ゴーリキーの『母』を読んだ人にとっては、革命家を嫌悪することは、困難となる。桑原武夫

人間は憐れむべきものではない。尊敬すべきものだ
  「たとえは『レ・ミゼラプル』を読んだ人は、現実の免囚に出会ったとき、この小説を読んだことのない人に比べて、より少ない嫌悪、または、より多くの同情をもつに相違ない。もちろん、その読者の免囚に対する行動は、さまざまの現実の条件にょって限定されるが、その限定され方が多少とも違ってくるのである。ユゴーのこの作品が出てから、世界中で免囚保護事業が盛んになったという事実は、私の仮説を支えてくれる。同様に、若いときにゴーリキーの『母』を感動をもって読んだことのある人にとっては、革命家を嫌悪することは、困難となるのである」  桑原武夫『文学入門』
 

 文学に接した数日が人間に大きな感化を及ぼすのだから、豊かな文化に囲まれた級友や教師とともに過ごす数年は徹底的な影響をあたえない筈がない。我々は、よく地域に学ぶといったり、地域の教育力という。だが地域自体が、階層別に分断されている。ある宗教団体は、同じ地域で会合が組織されるのではなく、階層で分けられている。階層ごとに教理が使い分けられるからである。政党も似た組織形態をとるところが多い。

 かつて小中学校は、地域性が濃厚であった。僕の四谷四小には、銀行頭取のお屋敷から通うねえや付きの坊ちゃんから、崖下のバラックに住む子までが同じ教室にいた。四谷二中には、新日鉄重役の孫や高名な弁護士の息子から、新宿南町の木賃宿の子に暴力団員の子、更に日本舞踊の師匠や落語家、子役や歌手までがひしめいて、複雑な影響を与え合っていた。

 お陰で僕は、ヤクザとの会話に慣れた。定時制課程や下町の工業高校では、担任する学級に幾人ものヤクザ子弟がいて面白い経験をしたが、困ることはなかった。むしろ経済や歴史の理解を広めたり深めたりすることが出来て、授業に生かすことが出来たと言ってよい。
 こんな経験は、政治家にも官僚にも学者にも必須だと思う。「原発業界」に科学者が取り込まれることも少なくなる。平凡な父親母親が子どもを育てる上でこそ、良い影響がある筈だ。

 だが今や階層分化は産院から始まる。我々は知らないものを恐れる。恐れて身構え、些細ないことで対立攻撃する。
 様々な階層が交流は、時間をかけて豊かな教養や寛容の精神自体を育む。しかし逆にそれ自体を嫌悪する潮流が勢いを増しているのだ。


 僕はある労働争議団とともに授業をつくり、生徒共々交流したことがある。そこで残念でならなかったことは、厳しい弾圧に十年以上を耐えた逞しい労働者が、子どもの進学には偏差値を優先して憚らなかったことだ。

 闘いの経験は、単なる闘争ではない。階層や世代を超えた文化となる可能性を秘めている。交流とは、階層を忘れることでは無い。連帯や友情は同化からは決して生まれない。階層の文化に誇りを持ち育てた経験を交流するのでなければならない。貧しい階層が豊かな階層の家庭から、本を借りたり言葉遣いや料理の献立を真似ることではない。
 すべての青少年が、愚かな競争に鎬を削るのではなく、地域の学校に権利として進学する。そこに希望を見いだせない社会に希望はない。


 追記  10歳で孤児となったゴーリキーは祖母に育てられるが、その祖母も死亡。自殺未遂の後、新聞記者などをしながらロシア各地を放浪。 1899年長編『フォマ・ゴルデーエフ』を発表。チェーホフやトルストイ並ぶ評価を得る。『どん底』はスタニスラフスキー演出で上演され、ドイツでも評判となる。
 1902年科学アカデミー名誉会員に選ばれるが、ニコライ2世は政治的信条を理由に取り消した。これに抗議して、チェーホフとコロレンコはアカデミーを辞任している。
 第一次世界大戦の際には、ゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になる。十月革命2週間後の手紙にはこう書いた。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」

友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である

完全試合なんてまっぴらだ
友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である。
一人だけ長くボールをあたためておくことは許されない。
受け取ったら投げ返す。
そのボールが空に描く弧が大きければ大きいほど
受けとるときの手ごたえもずっしりと重いというわけである。
それは現在人が失い欠けている「対話」を回復するための精神のスポーツである。
恋愛は、結婚に形を変えたとたんに消えてしまうこともあるが、
友情は決して何にも形をかえることができない。
     寺山修司「人生なればこそ」


  僕にとって「野球」は 「キャッチボール」そのものである。小学校に入る前から、近所の連中と草野球と言うのも憚られる遊びに励んだ。ルールもバットもなかった。球が無くなると、布の切れっ端や紙を丸めてたこ糸でグルグルに縛ったり、卓球の球や羽子板の羽を羽子板で打ったりした。卓球の球は、思い通りに飛んでくれないので面白かったが飽きるのも早かった。小さい子が混じれば、その子に合わせてルール変更はしょっちゅうだった。


 東京に引っ越すと、バットもミットもルールブックも持つ者がいて少しは草野球らしくなった。それでも、遊ぶ本人たちが自在に「楽しむ」ことが最優先であった。巧すぎる投手や打ち過ぎる打者は、本人さえ面白くない。点差が開きすぎるのは、双方詰まらない。「一人だけ長くボールをあたためておくことは許されない」という精神からすれば、完全試合なんてまっぴらだった。
 

 散々揉めた末に決まった投手指名制や、守備交代制は楽しかった。前者は、打者が相手チームから投手を指名する。何をやっても下手な僕は、指名投手としては人気があった。球が速くないから打ちやすい、打ちやすいが球速がない分球は山なりに飛んでくるから、どうしても打ち上げてしまう。意外にアウトを取れる。内角高めとか外角低めのリクエスト制も喜ばれた。なかなかストライクにならないのが欠点だった。守備交代制は、みんなが順番にすべてのポジションに一回づつ移動する。ショートだけとか投手だけは許されない。守備場所が変わると、勝手が違ってミスが続出して面白かった。
 何よりよかったのは、大人の介入がなかったことだ。大人はみんな忙しかった。だから工夫が生まれたのだと思う。 あれは、少年が「対話」するための精神のスポーツであった。高度経済成長が、すべてをぶち壊したのだ。「完全試合」とは、高度経済成長の悪夢に他ならない。麻薬が効いている間、悪夢は快楽である。
 
 今あらゆるスポーツを
商業資本が覆って、儲けることが勝つことと同義になった。スキー選手は板のメーカー名が見えるように、カメラの前に立つ。惨めである。サッカーはスポンサーの商標の列に囲われて走り回らされる。野球は、TV画面いっぱいに広告が入るように、打者の背景が割り振られて実に汚らしいし、ユニフォームも宣伝だらけで見苦しい。ヨットレースでさえ帆や船体まで宣伝で埋め尽くされて、美観を損ねている。そのうち力士のまわしや水着にも宣伝が入りそうな気がしている。

 走り回れば無数のバッタが飛び立つ空き地での、子どものボール投げ遊びを「野球と言ってよいか。
 S・バトラーは「定義すること、それは観念という茫漠たる土地を言葉の壁で囲うことである」と言った。茫漠たる土地とは、冒険と自由の空間を示している。「野球」になるとは、冒険と自由の空間」を商業資本が囲い込んで、商標が解き放たれることである。自由な空間から、人間が追放されたのである。歴史の法則から見れば、この後に来るのは「持たぬ者」たちの窮乏化である。

 今や金を出す側の意向だけが先走って、player自身は自由に楽しむことを禁じられている。空間だけではなく時間まで奪われている。メダルやメディアによる賞賛は、「隷属と拘束」の日常を、それこそが生きがいと錯覚させる麻薬である。人は商業主義の奴隷である。そこに、友情や対話の気配はない。

規則によって人の自由を奪えば、その人の責任を問うことは出来ない

2.1ゼネスト直前の末広嚴太郞と徳田球一
 「抑圧を下へと譲り渡したに過ぎないために、自らに対して主体的責任を感ずるところがない」 丸山眞男
  体罰を振るって瀕死の重傷や死亡事故を起こした教師が、自ら責任を取るというは滅多に聴かない。危険なタックルを指示した日大監督が、主体的責任をとれなかったのは、日大理事長を頂点とする支配体制から委譲された抑圧を、下に取り次いだに過ぎないからだと、理事長も監督も考えていたからである。体罰が横行する職場には、中学や高校でも同じ構造が形成されている。
  「責任は、自由の基礎の上に初めて成り立つ」と言ったのは、末広嚴太郞である。日大理事長支配下の、監督や教授に反逆以外の自由は無い。従って主体的責任意識は生まれない。
 

  「規則によって人の自由を奪うとき、もはやその人の責任を問うことは出来ないのです」末広嚴太郞『嘘の効用』
 だから無意識のうちに、体罰は隠蔽される。対外的な窓口が、管理職に一本化されて教員の口封じが合意される。そんなとき
 「私は、自由に喋りますよ。そんな口裏合わせより、真相解明をした上で、生徒たちや保護者に説明すべきではありませんか。その場で我々も、それぞれ個人として自由に見解を表明しなければなりません」と言うことは、とても大切なことである。憲法はそれをひとり一人の国民に要請しているからである。憲法を守るとはそういうことだ。
 「第十二条・この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない


  「しかるに、万事を規則ずくめに取り扱う役所なり大会社なりは、使用人の責任までをも、規則によって形式的に定めようとします。その結果、責任は硬化し、形骸化して、全く道徳的根拠を失います」末広嚴太郞 前掲書

  だが現実には「私は、自由に喋りますよ。そんな口裏合わせより・・・」と発言した途端、問題は体罰から離れて、結束を乱す教師の問題になる。結束や一致は、それがどのようなりに基づくかではなく、形式的多数決によって成立する。

  丸山眞男は、戦前戦中の「超国家主義」日本を分析する過程で、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という構造を見出した。それは、全ての価値と規範の体系が、最高価値たる天皇からの相対的距離を規準として成立している社会体制であり、そこでは、最高価値に「相対的に近い」上の者から下の者へと抑圧が譲渡されていくようになっている。抑圧した者は上からの抑圧を下へと譲り渡したに過ぎないために、自らに対して主体的責任を感ずるところがない。そして、帰責対象の上昇経路を辿れば天皇がその終着点であるかと思えば、天皇でさえも皇統というより上位の伝統に連なっているに過ぎず、究極の最高価値の地位は抽象的・観念的な伝統によって占められるために、責任は最終的に霧消されてしまうしかない。丸山は、こうした抑圧の移譲構造こそ、近代的主体の存在しない日本社会の病理だと診断したのである。

 「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という日本の病理は克服されたとは言いがたい。
抑圧の移譲は同調圧力へと姿を変え、SNSの機能を通して、瞬時に集団を対話や討議抜きの画一化へと追い込んでいる。

  末広嚴太郞は初代水連会長として、「練習10則」を作っている。1939年のことである。
 第六則 レース前の練習に当っては毎夕毎晩、体重を測れ。もしも朝の計量において体重の回復が十分でないことを発見したならば練習の分量を減らさなければならない。
 第七則 スランプは精神よりはむしろ体力の欠陥に原因していると思わねばならぬ。いたずらにあせるより、思い切って二三日練習を休む方がよろしい。

 

 彼は戦後GHQの求めに応じて、労働三法制定に尽力し東京都地方労働委員会会長や中央労働委員会会長を務めた。「練習10則」と労働三法は無縁ではない働く権利は、休息する権利と一体である。

修理工がポールを投げ、老運転手が受けとめる。その「一瞬の長い旅路」こそ人間的な伝達の比喩である

軍隊に人間的な伝達はない、言葉の主体が存在しないからだ
 一個のゴムのボールがAからBに投げられる。夕暮の倉庫のある路上での自転車修理工と、タクシーの老運転手がキャッチボールする場合を考えてみよう。修理工がポールを投げると老運転手が胸の高さで受けとめる。ポールが互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡してやった気分になる。その確実な何かが何であるのかは、私にもわからない。
 だが、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう。ボールが老運転手の手をはなれてから、修理工の手にとどくまでの「一瞬の長い旅路」こそ、地理主義の理想である。
 手をはなれたポールが夕焼の空に弧をえがき、二人の不安な視線のなかをとんでゆくのを見るのは、実に人間的な伝達の比喩である。
 終戦後、私たちがお互いに信頼を恢復したのはどんな歴史書でも、政治家の配慮でもなくて、まさにこのキャッチボールのおかげだったのではないだろうか。 寺山修司「実感の形而上学」

 修理工と老運転手はどういう次第で、キャッチボールすることになったのだろうか。近所の赤提灯で、いつも軍歌を呟きながら管を巻く老運転手を苦々しく避けていた修理工の若者が、たまの早じまいの土曜日、路地に腰を下ろして日向ぼっこをしていた。時間はあるが金も恋人もない、地方出だから言葉に慣れなくて友達も出来ない。地面に折れ釘で落書きをしていると、件の老運転手がくたびれたグローブ二つ持ってやってきたのかも知れない。
 それから
修理工との凝縮した関係が始まる。互いの戦争体験が明らかにされ、老運転手が50にもならないのに老けているのは、徴兵されて留守していた時に、大空襲で家族のすべてを失ったからだということも、軍歌を口ずさむのは他に歌を知らないからということもわかってくる。
 「だからよ、俺は明るく肩組んで軍歌うたってる連中見ると腹が立つんだ。俺の子どもは生きていれば。兄ちゃんと同じ年配なんだ・・・」
 「そうですか、失礼しました。僕の親父は南洋に送られて、それっきりです。遺骨もありません、だから軍歌は嫌いです。母も兄弟たちも苦労しました」

 僕が東京の小学校に転校してきた1958年頃、こんな老運転手や修理工は四谷界隈にもたくさんいて、幾つもの草野球チームを作っていた。日曜日には、方々に残っていた空き地や外苑で試合をして、僕たち子どもと場所の取り合いで揉めたが、交渉すれば済んだ。しかも、管理する役所もないから、すべてタダだった。

 ただ中学に入る頃から、あちこちの空き地や広場に看板が立ち、杭が打たれ金網が張られ「無断立ち入り禁止」になった。その一つが国立競技場である。
 すべてが計画され商業化されて、世代や地域を超えた「凝縮したかたい手ごたえ」がもたらす信頼は、街角から姿を消してしまう。
  学校で「部活」として編成されたキャッチボールや「やきゅう」はカリキュラム化されて「バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡し」す機会を掴めなくなってしまった。
地面に折れ釘で落書きをしている修理工に、思い切って声をかける決意こそが、「一瞬の長い旅路」を生んでいるのだ。「何かを渡」すやりとりの代わりに現れたのは、チームとしての勝敗に一喜一憂することだ。そこには、他者を思いやりながら、人間的伝達関係を築く主体性はない。
 戦争を放棄して、我々が手に入れた主体性をたかがチームの勝敗のために失ってしまったのではないか。そして今やチームを越えて、「国威発揚」が恥ずかしげもなく掲げられている。 
 軍隊という集団から個人が奪い返したものを、再び集団に委ねるのは愚かだ。寺山修司はそう言うに違いない。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...