疑うことを知らず、それを教えてくれる人もいなかった

戦時下、中学生の身長は6㎝縮んだ。勝てるわけがない
 「わたし(結城昌治)が生まれたのは昭和二年(1927)です。昭和六年に満州事変が始まって、それが日本や侵略戦争の初めだったと思いますが、このとき、ぼくは四歳だったわけです。それから昭和十二年に支那事変が始まって、支那事変はいま日中戦争とよばれておりますが、そのときは小学生です。それから昭和十六年に真珠湾攻撃、これが太平洋戦争の勃発でしたけれども」中学二年生のときで、まだ世の中のことはわからなかった。
 その間の教育というものは、いわゆる軍国主義教育で、滅私奉公とか尽忠報国、皇軍不敗というようなことで、国のために、天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとであると…・‥死ぬことが生きることであるというのは、いまの若い人たちにはわからないかも知れませんが、ぼくだって本当にわかってたわけではないけれども、そんなように納得したところがありまして、頭からそう教育されてきました。それは太平洋戦争が始まってからも同じで、わたしが入学したのは、東京・高輪の泉岳寺の隣りにある、あまり出来のよくないのが入る中学で、校長はえらそうなひげを生やした退役の陸軍大佐で、、もちろんばりばりの軍国主義者でした。年中、国のために死ね、天皇陛下のために死ねといわれつづけてきたんです。また、わたしの周囲を見まわしても、それに反対する意見というものはまったく耳に入ってきませんでした。・・・字引をひいても、基本的人権などという言葉はないし・・・デモクラシーのデの字も耳にしたことはありません。・・・いわゆる神州不滅ということ、皇国日本という教育だけをうけて、疑うということを知らなかったし、疑うことを教えてくれる人もいなかったんです
」    (日本戦没学生記念会講演「英霊もしくは死せる虫たち」1972年)

 結城昌治は、死に場所を求めるように特別幹部練習生を志願。朝から晩まで「大東亜戦争勝ち抜き棒」を振り回す下士官に殴られた挙げ句肺病で除隊。敗戦時18歳の彼は、「殆ど無知に近」い状態で焼け野原に投げ出される。


 少年や若者たちの現在と結城昌治らの青春が、瓜二つに見えてならない。低賃金とパワハラの末に過労死に追い込まれながら、対米従属のサムライジャパン精神に酔い疑うことを知らない。日本経済不滅を信じて近隣諸国への蔑視に身を委ね、労働三権や基本的人権に背を向けるのだ。全てが大きな破綻に向かって、抵抗するどころか加担して破綻を糊塗している。

   まるで現実を忘れるために、土日も正月もなく「部活」にのめり込む高校生の姿は、軍国主義教育下の結城昌治とどこが違うのだろうか。スマホを持っていることか。
 だがスマホは少年たちを些かも解放しない。スマホから目を離すと何か大事なことを見逃すのではないかという脅迫観念が、青春を組織に縛り付け個人としての判断を奪っている。

 八王子の女子中学生が、夏休み中の家族旅行を上級生のSNSで咎められ虐めに発展、不登校と転校の末自殺した。
 元気で天気がいい時に休むのが、休暇である。辺野古の座り込みや国会前集会に学校を休んで参加するのは、主権者の権利である。病気で休むのは病欠、悪天候や交通機関のストで休むのは事故欠 であり何ら問題ない。それをスマホは瞬時に奪う。決してsocial media ではない、社会的関係を断ち切る民営公安mediaなのだ。

 教師は、休むとは一体どんなことなのか考え教えているのか。咎めた生徒も自殺した生徒も、病気や怪我でもしない限り休むのはいけないと思い込んでいる。家族の誕生祝いのために早退したり休んだりを当たり前にするのが、文明化というものではないか。  戦中でもないのに、何故教師たちは辺野古の現実を授業で取り上げることに躊躇しているのか。若者の労働条件のために闘うことを何故ためらうのだ。自らも過労死の縁にあると言うのに。
 1980年代、僅か29分の職場集会にさえ「生徒に迷惑をかけない」といって逃げる風潮が拡大した。鉄道労働者のストライキを迷惑視する「良心的」教師も増えていた。

 一体「生徒に迷惑」とは何か。三年生の1/3から1/2が、来年には非正規労働に就かざるを得ない現実ではないのか。 「明日の朝練は中止」と告げて職場集会する理由を語ることを何故しなかったのか。組合員であること、闘うことは隠さねばならぬことなのか。

 結城昌治は地検保護課で働いていたとき、1952年の片面講和条約締結に伴う講和恩赦に関わり、外地の軍法会議判決を読む機会があった。「その軍法会議の記録を読んだときに、初めて軍隊というのはこんなひどいものだったのか、大変なところだったんだな、とびっくりしたんです。たとえば、小説に書きましたけれども、戦闘で傷を負って意識不明になって敵の捕虜になります。しかし、捕虜に.なってもなんとか脱走して原隊へ帰りたいと、スキをうかがって逃げてきた。その兵隊を、「お前は敵前逃亡である」といって死刑にしてしまう。そういう例がいくらもありましてしかも、罰せられているのはほとんど下士官か兵隊で、不思議に思ったのです。なぜ将校は軍法会議にかからないのか

  「あの戦争にいちばん大きな責任がある者ほど、戦争が負けたのにたくきんもらっています。これはいったいどういうわけなのでしょうか。職業軍人というものは、たとえるなら戦争に負けたら会社が倒産したと同じで、恩給などもらえる義理じゃないはずです。会社が倒産すればその首脳部は、借金を背負って、家を売りとばしても返済しなければならない。ところが日本の場合は、国が負けたら率先して責任のある連中が軍人恩給をもらっています。多くの部下を死なせた当時の将官、佐官などがのうのうと年金をもらっています。一兵卒などほ雀の涙です
 
 結城昌治も戦艦大和からの少年復員兵渡辺清←クリック も、「天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとである」と思い定める「殆ど無知に近い」18歳であった。結城は肺病に冒され四年間の入院生活を送り、渡辺は呆然自失して実家で農作業した。 二人が戦争犯罪について批判的に考えることが出来たのは、無為な日々のあればこそだ。暇がなければ、疑うことも出来ない。

 疑う者が、軍国主義にとって最も憎むべき敵=非国民であった。

いい授業とは何か Ⅰ

誇れないことを自ら誇る醜さ
 だいぶ前から「おいしい○×屋さん」とか「日本一旨い△◇屋」などと看板を掲げる店が増えた。近寄りたくない程の違和感を覚える。自ら「ブランド化」を画策する生産者団体や企業もある。「天才的外科医」とか「美人講師の塾」などという看板や名刺が流行るのも時間の問題かも知れない。「主任教諭」や「指導教諭」の肩書きを、名刺や自己紹介に印刷したがっているのだから。更に出身校名を入れたくてウズウズする向きもある。  学校が校舎に「△×部関東大会優勝」などと垂れ幕をぶら下げるのが当たり前というならば、自宅に「次男 ×□高校合格」だの「夫 教頭試験合格」の垂れ幕も可笑しくなくなるかも知れない。
 マスメディアや政府が「ニッポン金メダル○個」だの「日本人連続ノーベル賞」と驚喜する、見苦しい光景である。賞賛さるべきは当の個人であり、賞賛する側も個人でなければならない。なぜなら、あらゆる賞には国家的企みが隠されていて、その企みに振り回されるのは全体主義を誘発して危険かつ愚かだからである。集団で浮かれたあげく誇大に自賛して、他国と自国の優劣の比較に用いるのは筋が違う。個人の手柄に集団が乗り移るのは、素朴な手前味噌を越えて国家主義の響きがある。オリンピックのメダル数もノーベル賞受賞数も、人口あたりに換算すれば、騒ぐほどの数ではない。

生産力の分析もなしに、軍艦の数を誇り、不遜な思い込みを高じさせて日中戦争から太平洋戦争に踏み込んだ苦い経験を忘れている。

 ブランド品という特権的名称は、その商品生産者が自ら付与するものなのか。販売と消費の長い実績があって自然に湧き出す品質への評価が「ブランド」と呼ばれ定着するのではないか。広告代理店を使った販売戦略や、タレントによる宣伝でなんとかなる筋合いではない。金さえ出せば、他人任せで済む安易なものではない。長い歳月と汗が染みこんて初めて獲得できるはずのものだった。
 だが金と権力で希な成果を挙げた例が、注目され産業化されるようになる。1970年代の新設都立高校の中には、じもとの中学関係者や塾と結託して初めから偏差値の高い生徒を集めることに成功した例が複数存在している。教育委員会が入試制度を弄んで、中高校生や教員を翻弄したことも度々ある。
 ユーゴスラビアにおける戦争広告代理店の爛れた「成功」は、評価の光景を一変させた。アイドルは、広告代理店によって「プロデュース」されるものとなった。地道に努力した者の多くは振り向きもされない。金と権力による破廉恥な恫喝が詐欺師や窃盗犯を真面目な努力者のように見せる。しかも押しつけがましさを感じさせないような巧妙さがある。極悪人を正義の味方や「圧政の善良な犠牲者」に仕立てるのはお手のもの。しかし偽造には違いない。

 「いい授業」を構想することは、「いい人間」を定義するのと同じ危険を伴う。近くは「管理主義教育」で遠くは天皇制教育やヒトラー青年団による洗脳で散々懲りた筈ではないのか。
 「いい・・・」は「良くない・・・」の排除から始まる。授業に力を入れるのではなく、成績が悪く教室の秩序を乱す生徒を先ず排除するのである。マッカーシーの非米活動委員会がいい例だ。手っ取り早いく分かりやすいからだ。「良くない・・・」の排除は、次第に同調しない者への非難・攻撃を含むようになる。遂には集団の最も優れた知性を追放して、大きな損害をもたらす。

 
 人の生涯や、時代の趨勢を左右しかねない問題が、拙速では取り返しがつかない。判断を誤った場合、頼りになるのは反対派=「良くない」連中である。彼らを排除してはならない。「手っ取り早い」判断が重宝され始めたのは、株式市場が短期的利益を求めて博打化するようになってからである。
 偶に「良くない・・・」の中から「いい・・・」が発見されても、「いい」が多様になることはない。「良くない」部分を徹底的に取り去ることが「いい」ものになる条件だからだ。「いい」の定義は、「いい」と「良くない」の両極がが際立つて来る。「良くない」少年たちは凝縮されて、底辺校が自然現象のように形成される。
 効率や生産性の観点から「何の取り柄もない、危険」な存在と見做された者たちが濃縮される。これは隔離である。

 様々な哲学や思想・教育方法を持った教師が、民主的自治集団を形成する。それが学校と教師が、社会全体を代表して少年たちの教育を条件である。そこに現れるのは、特定のmethodに基づく「いい授業」ではない。平凡で多様な授業である。

追記 はじめ東大卒業生に特権はなかった。←クリック  だから慶應義塾、東京商業学校など実学的教育を施す学校に学生が集まった。国会開設に備え人材を育成する
東京専門学校も、伊藤博文内閣を悩ませた。
 伊藤は、手っ取り早く東大に特権を与え他校を出し抜くことにした。工部省工部大学校、司法省法学校を東京大学に吸収して東京帝国大学と改称。法学部を卒業すれば、高等試験を受けずに高級官吏になり、医学部を卒業すれば無試験で医者になり、教員免状も無試験。この大学を卒業しさえすれば、進路はひらけ、俸給も飛び抜けて高くなるよう仕組んだ。この特権を恥じることもなく大学「紛争」を収束させた東大「確認書」を僕は全く評価しない。
 三菱などの財閥も、官営工場の破格の好条件による払い下げなど、特権に塗れて成立している。日本の近代化を振り返ると、我々は特権を非難する振りをしながら、実はお上によるブランドに依存・期待しているのである。天皇制がなくならないわけだ。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...