対する畏敬の念を欠いて、照れもせず指導者顔をする。
元全学連委員長K君が、高校時代の対照的な教師の思い出を語っている。(拙著『平凡な自由』大月書店 p115「いい先生の条件」)
自分では優れた民主的良心的進歩的教師であると自認吹聴する教師が、実は大いに生徒から軽蔑されていることは少なくない。橋下や石原の思想の根底にはこれがある。彼らは、尊大で指導者然としているが実力のない高校教師を非道く憎んでいる。反対に反動的と言えるほどの世界観の持ち主で、気むずかしく生徒を近寄らせない教師が、畏敬の目で迎えられることもこれまた例外ではない。それを分かつのは授業の中身と隠された人格である。
若く人気がある、おもしろい、などという要素を削ぎとって、教師に向いているのか、それを一生やれるのか、実習で感じ取らねばならぬ。そのためには指導教師との対話的関係が欠かせない。授業と付き合いから何を読み取るのか、自由な批判精神や洞察力がなければならない。
F先生は文句の付けようのない非常勤の国語教師であった。ギターを抱えて教室に向かう姿を良く見た、授業の導入にフォークソングの歌詞を使うのが得意だった。そうした芸が僕には一切ない。教材に社会科関係のことが触れられていれば、準備室にやって来て、教科内容について質問勉強して話し込んだ。
苦節七年ようやく合格、正教員として異動。彼と再び出会ったのは異動から六年後。都心の巨大書店であった。書棚の前で本を選んでいると、視線を感じる。見渡すが誰もいない。再び目を本に落せば再び気配を感じるが、矢張り誰もいない。それを何度か繰り返した後、F先生が書棚の影に隠れるのを見た。僕は懐かしくて彼を追った。ゆっくり話したかった。逃げられて諦めるとまたF先生が書棚の影から覗いている。追いかけた。そのうちに、これは統合失調症かと不安がよぎる、不安なまま帰宅。
翌日F先生の勤務校の知り合いに状況を伝えた。数日後やはり尋常ではないとの報せがあった。だが管理職の優柔不断が対策を一年も逡巡。入院した時には、手遅れで再帰不可能となっていた。何があったのか。知り合いの家を訪ねて事情を聞いた。
彼は正式採用とともに所謂底辺校に赴任したが「立派な」教師を目指して、なり手の少ない担任を希望した。彼にはやりたいことと自信があった。実践書も読み、様々なクラス運営を傍から学んでウズウズしていた。
クラスづくりは早い方がいいと、第一回目のHRは入学式前。クラス通信は三年間毎日発行。個人面接にも時間をかけた。弁当は教室で食べ、文化祭も体育祭も遠足も全力で取り組んだ・・・年賀状もクラス全員に出した。何もかも指導者らしく取り組んだ。卒業文集も素晴らしい物にしなければならない、またそうなる筈だった。「何を書いても良い、検閲は絶対しない」と請け合った。しかし出来上がった文集ではクラスの全員が彼に向かって「死ね」と書いていた。しかし彼はめげない。直ちに再び担任を希望。
失敗を総括して、F先生は最初のHRを三月に前倒し、クラス球技大会も行った。彼の総括は「指導が足りなかった、熱意が通じなかった」であった。学級便りは夕刊まで出したのに、三年後彼が手にした文集には再び「死ね」の文字。
僕が彼と書店で出会ったのはその五月である。彼は僕の本(『普通の学級で好いじゃないか』地歴社刊)も読んでいた。「何もしなくてもあの程度であれば、一生懸命やれば遥かにうまくゆく」彼はそう考えて頑張ったのか。誤読である。しかしそう読む人が少なくない。僕が言いたかったのは、上手くやろうなどと考えるのはやめたということにすぎない。
F先生は書店で僕を見かけ「何故なんだ、僕はやることは全部やったんだ。あなたより遥かに熱心に」と詰め寄ろうとしたのかもしれない。昔の懐かしさを抑えきれなかったのかもしれない。わからない。
彼の生徒に対する熱心さは、彼自身の存在証明であり生徒はその手段に過ぎなかったのではないか。生徒のためと妄想しながら、いつも主人公は自分であった事に気付かなかった。
彼の精神は可塑性を失い退院帰宅、側には声をかけるのも躊躇われる程に悄気切った初老のお母さんが座っていたという。思い出す度、僕は居ても立ってもおれない気持ちになる。精神の異常に気付かなかった同僚や管理職に怒りも感じる。訪ねて酒でも飲もうと誘わなかった自分自身に腹が立つ。
ギターを抱えた明るい教師を変えたのは何だったのか。非常勤の頃と変わらない彼であれば、自己紹介で「僕には弾き語り以外には取り柄がないんだ。採用試験にも落ち続けた」と言いながら弾き語りして笑わせたに違いない、そういう男だった。
免許取得や採用試験合格は一体何なのか。何を証明するものか。合格して彼に芽生えたのは、過剰な責任感とはやる自信。いいクラスに、今まで見てきたどのクラスよりいいクラスにしたい、出来る。彼はそう考えていたのではないだろうか。ギターを抱えた非常勤教師の若者は、責任感とは無縁な自由人だった。その生き方にその頃の生徒たちは共感したのだ。
追記 教育実習は高校免許の場合、たった二週間でもいいことになっている。実習校はその期間中に体育祭などを組み込み実習生を労働力として利用したがる。大勢の卒業生がやって来る学校では、授業もHRもほんの僅かしか経験できない。働く「お客」のうちに終了してしまう。だから生徒は、感想に書くことがないから「楽しい授業でした、いい先生になって下さい」と書くしかない。
実習生も、生徒との遣り取りの繰り返しの中から問題に辿り着く前に実習が過ぎてしまう。これでは少し長めの観光旅行である。いい思い出だけですんでしまう。修学旅行のバスガイドは、何時もいい人だったと評価される。教育実習の重要な機能の一つは、教師に向いていない学生を発見して早めに進路変更を促すことにある。そのためには短すぎる。 しかし一年間の実習なら少しはいい、しかし殺人的な多忙に悲鳴を上げて、誰も採用試験を受けないだろう。だがそれも学生には重要な事である。
しかし、どうして教員の職場には過剰で後戻りの利かない「自発的」競争が生まれるのだろうか。矮小な「優等生」気質を生徒に期待してしる間に、自らがそれに飲み込まれてしまうのだろうか。
「憲法尊重の誓約書」はどうなるのか
1960年5.18日、「安保批判の会」に面会していた岸信介は彼らの言葉に耳を傾けた振りして、請願を尊重すると言った。だが、あくる5.19日 国会議長室前にすわりこんだ野党議員を、警官を使ってゴボウ抜き、日付の変わる一〇分前に議長は担がれて、議長席につく。会期五十日延長を可決。五分休んですぐ20日の会議、新安保条約を起立で採決。すべての議事手続きを軽視し強行可決したのである。
この時竹内好は「ファシズムの下でどう生きるべきか」、朝まで考え都立大学に辞表を提出した。竹内辞任の記事を見た鶴見俊輔も東工大に辞表を提出。
この時竹内好は、安保国会で憲法の柱たる議会主義が衆議院議長と首相によって蹂躙されるという憲法破壊状況下にあって、自らがなお公立大学にとどまるのは就職の際に書いた憲法尊重の誓約書に背くからと説明している。竹内教授辞任の知らせに学生らは「竹内やめるな岸やめろ」というプラカードを掲げた。
僕が危惧するのは、一体何人の公務員が竹内好に習って政権の反憲法的な企てに抗うかも重大だが、改憲成功に勢いづいた政権が「憲法尊重の誓約書」の再提出を全ての公務員に迫るのではないかということである。
1952年4月1日、首里城跡地で「琉球政府」創立式典の最後に、代表の議員が宣誓文を読み上げたあと、議長が立法院議員の名を読み上げ、それぞれが立って脱帽し一礼する。そのなかで、ただひとり立ち上がらなかったのが瀬長亀次郎。最後列で、鳥打帽をかぶったまま座ってたが、うおーっという地鳴りのような声が、会場全体から上がった。
戦時国際法のハーグ陸戦条約には
追記 60年安保のこの忌まわしい日程は、6.20に合わせて準備されていた。米国大統領の訪日予定日が6.20、その30日前までに新安保条約を採決しなければ、自然成立は見込めない。
いわば、安保条約を米大統領に献上するための恥辱に満ちた政治的痛恨事である。
この時竹内好は「ファシズムの下でどう生きるべきか」、朝まで考え都立大学に辞表を提出した。竹内辞任の記事を見た鶴見俊輔も東工大に辞表を提出。
「竹内さんは辞めるのか、じゃあもちろん私も辞めなきやいけない、と自動的に考えた。それ以上はなにも考えないで、当然のように私も当時勤めていた東京工大に辞表を出した」と語り、竹内さんと一緒なら食いつめてもいいと思ったとも伝えられた。
この時竹内好は、安保国会で憲法の柱たる議会主義が衆議院議長と首相によって蹂躙されるという憲法破壊状況下にあって、自らがなお公立大学にとどまるのは就職の際に書いた憲法尊重の誓約書に背くからと説明している。竹内教授辞任の知らせに学生らは「竹内やめるな岸やめろ」というプラカードを掲げた。
僕が危惧するのは、一体何人の公務員が竹内好に習って政権の反憲法的な企てに抗うかも重大だが、改憲成功に勢いづいた政権が「憲法尊重の誓約書」の再提出を全ての公務員に迫るのではないかということである。
1952年4月1日、首里城跡地で「琉球政府」創立式典の最後に、代表の議員が宣誓文を読み上げたあと、議長が立法院議員の名を読み上げ、それぞれが立って脱帽し一礼する。そのなかで、ただひとり立ち上がらなかったのが瀬長亀次郎。最後列で、鳥打帽をかぶったまま座ってたが、うおーっという地鳴りのような声が、会場全体から上がった。
戦時国際法のハーグ陸戦条約には
「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」という条文がある。 瀬長亀次郎はこれを根拠に不起立を貫いた。
追記 60年安保のこの忌まわしい日程は、6.20に合わせて準備されていた。米国大統領の訪日予定日が6.20、その30日前までに新安保条約を採決しなければ、自然成立は見込めない。
いわば、安保条約を米大統領に献上するための恥辱に満ちた政治的痛恨事である。
共同体の小ささと代替不可能な個人の尊厳
「お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・
どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、
これは、ハンセン病療養所多磨全生園少年少女舎寮父(こうした仕事は園職員が担うべきだが、園内土木作業などの重労働から病舎での看護や洗濯までもが患者労働で行われた。寮父はお子どもたちから父さんと呼ばれ、特に三木さんは全身全霊を尽くして子どもに尽くし、最後の子どもが社会復帰した後は精神的に弱り不眠に悩まされていた)に埼玉大学生が聞き取りしたものである。「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね」
僕自身も最後の患者教師として長く子どもたちに関わった天野秋一先生からこの話は聞いている。
社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従つて人間のあり方を変える。
例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。
三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを取り出して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を誰もが目にして話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。
人口が増加すれば、こうした判断は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を失って、多数雑多な厄介者の一人として一括処理され、彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、順応できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。
小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」と呼ばれた絶滅療養所で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」(ハンセン病療養所の人たちは、療養所の外を「社会」と呼んでいた。)では、企業も自治体も学校さえも合併し規模の大きさを誇り、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(彼は患者の生活を暴力的に取締る園職員だった。死に追い込んだ事もある)が居てはありえない。なぜなら、そこではあるべき人間像は上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。
追記 1888年日本には7万0314の自治体があった。2014年には1718にまで減少。フランスには今3万8000 ドイツには1万4500の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 療養所内の「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという集団の大きさが関わっている。 高山事務部長(彼はハンセン病療養所の隔離を憎んで外と内を隔てる垣根を切り下げるなど画期的な試みをしている)が力を注いだスポーツも、こんな役割を果たしたのである。 拙著 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊
我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困や弱者に対する不寛容性は、ここに根がある。ひとり一人の声が行政や議会に届かない。相談窓口だけを増加させたり、補助金と民営化一本槍で対処出来る問題ではない。関係者が直接目配りできて直ちに対処できる規模が必要なのである。巨大化すれば軍事力警察力戒厳令の世界になってしまう。維新の会が力説する道州制はこの傾向を意図的に進めて、格差と差別を強化する愚劣な企てででしかない。教育行政も福祉医療行政も住民の「曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える」事によってしか前進しない。小さな単位で自治を拡大することだけが解決の道である。
近代化以来、日本は軍艦を巨大化して領土を拡大することに意識を奪われ、内外に無惨な破綻を招いた。小さくすることが発展する事に繋がる分野は少なくないことに気付く必要がある。いや大きくしていいものを僕は、労働分配率や福祉教育予算以外に思い浮かべる事が出来ない。労働分配率や福祉教育予算は、政治が人々の身近にあるところでなければ真剣に取り組まれない。
日本の学校も大きすぎる。西欧では校長が生徒を名前を覚える事の出来る大きさに抑えられている。子どもの名前を覚えていないことは、直ちに父母によって罷免の対象となる。僕は昼休みや放課後、校庭に出て生徒に語りかけた校長を一人しか知らない。
日本スゴイ系番組の起源と学校
先ず戦前の例を挙げておこう。1933 年の新潮社雑誌の新聞広告である。現在の狂乱振りに照らして控えめに思えてくる。
宣伝には「何たる感激の書だ、国民一人残らず読めという逓信大臣の言葉に始まって、次のように書き立て「なぜ日本の陸海軍は世界の脅威なのか? なぜ日本の製品は世界の市場を圧倒しているのか? なぜ日本の文化は世界の驚嘆の的であるのか? 軍事に産業に科学に発明に医学に鉄道に水泳に日本は断断乎として世界一なのだ・・・」」と続いて具体例各論が続く体裁になっている。
授業で使いたい、ここで挙げられている事柄の実態と本質について面白い授業ができる。インド以下的賃金と呼ばれた低賃労働の実態、国家予算に占める軍事費が突出して農業や教育厚生関係予算に手が回らずスラムがどうなっていたのか。日清日露の戦争で日本は3万1846名もの脚気死を出した日本医療・・・。
都知事選以降の安倍政権への支持率低下と共に、日本をヨイショする番組が、退き始めた。政権忖度を旨とする雑誌の類も後退を余儀なくされている。これらのヨイショ番組の出所が単一であり強い権限を持っていることを窺わせる。
1978年金丸防衛庁長官が、在日米軍基地で働く日本人従業員給与の一部を負担して始まった「思いやり予算」。1990年代には、バーテンダー・宴会マネジャー給与までも思いやり予算で処理され「不適切な支出」が明らかとなり、野党が「レジャー向けの職員の人件費まで日本が負担するのはおかしい」と反対したのは、2008年度予算であった。
鶴見俊輔となだいなだの対談が行われたのは1996年6月、NHK「COOL JAPAN」が始まったのが2006年4月である。例外的に長いブームであって自然発生的流行とは言えない。
2010年「しんぶん赤旗」は「在沖縄米軍電話帳」で、キャンプ・フォスター司令部内に「思いやり予算」担当部署が設置されている事を明らかにした。ブレジンスキーが日本を保護領と呼んだわけである。
今は、焦点が クナシリ、エトロフから北朝鮮ミサイル移っているが、尖閣・竹島、からアラビア半島までが問題になって、その度にその造り上げられた危機に相応しい高価なハイテク軍艦、戦闘機、ミサイルシステムが成功裏に輸入された。そのことが逆転して、裏返った遮断状態を作り出している。轟音は我々の状態を我々自身が認識することを妨げる。同じように情報の乱舞で我々の感覚は疲労して麻痺、2016年度から思いやり予算は133億円増額されたことに殆ど気付いていない有様である。
同時に偏差値による学校の輪切り選別体制は、若者の社会意識と連帯の行動を遮断し続けている。職場で学校で、存在自体が尊重されない生活を送った若者たちが、尊厳を求めて立ち上がるのではなく、アジアや弱者を見下げることで他人の尊厳を蹂躙して代替したのである。
高校全入運動期の高校卒業生が成人したのが90年代である。日本をヨイショする風潮が押し寄せる時期に当たる。残念でならないのは運動が量的拡大に気をとられて、平等・自由・連帯の質的充実を教育に盛り込む事に失敗したことである。むしろ全入は能力主義教育の副産物だったのかも知れない。実際、全国の新設高校の開設要員たちは、競って管理主義のメッカと化した東郷高校詣でに励み、塾や地元教育関係者と画策して、事前に偏差値を上げ虚像作りに汗を流した。その茶番を歓迎する市民も「成功」と持ち上げる報道も相次いだ。その結果「底辺校」の学力底上げまでが管理主義的手法に依存して見事破綻した。敗戦直後急速にすすんだ高校教育の民主主義的充実もこれですつかり奪われてしまった。
宣伝には「何たる感激の書だ、国民一人残らず読めという逓信大臣の言葉に始まって、次のように書き立て「なぜ日本の陸海軍は世界の脅威なのか? なぜ日本の製品は世界の市場を圧倒しているのか? なぜ日本の文化は世界の驚嘆の的であるのか? 軍事に産業に科学に発明に医学に鉄道に水泳に日本は断断乎として世界一なのだ・・・」」と続いて具体例各論が続く体裁になっている。
授業で使いたい、ここで挙げられている事柄の実態と本質について面白い授業ができる。インド以下的賃金と呼ばれた低賃労働の実態、国家予算に占める軍事費が突出して農業や教育厚生関係予算に手が回らずスラムがどうなっていたのか。日清日露の戦争で日本は3万1846名もの脚気死を出した日本医療・・・。
なだいなだ 日本人論が・・・いちばん初めに出てきたときは、日本人はだからダメだ、というようなものが多かったし、外国人が書いた日本人論もどちらかというと批判的なものが多かったわけだけれど、最近のものは、なにか無条件に日本人というものを受け入れて、自信を与えよう与えようとしているようなところがあるでしょう。
鶴見俊輔 アメリカがその政策上、日本人をもちあげることが必要になったので、頭を撫ではじめた、その手のなかに乗っちゃっている、という感じはありますね。あの戦争は紙一重だったとかね 紙一重であるわけがないですよ。あるいは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とかね、そういうのがとても困るんですね。 戦時宣伝というのは、情報が遮断されていることがたいへん重要なファクターの一つなんだ、・・・いまは、ヨーロッパに対しても開放れているのが一応の救いなんだが、第三世界、第四世界に対しても開放れてきて、その状態をわれわれが知り、あるいはまた向こうではわれわれをどう見ているか、というような交換ができるようになれば、戦時的な宣伝が効果を上げる場は薄くなってくると思うんだけれど、そこのところがむずかしい。
なだ クナシリ、エトロフにソ連が軍備を強化したというのも、どうしてあんなにゴタゴタと急に問題になったのかね。・・・。
鶴見 いまの日本が国家として、そういう動物心理学的な条件をじゅうぶんに考えつくして国民を操作できるような状態だろうか。
なだ ジャーナリズムがいつのまにか自分のほうからそういう場をつくってしまうということがありうるということですね。ジャーナリズムはニュースがないときはニュースをつくり出してしまう、という側面があるでしょう。報道は真実を伝えるもの、なんて言うけれど、実際はニュースヴァリューがなければニュースも売れないわけでね。 たとえば、子どもの自殺が増えた増えたと騒がれたときも、ぼくはいったいいつとくらべて増えたと言ってるのか、自殺は増えていないと、新聞とけんかしたんですけれど、それと同じようなことが、こんどの軍備の問題でも言えると思うんです。 『鶴見俊輔座談・戦争とは何だろうか』晶文社
都知事選以降の安倍政権への支持率低下と共に、日本をヨイショする番組が、退き始めた。政権忖度を旨とする雑誌の類も後退を余儀なくされている。これらのヨイショ番組の出所が単一であり強い権限を持っていることを窺わせる。
1978年金丸防衛庁長官が、在日米軍基地で働く日本人従業員給与の一部を負担して始まった「思いやり予算」。1990年代には、バーテンダー・宴会マネジャー給与までも思いやり予算で処理され「不適切な支出」が明らかとなり、野党が「レジャー向けの職員の人件費まで日本が負担するのはおかしい」と反対したのは、2008年度予算であった。
鶴見俊輔となだいなだの対談が行われたのは1996年6月、NHK「COOL JAPAN」が始まったのが2006年4月である。例外的に長いブームであって自然発生的流行とは言えない。
2010年「しんぶん赤旗」は「在沖縄米軍電話帳」で、キャンプ・フォスター司令部内に「思いやり予算」担当部署が設置されている事を明らかにした。ブレジンスキーが日本を保護領と呼んだわけである。
今は、焦点が クナシリ、エトロフから北朝鮮ミサイル移っているが、尖閣・竹島、からアラビア半島までが問題になって、その度にその造り上げられた危機に相応しい高価なハイテク軍艦、戦闘機、ミサイルシステムが成功裏に輸入された。そのことが逆転して、裏返った遮断状態を作り出している。轟音は我々の状態を我々自身が認識することを妨げる。同じように情報の乱舞で我々の感覚は疲労して麻痺、2016年度から思いやり予算は133億円増額されたことに殆ど気付いていない有様である。
同時に偏差値による学校の輪切り選別体制は、若者の社会意識と連帯の行動を遮断し続けている。職場で学校で、存在自体が尊重されない生活を送った若者たちが、尊厳を求めて立ち上がるのではなく、アジアや弱者を見下げることで他人の尊厳を蹂躙して代替したのである。
高校全入運動期の高校卒業生が成人したのが90年代である。日本をヨイショする風潮が押し寄せる時期に当たる。残念でならないのは運動が量的拡大に気をとられて、平等・自由・連帯の質的充実を教育に盛り込む事に失敗したことである。むしろ全入は能力主義教育の副産物だったのかも知れない。実際、全国の新設高校の開設要員たちは、競って管理主義のメッカと化した東郷高校詣でに励み、塾や地元教育関係者と画策して、事前に偏差値を上げ虚像作りに汗を流した。その茶番を歓迎する市民も「成功」と持ち上げる報道も相次いだ。その結果「底辺校」の学力底上げまでが管理主義的手法に依存して見事破綻した。敗戦直後急速にすすんだ高校教育の民主主義的充実もこれですつかり奪われてしまった。
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若者を貧困と無知から解放すべし
「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」 黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。 ...