「お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・
どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、
これは、ハンセン病療養所多磨全生園少年少女舎寮父(こうした仕事は園職員が担うべきだが、園内土木作業などの重労働から病舎での看護や洗濯までもが患者労働で行われた。寮父はお子どもたちから父さんと呼ばれ、特に三木さんは全身全霊を尽くして子どもに尽くし、最後の子どもが社会復帰した後は精神的に弱り不眠に悩まされていた)に埼玉大学生が聞き取りしたものである。「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね」
僕自身も最後の患者教師として長く子どもたちに関わった天野秋一先生からこの話は聞いている。
社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従つて人間のあり方を変える。
例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。
三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを取り出して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を誰もが目にして話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。
人口が増加すれば、こうした判断は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を失って、多数雑多な厄介者の一人として一括処理され、彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、順応できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。
小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」と呼ばれた絶滅療養所で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」(ハンセン病療養所の人たちは、療養所の外を「社会」と呼んでいた。)では、企業も自治体も学校さえも合併し規模の大きさを誇り、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(彼は患者の生活を暴力的に取締る園職員だった。死に追い込んだ事もある)が居てはありえない。なぜなら、そこではあるべき人間像は上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。
追記 1888年日本には7万0314の自治体があった。2014年には1718にまで減少。フランスには今3万8000 ドイツには1万4500の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 療養所内の「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという集団の大きさが関わっている。 高山事務部長(彼はハンセン病療養所の隔離を憎んで外と内を隔てる垣根を切り下げるなど画期的な試みをしている)が力を注いだスポーツも、こんな役割を果たしたのである。 拙著 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊
我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困や弱者に対する不寛容性は、ここに根がある。ひとり一人の声が行政や議会に届かない。相談窓口だけを増加させたり、補助金と民営化一本槍で対処出来る問題ではない。関係者が直接目配りできて直ちに対処できる規模が必要なのである。巨大化すれば軍事力警察力戒厳令の世界になってしまう。維新の会が力説する道州制はこの傾向を意図的に進めて、格差と差別を強化する愚劣な企てででしかない。教育行政も福祉医療行政も住民の「曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える」事によってしか前進しない。小さな単位で自治を拡大することだけが解決の道である。
近代化以来、日本は軍艦を巨大化して領土を拡大することに意識を奪われ、内外に無惨な破綻を招いた。小さくすることが発展する事に繋がる分野は少なくないことに気付く必要がある。いや大きくしていいものを僕は、労働分配率や福祉教育予算以外に思い浮かべる事が出来ない。労働分配率や福祉教育予算は、政治が人々の身近にあるところでなければ真剣に取り組まれない。
日本の学校も大きすぎる。西欧では校長が生徒を名前を覚える事の出来る大きさに抑えられている。子どもの名前を覚えていないことは、直ちに父母によって罷免の対象となる。僕は昼休みや放課後、校庭に出て生徒に語りかけた校長を一人しか知らない。
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