騙した天皇の戦争責任と欺された若者の決意 2

頭から「赤」ときめこんで、わけもなく恐れながら
そのくせひどく馬鹿にしていた。
無知ほど恐ろしいことはない。
 河上肇博士の死去を昨日の新聞で知らされた。行年六十八歳。死因は老衰と栄養失調だというが、栄養失調という言葉に思わず愕然とした。なんとも痛ましい。きっと食べ物に不自由してひもじい思いをかこっていたのにちがいない。・・・おれが博士の書いた本を読んでいたころはおそらく死の床について重体だったのだろう。そのことを思うとすまなさに胸がつまる。気の毒で言葉もない。もしそういう事情を知っていたら、米でも野菜でもどんなことをしてでも届けてやったのにと思う。
 それにしても安らかに天寿を全うしたというならとにかく、こんな偉大な学者を栄養失調などで死なせてしまったということは、考えてみれば日本人全体の恥だとおれは思う。前に雑誌で三木清と戸坂潤という二人の偉い哲学者が敗戦になってから獄中で悶死したということを読んだ記憶があるが、河上肇博士の場合をふくめて、これらの学者から直接教えをうけた者や、その事実を知っていた人たちは周りにたくさんいたはずだと思う。いったいその人たちは、なにをしていたのか。どうして救いの手をさしのべてやれなかったのか。みんながその気になれば助けることができたのではないか。
  ・・・おれは今まで社会の仕組みについてはなにも知らなかった。全くのあきめくらだった。それが河上肇博士の『近世経済思想史論』と『貧乏物語』の著書に接したことによって、曲がりなりにも少しずつわかりかけてきた。八年間通った小学校はむろんのこと、これまで誰も教えてくれなかったことを、おれはこのたった二冊の本によって教えられた。そしてそこに書いてあることも、日常の生活の体験につき合わせてみれば、なるほどと肯くことばかりだった。ふわふわした単なる理論ではなく、あくまで現実に光をあてて、そこから問題をするどく説きおこしていた。どれ一つとっても、そこにはおれのような下積みの人間に訴えかける強靭な説得力があった。
 河上博士はとにかくおれに社会を見る眼を最初にひらいてくれた大事な恩人だ。本当の先生だ。それだけにいくら感謝してもしたりない気がする。博士は共産主義者で獄にも長いこと入れられたことがあるそうだが、おれは今まで自分では何ひとつ、それこそ何ひとつわかっていなかったくせに、まわりの声に付和雷同して、こういう人たちを頭から「赤」だの「赤色分子」だのときめこんで、わけもなく恐れながらそのくせ心のどこかでひどく馬鹿にしていた。まったく無知ほど恐ろしいことはない。おれは河上博士の著書によってはじめてそのことを思い知らされたような気がする。 2.1

 昼まえ炭出しをやってから、あとちょうど一窯ぶん薪が残っていたのでそれを窯に入れて口焚きをした。今年はこの一窯で終わりらしい。出した炭はその場で切って俵につめる。一日富士おろしが吹きつけて山の尾根は寒かった。

 マッカーサー司令部の発表によると、皇室の財産は、所蔵の美術晶、宝石、金銀の塊は別にしても、15億9000万円もあるのだという。これにはおれも心底びっくりした。小学校3年の時だったかに、一億という金は一円札にして積み重ねていくと、富士山の高さの二倍近くにもなるという話を先生から聞いたことがあるが、15億などという金はとても想像できない。あまりに彪大で気が遠くなるほどだ。だが、おれが驚いたのは、その金嵩ではない。その彪大な財産の所有者が天皇であったということだ。
 おれはこれまで天皇を金品に結びつけて考えたことは一度もなかった。金などを云々するのはわれわれ世俗のことで、天皇はそんなことにはまったく無縁な超越的な存在だと周っていた。天皇を崇高な「現人神」と信じていたのも一つはそのためだった。それがどうだろう。ひと皮はいでみればこのありさまだ。いったい天皇はこんな大金をどこでどのようにして手に入れたのか。・・・ 
ところが天皇は現に何も働いてないし、これまで金のたまりそうな仕事をやっていたという話も聞いたことがない。おれたちが知っているのは、なんでも一周するのに半日もかかるという広大な屋敷の中に住んでいるということだけだ。それなのにどうしてこんな彪大な財産を所有することができたのか。しかも明治維新までは「禁裏十万石」とも言われていたように徳川幕府から小藩なみの扶持をもらって質素に暮らしていたという天皇家だ。そこへまさかこんな財産がひとりでに天から降ってきたわけでも地面から湧いてきたわけでもあるまい。
 とすれば、誰かがそれを天皇に提供したものとみなくてはならない。むろんその財産の中には個人持ちのものもあったかもしれないが、大部分は国のものだったろうし、その誰かはおそらく国の財産を自由にとりしきることのできる政府のエライ様たちだったのだろう。
 富士山の麓には天皇所有の 「御料林」というのがある。 おれは薪切りの往き帰りよくそこを通るので見て知っているが、木の育ちもよく、手入れのいきとどいたたいへんな美林である。しかもそれが何十町歩という広さにわたっている。あれなどもそんなふうにして天皇に贈られたものにちがいない。しかし国有財産といえば、いうまでもなく国民の財産である。それをどうして国民になんの断りもなく与えたのか。またどうしてそんな不当なことがまかり通っていたのか。・・・だが、こういうふうにつぎつぎに天皇の正体があばかれてくると、そんなこととは露知らず、ただひたすら天皇に帰一しょうとしていた白分がますますやりきれなくなる。できることなら自分のそういう忌々しい過去をきれいに抹殺してしまいたくなる。
が、しかしよくよく考えてみれば、天皇だけを責めさえすればそれですべてが片付く問題ではないように思う。なぜならそういう天皇を知らずに信じていたのは、ほかの誰でもない、このおれ自身なのだから。知らなかったら知らなかったことに、欺されていたら欺されていたことに、つまりおのれ日身の無知にたいする責任がおれにあるのではないのか。なるほどすべてをそっくり天皇のせいや世の中のせいにしてしまえば都合がいいかもしれないが、それではおれ自身の実体は宙に浮いてしまう。
おれはおれでなくなってしまう。たとえいくら忌わしい過去であっても、それをぬきにして今のおれは存在しないのだから……。とにかく白分のことを棚にあげておいては駄目だ。おれはもっと自分の内部にずかずかと踏みこんでいってみる必要がある。さしあたって問題なのは、天皇よりむしろおれ白身のほうかもしれない。   2.2

 一日らくだ山で薪の落とし枝を集めてもやづくりをした。もやはナタで切った枝を足もとにひと抱えぐらいの高さに積み重ねてから、二重にまきつけた竹蔓を足の裏で叩いて締めながら一把一把たばねていくのだが、見ていると父も登もナタの手さばきは見事なものだ。ナタが指先に吸いついて刃先がひらひら躍っている感じだ。それだけに仕事のはかもいく。こっちがやっと一把をたばねおわるころは、二人は三把目をたま切りはじめている。やはりみじんもごまかしのきかない年季のちがいだと思う。
 炭窯の火勢は昼すぎからめっきり落ちて煙も水色に変わってきた。この分ではあすの朝には窯口がふさげるかもしれない。  2.8

 「天皇に欺されたというが、欺された君のほうに問題はなかったのか」、これは暮れに郁男にいわれたことだが、あれからおれは折ふしこのことを考えつめてきた。膠のように頭のひだにくらいついて離れなかったのである。今日も一人長屋の中で炭俵を編みながらそのことを考えてみたが、ずっと縺れにもつれていた問題の糸口をやっと掴んだような気がする。これまで自分のことは不問にして天皇だけを一方的に弾劾してきたのは誤りだったということに思いあたったのだ。
 おれは天皇に裏切られた。欺された。しかし欺されたおれのほうにも、たしかに欺されるだけの弱点があったのだと思う。・・・
 「万世一系」「天皇御親政」「大御心」「現御神」「皇恩無窮」「忠君愛国」等々。そして、そこから天皇のために命を捧げるのが「臣民」の最高の遺徳だという天皇帰一の精神が培われていったわけだが、実はここにかくれた落とし穴があったのだ。
 おれは教えられることをそのまま頭から鵜呑みにして、それをまたそっくり自分の考えだと思いこんでいた。そしてそれをいささかも疑ってみようともしなかった。つまり、なにもかも出来合いのあてがいぶちで、おれは勝手に自分のなかに自分の寸法にあった天島像をつくりあげていたのだ。現実の天皇とは似ても似つかないおれの理想の天皇を・・・。 だから天皇に裏切られたのは、まさに天皇をそのように信じていた自分白身にたいしてなのだ。現実の天皇ではなく、おれが勝手に内部にあたためていた虚像の天皇に裏切られたのだ。言ってみれば、おれがおれ自身を裏切っていたのだ。自分で自分を欺していたのだ。  2.10

  天皇が神奈川県下を視察したそうだが、昨日は久里浜の引揚援護所に行って、そこのサイパンからの復員兵とこんな話をかわしたという。
 天皇「戦争は激しかったかね」
 兵士「ハイ、激しくありました」
 天皇「ほんとうにしっかりやってくれて御苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間として立派な道に進むのだね」
 おれはむろん天皇がとぼけてこんなことを言っているとは思わない。おそらく真からそう思って言ったのだろう。それだけに心ない無責任さはもはや絶望的だ。  2.22

  ・・・そこへいくと、マニラの女性はしっかりしていた。スカートの内にピストルをひそませて日本兵を狙っていたものだ。レイテ沖海戦後、おれたちは内地行きの便船を待って、半月ほどマニラ市内にとどまっていたが、その時も、日中でも物騒で一人歩きはできないほどだった。通りがかりにさりげなく寄ってきてズドンとやるからだ。
 武蔵の隊にはなかったが、ほかの部隊で、そういう女性に何人かやられたのをおれは知っている。売春婦に化けた女学生が兵隊を部屋に誘いいれておいて殺すという話も聞いた。しかもそれは欲得からではなく「抗日」とフィリピンの独立のためだったという。
 おれは当時はそういう女をひどく憎んだものだが、今になってみるとその志の高さにうたれる。立派だったと思う。むろんそれはフィリピン女性のうちでもごく僅かだったにちがいないが、おれはマニラにいる間、フィリピン女性が日本兵といっしょにくっついて歩いている姿を一度も見かけたことはなかった。3.19

 いつだったか淑子のところで読んだ本だか雑誌に、「いつの時代でも、その国民はその国民にふさわしい政府をもつ」とかいうことが書いてあったのを憶えているが、この言葉はそのまま天皇と国民の関係についても言えそうだ。国民の大半は、今も天皇のただ食いを当然のこととして黙認しているが、それを黙認して、天皇をありがたがっているかぎリ、天皇は天皇の座に居直りつづけるだろう。
それを言えば、ただちにその一人であるおれ自身にもはねかえってくるので言うのはつらいが、まさにこの国民にして、この君主ありだ。天皇の戦争責任がいまだに未決のままズルズルベッタリになっているのも、その買任の一半は国民の側にもあるのだと思う。
 夜十二時近くまでかかって読みかけの徳永直の短篇集を読了した。どの作品もそれぞれよかったが、とくに『他人の中』と『最初の記憶』に強い感銘をうけた。労働を主題にしたこんな感動的な小説を読んだのははじめてだ。『最初の記憶』のしまいのほうで、「私」と弟が夜明けの篠つく雨の坂で積荷に足をとられた馬の「赤」を退いたてる場面には心を打たれ、思わず落涙した。  4.12

  手記は、天皇への手紙で終わる。

 四月二十日
・・・
 役場から帰ってすぐ天皇宛ての手紙を書いた。といっても内容は手紙というより、海軍にいる間、天皇から受けたことになっている金品の明細書のようなものだ。主なものは昨日のうちに書き出しておいたが、あとからまたいろいろ思い出したり、計算に手間どったりして、結局、昼近くまでかかってしまった。昼すぎそれを郵便局から出す。金は為替にして同封した。端数を切り上げて四千二百八十二円。金のほうの工面はきのう父に、これだけは上京してから働いて返すという条件で、四千円出してもらったので、それに自分の持ち金をたしまってまかなった。そのため手もとにはもう百七十二円しか残っていないが、出がけにはまた汽車賃と当座の小遣いぐらいはもらえるだろうから、なんとかなるだろう。なくなったらその時はその時だ。とにかくこれでいくらか気持ちがさっぱりした。
 内容は次のように認めた。
「私は昭和16年5月1日、志願し水兵としてアナタの海軍に入りました。兵籍番号は『横志水三七重一四六』です。以来、横須賀海兵団の新兵教育と、海軍砲術学校普通科練習生の7カ月の陸上勤務を除いて、あとはアナタの降伏命令がでた昭和20年8月15日まで艦隊勤務についていましたが、8月30日、アナタの命により復員し、現在は百姓をしています。
 私の海軍生活は4年3ヶ月と29日ですが、そのあいだ私は軍人勅諭の精神を休し、忠実に兵士の本分を全うしてきました。戦場でもアナタのために一心に戦ってきたつもりです。それだけに降伏後のアナタには絶望しました。アナタの何もかもが信じられなくなりました。そこでアナタの兵士だったこれまでのつながりを断ちきるために、服役中アナタから受けた金晶をお返ししたいと思います。まず俸給ですが、私がアナタから頂いた俸給は次のようになっています。
  四等水兵-六円二〇銭(月額)~四月=二四円八〇銭
  三等水兵-一一円六〇銭~十五月=一七四円
  二等水兵-一三円一〇銭~十二月=l五七円二〇銭(十七年十一月二日上等水兵と改称)
  水兵長 -一六円~十二月=一九二円
  二等兵曹-二一円六〇銭~十月=二一六円
    ・・・
以下、詳細なリストがつづく。そのなかには食費までわるが計算されている
    ・・・
      毛布 二 (二枚とも中古)
  衣嚢 一

 前記の沈めてしまった被服はすべてアナタからの貸与品でしたので、借料として300円、後記の再度貸与された被服は、復員の際、艦長令達によりいただいてきたので、この分は500円に計算しておきます。なおそのとき離現役一時手当金として850円をいただきました。
 最後にこれは一番気になっていたことですが、私はアナタから「御下賜品」として左記の品をいただきました。
 昭和17年l月5日 戦艦長門にて恩賜の煙草一箱
 昭和17年8月16日 駆逐艦五月雨にて恩賜の煙草一箱
 昭和18年6月24日 戦艦武蔵にて恩賜の煙草一箱と清酒(二合入り)一本
 たとえ相手が誰であっても、他人(ひと)からの贈りものを金で見積もる失礼は重々承知のうえで、これについてはあえて100円を計算にくわえました。
 以上が、私がアナタの海軍に服役中、アナタから受けた金品のすべてです。総額4,281円50銭になりますので、端数を切りあげて4282円をここにお返しいたします。お受け取りください。
私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。 完


 「おれは今まで社会の仕組みについてはなにも知らなかった。全くのあきめくらだった。それが河上肇博士の『近世経済思想史論』と『貧乏物語』の著書に接したことによって、曲がりなりにも少しずつわかりかけてきた」の件は、我々が青年を相手に授業するのに何が肝要なのかを諭していると思う。やはり「社会科」は、経済学と歴史をしっかりやらなければならないのだ。アクチブラーニングやシチズンシップ教育など「新式」の見栄えに振り回されるのは、愚かだと思う。
   農作業が皇国史観に囚われていた若者を解放してゆく過程をこの手記は、見事に描いている。農作業に慣れコツを掴むにつれ、渡辺清の自然描写も人間描写も的確で豊かさをましてゆく。初めは、文字が上滑りして頭に入らないが、体を通して農業を理解するうちに、書物の文字が浮き上がってくる。そうすると「馬力のあとにくっついて『近世経済思想史論』を読む。気が乗っているから歩き読みも苦にならな」くなる。
 僕は、メキシコ革命の天才的農民軍指導者パンチョ・ビリャが「真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ」と言ったことを思い出した。ビリャが考えていたのは、労働する市民と共に軍隊を廃止することであり、軍隊を無くすから立派な市民が育つということであった。
 農民渡辺清こそが立派な市民であったことは、その後の彼の生き様にも現れている。立派な市民は、怒りの対象を弱者に向けたり忘れはしないものである。

追記 マッカーサー司令部の発表によると、皇室の財産は、所蔵の美術晶、宝石、金銀の塊は別にしても、15億9000万円もあるのだという。これにはおれも心底びっくりした」と渡辺清が書いているが、昭和20年度の国家歳出は、215億円である。この中には、あらゆる国家の王家がしたような、海外(その殆どは、スイスである、預金者の秘密を守ることを絶対的義務としている)に秘匿した膨大な資産は含まれていない。


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