戦時下、中学生の身長は6㎝縮んだ。勝てるわけがない |
その間の教育というものは、いわゆる軍国主義教育で、滅私奉公とか尽忠報国、皇軍不敗というようなことで、国のために、天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとであると…・‥死ぬことが生きることであるというのは、いまの若い人たちにはわからないかも知れませんが、ぼくだって本当にわかってたわけではないけれども、そんなように納得したところがありまして、頭からそう教育されてきました。それは太平洋戦争が始まってからも同じで、わたしが入学したのは、東京・高輪の泉岳寺の隣りにある、あまり出来のよくないのが入る中学で、校長はえらそうなひげを生やした退役の陸軍大佐で、、もちろんばりばりの軍国主義者でした。年中、国のために死ね、天皇陛下のために死ねといわれつづけてきたんです。また、わたしの周囲を見まわしても、それに反対する意見というものはまったく耳に入ってきませんでした。・・・字引をひいても、基本的人権などという言葉はないし・・・デモクラシーのデの字も耳にしたことはありません。・・・いわゆる神州不滅ということ、皇国日本という教育だけをうけて、疑うということを知らなかったし、疑うことを教えてくれる人もいなかったんです」 (日本戦没学生記念会講演「英霊もしくは死せる虫たち」1972年)
結城昌治は、死に場所を求めるように特別幹部練習生を志願。朝から晩まで「大東亜戦争勝ち抜き棒」を振り回す下士官に殴られた挙げ句肺病で除隊。敗戦時18歳の彼は、「殆ど無知に近」い状態で焼け野原に投げ出される。
少年や若者たちの現在と結城昌治らの青春が、瓜二つに見えてならない。低賃金とパワハラの末に過労死に追い込まれながら、対米従属のサムライジャパン精神に酔い疑うことを知らない。日本経済不滅を信じて近隣諸国への蔑視に身を委ね、労働三権や基本的人権に背を向けるのだ。全てが大きな破綻に向かって、抵抗するどころか加担して破綻を糊塗している。
まるで現実を忘れるために、土日も正月もなく「部活」にのめり込む高校生の姿は、軍国主義教育下の結城昌治とどこが違うのだろうか。スマホを持っていることか。
だがスマホは少年たちを些かも解放しない。スマホから目を離すと何か大事なことを見逃すのではないかという脅迫観念が、青春を組織に縛り付け個人としての判断を奪っている。
八王子の女子中学生が、夏休み中の家族旅行を上級生のSNSで咎められ虐めに発展、不登校と転校の末自殺した。
元気で天気がいい時に休むのが、休暇である。辺野古の座り込みや国会前集会に学校を休んで参加するのは、主権者の権利である。病気で休むのは病欠、悪天候や交通機関のストで休むのは事故欠 であり何ら問題ない。それをスマホは瞬時に奪う。決してsocial media ではない、社会的関係を断ち切る民営公安mediaなのだ。
教師は、休むとは一体どんなことなのか考え教えているのか。咎めた生徒も自殺した生徒も、病気や怪我でもしない限り休むのはいけないと思い込んでいる。家族の誕生祝いのために早退したり休んだりを当たり前にするのが、文明化というものではないか。 戦中でもないのに、何故教師たちは辺野古の現実を授業で取り上げることに躊躇しているのか。若者の労働条件のために闘うことを何故ためらうのだ。自らも過労死の縁にあると言うのに。
1980年代、僅か29分の職場集会にさえ「生徒に迷惑をかけない」といって逃げる風潮が拡大した。鉄道労働者のストライキを迷惑視する「良心的」教師も増えていた。
一体「生徒に迷惑」とは何か。三年生の1/3から1/2が、来年には非正規労働に就かざるを得ない現実ではないのか。 「明日の朝練は中止」と告げて職場集会する理由を語ることを何故しなかったのか。組合員であること、闘うことは隠さねばならぬことなのか。
結城昌治は地検保護課で働いていたとき、1952年の片面講和条約締結に伴う講和恩赦に関わり、外地の軍法会議判決を読む機会があった。「その軍法会議の記録を読んだときに、初めて軍隊というのはこんなひどいものだったのか、大変なところだったんだな、とびっくりしたんです。たとえば、小説に書きましたけれども、戦闘で傷を負って意識不明になって敵の捕虜になります。しかし、捕虜に.なってもなんとか脱走して原隊へ帰りたいと、スキをうかがって逃げてきた。その兵隊を、「お前は敵前逃亡である」といって死刑にしてしまう。そういう例がいくらもありましてしかも、罰せられているのはほとんど下士官か兵隊で、不思議に思ったのです。なぜ将校は軍法会議にかからないのか」
「あの戦争にいちばん大きな責任がある者ほど、戦争が負けたのにたくきんもらっています。これはいったいどういうわけなのでしょうか。職業軍人というものは、たとえるなら戦争に負けたら会社が倒産したと同じで、恩給などもらえる義理じゃないはずです。会社が倒産すればその首脳部は、借金を背負って、家を売りとばしても返済しなければならない。ところが日本の場合は、国が負けたら率先して責任のある連中が軍人恩給をもらっています。多くの部下を死なせた当時の将官、佐官などがのうのうと年金をもらっています。一兵卒などほ雀の涙です」
結城昌治も戦艦大和からの少年復員兵渡辺清←クリック も、「天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとである」と思い定める「殆ど無知に近い」18歳であった。結城は肺病に冒され四年間の入院生活を送り、渡辺は呆然自失して実家で農作業した。 二人が戦争犯罪について批判的に考えることが出来たのは、無為な日々のあればこそだ。暇がなければ、疑うことも出来ない。
疑う者が、軍国主義にとって最も憎むべき敵=非国民であった。