今日もはんてんのふところに『貧乏物語』を入れていった |
いくつか抜き書きをした。敗戦直後の日本を、理解するに利する筈である。目の位置が適確である。何が青年を解放して自由な自立した個人にするのか、我々は教室で何をすべきなのか諭している。
今日は父や兄の登といっしょに早出しの供出用の甘藷を掘ったあと、五畝ほど早稲の陸稲を刈る。一日体をかがめていたせいか、腰のあたりがつれるように痛い。畑仕事に出るようになってまだいくらもたたないのに、手にはもうマメが三つもできた。 おれはできればもうしばらく気持ちが落ち着くまで休んでいたいと思っていたが、みんなが忙しそうにしているのを見ると、そうもしていられない。それにうちは気ままにただ食いしていられるほど裕福な農家ではない。ひとりこ日数がふえればその分みんなで稼ぎ出さなくてはならず、病気でもたいかぎり、そういつまでも大の男がごろごろしているわけにはいかないのだ。 9.24
庭の菊が咲きはじめた。陽だまりのl本立ちのほうはもう開きはじまったのもある。だがおれは菊はもう見るのもいやだ。以前はちょっとにがみをふくんだその香りもすがたも好きだったが、いまは反射的に天皇の紋章を思い出して、見ただけで気がたってくる。 今日も一日田圃で稲こき。兄の登が午後から消防団の用事で出かけ、妹のみつえも留守だったのでとても忙しかった。脱穀した籾を運び藁を片付けてから、父と二人でまっ暗になるまでみようを積んだ。10.22
今日、昼めしのあと縁側で一服していたら、屑屋の金さんが空の南京袋をぶら下げてやってきた。金さんと会うのは復員してからはじめてだが、長いざんばら髪の頭といい、額のはった赤ら顔といい、五年前とすこしも変わっていない。といっても、前にも面とむかって口をきいたことはなかったが、おれのことはよく憶えていて、そばにいた母に、 「コレ、カイクンイッタポーヤネ、プチカエッタ、ソレ、ヨカッタ、ヨカッタ、オメテトウ・・・」 と言って、しげしげとおれの顔をみて笑った。ふーっと眼もとがすずむような気持ちのいい笑いだった。おれも魅きこまれるように笑って頭を下げたが、復員してこころから「おめでとう」と言ってくれたのはこの金さん一人だけかもしれない。むろん自分ではすこしもおめでたいとは思っていないが、気にしてくれていたのかと思うと、うれしかった。母は金さんに、「折角きてくれたけど、あいにく今日は出すような物がなくて悪いなあーい」と言いながら、代わりに戸間口に干してあったさつま芋を新聞紙につつんでやった。 母の話では、金さんはこの暮れに朝鮮に帰るのだそうだ。12のとき故郷の慶尚道を出てから28年も日本の各地を転々と働いて歩いたという。その間とりわけ朝鮮人ということで差別され、ずいぶんいやなことやつらい目にもあったと思うが、こんどは天下晴れて、独立した故里の朝鮮に帰ることができるのだ。どんなにかうれしいだろう。人ごとながらなにかこっちまで救われるような話だ。 10.26
二人は山や畑へ行くにもいつもいっしょだったので、村の大人たちになにかというと「おしどりの辰」といって冷やかされていたのを憶えている。 結婚したあくる年長男の勉が生まれたが、辰平はそれから二年ほどして二度目の召集をくったらしい。そのときはおれも海軍に入っていて知らなかったが、なんでもそのまま支那の山西省あたりにもっていかれてそこで戦死したらしい。二番目のとも子は彼の出征後に生まれたという。長男の勉は父の戦死をうすうす知っているようだったが、まだ二つになったばかりのとも子は、祭壇にのせてある遺骨箱を珍しそうに指さして、「これなぁに、これなぁーに・・・」といいながら、さかんに幸子のたもとを引っぼっていた。見ていて胸がつまった。 夜、種屋の賄いの手伝いに行っていて帰ってきた母の話によると、あのあと身内衆が遺骨箱をあけてみたが、中には「陸軍歩兵伍長坂田辰平君の霊」と書いた短冊型の美濃紙が一枚入っていただけだったそうだ。それを見て母親の志乃は遺骨箱を胸にだきしめながら、「あーあ・・・辰がこんなに軽くなっちゃって、十七貫もあったお前がよお。一升桝の上へのっかって、四斗俵でもらくらく担ぎあげたくれえ、がんこで力のあったお前がこんな紙っペら一枚になっちやってよお。あの辰がよお・・・」と泣き叫んだという。 10.31
おれはいまからでも飛んでいって宮城を焼きはらってやりたい。あの濠の松に天皇をさかさにぶら下げて、おれたちが艦内でやられたように、樫の棍棒で滅茶苦茶に殴ってやりたい。いや、それでも足りない。できることなら、天皇をかつての海戦の場所に引っぼっていって、海底に引きずりおろして、そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸をその眼にみせてやりたい。これがアナタの命令ではじめた戦争の結末です。こうして何十万ものアナタの兵士がアナタのためだと信じて死んでいったのです。 そう言って、あのてかてかの七三の長髪をつかんで海底の岩床に頭をごんごんつきあててやりたい・・・。
ああ、なんだか気が狂いそうだ。血がひいたように頭の中がすーっと冷たくなる。肩が、手が、足が、そして体じゅうがぶるぶる震えてくる。荒れすさんだ気持ちはどうしたらおさまるか、いっそひと思いになにもかもぶち壊してやりたい。10.17
三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ。
表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だなどと立派なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とはあきれてものも言えないらまったくよくもそんな恥知らずなことができたものだ.。むろんこれは氷山の一角かもしれない。首相の東条さえこうなのだから、ほかのお偉方もわかったものではない。天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑いたくもなる。 いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、上の者がこんなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに腹がたつ。と同時に、これまでそういう連中をえらい指導者としててんから信じきっていた自分がなんともやりきれない。 11.10
おれはこのごろ何かというと空をみる。空の晴れ具合や、雲の色や形から、ああこのすじ雲はソロモン海戦で砲座について「射ち方はじめ」の号令を待っていた時の沖合に流れていた実に似ているなあとか、このあやめ色に澄んだ空の色は、ブルネイ基地から出撃する時の空の色にそっくりだなあ、とかいうふうに思い出すのだ。 11.31
マッカーサー司令部が、また五十九名の職犯の逮捕命令を川した。そのなかには陸軍の畑俊六元帥、豊田副武海軍大将、皇族の梨本宮も入っている。梨本宮はむろん皇族でははじめてだが、おどろいたのは、梨本官がそれについて外人の記者に「自分は戦争とは何の関係もなかったし、政治問題について相談を受けたことはない」と語っていることだ。 梨本官はたしか陸軍出の元帥だったはずだが、そもそも「戦争とは何の関係もなかった」元帥が存在するだろうか。そこになんらかの関係があったからこそ、軍人の最高位である元帥にまでなったのではないのか。 12.4
朝から白菜の土よせをしたり、人参を掘ったり、一日山の畑ですごす。ときおり鍬の手を休めてぼんやりまわりの景色を眺める。山裾の雑木林はもうあらかた葉を落として、奥のほうまで明るく透けたように見える。その林のなかから目白や四十雀の鳴き声が聞こえてくる。富士も真っ白に雪をかぶって、冬の陽をやわらかく照りかえしている。山頂の大沢の深いえぐれ目も雪に埋まってもう見えない。 取り入れをすませたあとの田圃は妙に寒々しい。黒い地肌をむき出しにして、点々とみようが見え、ところどころに役目のすんだ案山子が忘れられたように斜めにかしいで立っている。その田圃の広がりの向こうには、遠く赤石の山々が、かっきりと空をくぎって紫の峰をつらねている。 -鍬を持ちかえながらおれは体をこごめる。「国破れて山河あり。城春にして草木深し・・・」。うろ憶えの杜甫の詩句の断片が掘り起こしたやわらかな土の上をひらひらとよぎっていく。昼すぎ、人参のあと地にそら豆を蒔いているところへ邦夫の父の源蔵がやってきた。 12.11
昼まえ、父と牛小屋の下肥出しをする。出した下肥はモッコで田圃に運ぶ。牛小屋の下肥は半月に一ペんくらいずつ出しているが、その間に乾草も藁も糞と小便で踏み固められて石のように固くなっているから、引き出すのも容易ではない。万能でこぼから順に外につき出していくのだが、今日もそのとばっちりで股引もシャツも糞だらけになってしまった。それでも新しく敷いてやった乾草の上にすわって気持ちよさそうに眼を細くしている牛をみると、こっちもなんとなくせいせいした気持ちになって、「どうだい、さっぱりしたろう と声をかけてみたくなる。 12.14
新聞によると、近衛公は自殺の前日親しい者に「陛下に責任が及べば生きておれない」と洩らしていたそうだが、・・・いってみれば彼の自殺は天皇の身代わりとも受けとれる。・・・近衛公についてはおれにはべつの感懐がある。 これは前に誠一から聞いた話だが、近衛公は戦争中はずっと軽井沢でお妾さんといっしょに暮らしていたという。なんでもそこに大きな別荘をもっていたらしい。このことは新聞にものっていたそうだが、前線では玉砕が相つぎ、特攻機が次々に突っこんでいるというときに、また銃後は銃後で烈しい空襲にさらされ死者が続出しているというときに、よくもそんな太平楽な生活ができたものだと思う。彼はかつての首相であり、しかも在任中は国民にむかって、「大政翼賛」だの、「国民精神総動員」だの、「堅忍持久」だのと盛んに御託宣を垂れていたではないか。それを、当の御本人は安全な山あいの別荘に戦火をさけて女道楽にうつつをぬかしていたという。まったくとんだ大政翼賛会もあったものだ。
考えてみると、偉いと言われている人はどこんなものだったのかもしれない。言うことと、やることのちがいに矛盾を感じないからこそ、かえって平気で人の上に立って立派なことを言っていられるのかもしれない。 身近な例では、おれの乗っていた武蔵の士官たちもそうだった。武蔵が撃沈されたのち、おれたちは一カ月近くマニラ湾のコレヒドール島に缶詰め(武蔵の沈没が部外に洩れるのを恐れたための処置)になっていたが、そのとき副長をはじめ兵学校出の士官たちは、いつのまにかこつそり逃げるようにして全員飛行機で内地に帰ってしまった。あとに残った士官といえば、下級の特務士官二人と兵曹長が五人だけだった。 12.18
父と登の三人で田圃と山の畑の麦さくを切る。麦はもう一寸ほどのびている。黄緑のいかにもやわらかそうな芽だちだが、これで厳しい冬の寒さに耐えていくのだと思うと、こっちまでなにか身のひきしまる思いがする。えんどうにしろ、そら豆にしろ、冬越しの作物には、どこか人間の心を打つものがある。 12.25
富士山へ薪切りにいく。牛の手綱は往復兄の登が引いてくれるので、おれは道中馬力のあとにくっついて『近世経済思想史論』を読む。気が乗っているから歩き読みも苦にならない。それに相手が牛で歩くのもゆっくりだからちょうどよい。これが脚の速い馬だったらとてもこんなわけにはいくまい。 帰り、方々餅搗きの音が聞こえていたが、帰ってみるとうちでも父と母が土間に臼をすえて餅を鴻いていた。あと一臼残っていたので、それは登とおれが交代で搗いた。 12.28
富士山に薪の切り出しにいく。いつものように見返しの坂を上りきったあたりで夜が明けた。明けがたの寒さはきつい。底冷えのする大気はピーンと堪りつめて、薬品のように骨のず小まで刺すようだ。富士は蒼味がちの空を背景に、まだとろとろとまどろんでいる。が、やがてその雪の頃きにだいだい色の曙光がななめに射しはじめる。すると、ひかりとかげにあざなわれた稜線がくっきりと浮きだしてくる。朝の山の変化は早い。陽がのぼるにつれて、頂きからしだいにやわらかく色づいて、いっときもすると、白銀の山肌は微燻をおびたように赤く染まる。おれはそんな富士を正面にみながら、馬力のあとについててくてくと冬枯れの裾野の遣をのぼっていく・・・。
今日もはんてんのふところに『貧乏物語』を入れていったが、往きも帰りも風と寒さで一頁も読めなかった。ナタを使ったせいか、手の甲も一日でひびだらけになってしまった。 1.7
母と一日田圃の麦踏みをした。麦踏みは見た目には単調な仕事のようだが、母に言わせると、これにもコツがあるらしい。一歩ごとに足の裏の幅だけを前におくりながら、その度にひょいと曲げて、いっときその膝に体の重心をかけてやる。そうすれば霜柱でゆるんでいる根もとがかたくしまって麦のためにいいのだそうだ。年寄りたちがよく「麦踏みは足でなく腰で踏め」といっているのはそれを言うのだろう。なんでもなさそうな小さな百姓仕事にもそれぞれ奥義があるものだ、ということをあらためて感じさせられた。
・・・いかにも寒らしい芯まで冷えこむ夜だ。せどの窓を通して、先ぼそりの富士の山稜が夜空をぬいて墨絵のようにくろぐろと聳えて見える。日中は白銀一色の山嶺も星明かりにかすんでわずかに白い。その上はこぼれ落ちるような満天の星だ。一粒一粒がぬれたように冴えてむらなく光っている。ツラギ夜襲戦のあの晩もちょうど今夜のようなきれいな星空で、艦が転舵するたびに頭上の星座も一枚の銀板のように激しく揺れ動いたものだった。あのときは艦橋の見張台で同年兵の松田と桑木の二人が死んだが、こんな星の夜は死んだ仲間のことがしきりと想われてならない。1.12 つづく
追記 当時軍事費は国家予算の7~8割に達し、そのうち三菱や日立など民間企業に支払われた割合は「どんなに少なく見積もっても七割以下になることはない」(『昭和財政史4巻 臨時軍事費』1955 大蔵省)
三菱が東条に莫大な献金をしたのは、このためである。
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