軍隊に人間的な伝達はない、言葉の主体が存在しないからだ |
一個のゴムのボールがAからBに投げられる。夕暮の倉庫のある路上での自転車修理工と、タクシーの老運転手がキャッチボールする場合を考えてみよう。修理工がポールを投げると老運転手が胸の高さで受けとめる。ポールが互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡してやった気分になる。その確実な何かが何であるのかは、私にもわからない。
だが、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう。ボールが老運転手の手をはなれてから、修理工の手にとどくまでの「一瞬の長い旅路」こそ、地理主義の理想である。
手をはなれたポールが夕焼の空に弧をえがき、二人の不安な視線のなかをとんでゆくのを見るのは、実に人間的な伝達の比喩である。 終戦後、私たちがお互いに信頼を恢復したのはどんな歴史書でも、政治家の配慮でもなくて、まさにこのキャッチボールのおかげだったのではないだろうか。 寺山修司「実感の形而上学」
修理工と老運転手はどういう次第で、キャッチボールすることになったのだろうか。近所の赤提灯で、いつも軍歌を呟きながら管を巻く老運転手を苦々しく避けていた修理工の若者が、たまの早じまいの土曜日、路地に腰を下ろして日向ぼっこをしていた。時間はあるが金も恋人もない、地方出だから言葉に慣れなくて友達も出来ない。地面に折れ釘で落書きをしていると、件の老運転手がくたびれたグローブ二つ持ってやってきたのかも知れない。
それから修理工との凝縮した関係が始まる。互いの戦争体験が明らかにされ、老運転手が50にもならないのに老けているのは、徴兵されて留守していた時に、大空襲で家族のすべてを失ったからだということも、軍歌を口ずさむのは他に歌を知らないからということもわかってくる。
「だからよ、俺は明るく肩組んで軍歌うたってる連中見ると腹が立つんだ。俺の子どもは生きていれば。兄ちゃんと同じ年配なんだ・・・」
「そうですか、失礼しました。僕の親父は南洋に送られて、それっきりです。遺骨もありません、だから軍歌は嫌いです。母も兄弟たちも苦労しました」
僕が東京の小学校に転校してきた1958年頃、こんな老運転手や修理工は四谷界隈にもたくさんいて、幾つもの草野球チームを作っていた。日曜日には、方々に残っていた空き地や外苑で試合をして、僕たち子どもと場所の取り合いで揉めたが、交渉すれば済んだ。しかも、管理する役所もないから、すべてタダだった。
ただ中学に入る頃から、あちこちの空き地や広場に看板が立ち、杭が打たれ金網が張られ「無断立ち入り禁止」になった。その一つが国立競技場である。
すべてが計画され商業化されて、世代や地域を超えた「凝縮したかたい手ごたえ」がもたらす信頼は、街角から姿を消してしまう。
学校で「部活」として編成されたキャッチボールや「やきゅう」はカリキュラム化されて「バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡し」す機会を掴めなくなってしまった。地面に折れ釘で落書きをしている修理工に、思い切って声をかける決意こそが、「一瞬の長い旅路」を生んでいるのだ。「何かを渡」すやりとりの代わりに現れたのは、チームとしての勝敗に一喜一憂することだ。そこには、他者を思いやりながら、人間的伝達関係を築く主体性はない。
戦争を放棄して、我々が手に入れた主体性をたかがチームの勝敗のために失ってしまったのではないか。そして今やチームを越えて、「国威発揚」が恥ずかしげもなく掲げられている。
軍隊という集団から個人が奪い返したものを、再び集団に委ねるのは愚かだ。寺山修司はそう言うに違いない。
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