戦争に協力した責任は、今後いかなる戦争にも協力しないことによってしか償うことはできない

 高校三年の秋になると、いつも決まったように物騒な相談が持ち込まれたものだ。
 「卒業式で、○先生と△先生を殴りたいんだ。卒業は取り消されるかな。取り消されたって良いんだ、仕返ししたくてこの頃は寝られない。最低だったこの学校」体罰や屈辱的暴言を教師から受け続けて、それがこの時期に発酵し始めるらしい。たっぷり聞いてから、「証人はいるか。教員の体罰も暴言も、処罰の対象だ。先ず授業中に面と向かって謝罪を要求した方がいい」そう言うと決まったようにこう返事する。
  「俺、そういうの苦手なんだ、一発でけりを付けたいんだ」
 そう言っていた生徒が、卒業間近になると、
 「この学校も、なかなか良いとこあったよ」などと言い始めるのだ、僕の知る限り一人の例外もない。そして卒業式当日には泣きべそをかきそうになる。
 日本の卒業「式」には、怒りや恨みを「浄化」する妙な機能がある。だからいつまで経っても体罰や暴言がなくならないのだ。喜怒哀楽は四つ揃って、人と社会をまともにする。どれ一つ欠けても、人としての調和と均衡は保てない。
 学校は「怒」を抑圧して「哀」を孤立させ易い。忘れてはならないことは何時までも忘れず、深く執念する、それが美徳ではないか。

 「夜、炬燵で本を読んでいると、ひょっこり邦夫が訪ねてきた。・・・行方をくらましているという話を聞いてからずっと気にしていたので、顔をみてホッとした。・・・
「いったいどこへ行ってたんだい~ 半月近くも」 と切りだすと、邦夫は火鉢の火に手をかざしながら、
「なに、ちょっとお礼参りにな・・・」と言って口もとに例の投げやりなうす笑いをうかべた。″お礼参り″と言われても、おれにはとっさに何のことかわからなかったが、聞いてみると、軍隊にいる間理由もなくいじめつけたり、殴ったりしたやつのうちを一軒一軒まわり歩いて、あのときのお礼だといって、片っぱしから気のすむほど殴り倒してきたという。西は山口県の岩国から北は青森まで足をのばしたそうだが、その住所は復員するときにちゃんと控えておいて、
  そのうえ乗車用の復員証明書も余分に何枚か手にいれておいたというから″お礼参り″はかねてからの計画だったらしい。
 邦夫は煙草に火をつけながら、
「こっちゃよ、懐かしくて訪ねてきたっていうようなこと言ってな、一人一人外へ誘い出してこてんぱんにのしてやったんだ。どいつもこいつも軍隊じゃでっかい面こいていやがったけど、裟婆じゃみんなホトケさんみてえにおとなしくおさまってたぜ。おれたちが鬼ヒゲといっていた百里空の先任班長の野郎は、信州の岡谷だけんど、二週間前式をあげたところだといって新婚ホヤホヤだった。こいつは三度のめしを二度にしても、おれたちを殴るほうが好きだっていうやつでな、訪ねて行ったのは夕方で、ちょうど女と二人だけだったが、こいつは家ン中でのしてやった。いきなり鼻っ柱にメリケンをかっ喰らわしてな、そうしたら女がギャアギャア騒ぎだしやがったから、ついでに女も二つ三つぶん殴ってやった。まあ亭主への恨みだからしようがねえや。中でもザマなかったのは岩空の分隊士だ。こりゃ兵学校出の中尉でな、気狂いみてえな張りきり野郎で、やつに殴られたあと病院に担ぎこまれて四日目に死んじまった同年兵もいるし、おれだって前歯を二本も折られているんだ。こいつはうまいこと阿武隈川の河原におびき出してぶん殴ってやったけど、野郎ときたら河原に手をついてペコペコ頭をさげて泣き言こきやがるんだ。・・・あのときは立場上しょうがなかったんだ、許してくれ、この通りあやまるから許してくれってな・・・こっちゃわざわざ福島くんだりまで、そんな泣き言を聞きにきたんじゃねえやって言って、同年兵の分まで半殺しになるほどぶん殴って血だらけに踏みつぶしてひき蛙のように河原にのばしてやった」
 と言って、やけに指の骨をポキポキ鳴らしてみせた。これは昂奮したときの邦夫の癖だ。
 彼の予定では、″お礼参り″の相手は七人いたそうだが、そのうち三人は空襲で焼けだされて行ってもそこに家がなかったり、外へ働きに出てうちにいなかったりして、つかまえられたのは四人だけだったそうだ。
 「でもあれだな、これでいくらか恨みは晴らせたんだけんど、気持ちはあんまりさっぱりしねえもんだな。なんだかこう、変にうすら淋しいような気がしちゃってよ、復讐なんていうのはもともとこんなもんかなァ・・・」
 邦夫はそう言って、みつえが運んできた濁酒をたてつづけに飲んでいた。それにしても半月間よくも回ったものだ。その執念には感心した。おれにも邦夫のように″お礼参り″をしてやりたいやつは、ざっと思いだしただけでも五、六人はいるが、偶然そいつに会ったというならとにかく、こちらからわざわざ出かけていくだけの気持ちはない。恨みがうすらいだというのではなく、そんなやつの顔はもう二度と見たくないのだ。
 邦夫は一時間ほどして、「・・・約束があるから」と言って、あわてて帰っていった。・・・

 『近世経済思想史論』を読む。基本的な知識がないので、読みながら自己流に解釈して、責の意味をとりちがえているところもあるかもしれないが、だんだん興味が湧いてきて、活字が一字一字紙面から浮きあがってくるような感じだ。小説とはまた別の面白さがある」     『砕かれた神』  12.25


  「夕じゃに帰ったら、川端の火じろ端に宮前のほうの博労が二人お茶を飲んでいた。
 ・・・川端の種牛を見にきたらしくはじめは牛の値がどうのこうのいっていたが、そのうちに戦争の話になっていった。おれは上がり框に腰かけて夕じゃをよばれながら、反っ歯がじいさんにこんなことを自慢げに話しているのを聞いた。
上海から南京まで追撃していく間にそうだな、おりや二十人近くチャンコロをぶった斬ったかなあ。まあ大根を輪切りにするみてえなもんさ。それから徴発のたんびにクーニヤンとやったけや、よりどりみどりで女にゃ不自由しなかった。ほれーこの指輪も蘇州でクーニヤンがくれたやつさ。たいしたもんじゃないらしいけんど、そのときもこれ進上するから命だきゃ助けてくれって泣きつきやがったっけ。でもさ、生かしておくってえとあとがうるせえから、おりや、やったあとはその場で刀でバッサバッサ処分しちやった・・・まあ命さえあぶなくなきゃ、兵隊ってのは、してえ事ができて面白えしょうばいさ。それでお上から金ももらえるんだから、博労なんかよりもずっと割がいいぜ」
 おれはひどい奴だと思った。やったこともひどいが、それ以上におそろしいのは、そのことにたいしてこの男はすこしも罪の意識がないことだ。もし裟婆でそんなことをすれば、この男は極悪非道な殺人犯としてとうに自分の首が飛んでいるところだろう。ところが戦争ではそれがなんの罪にもならず、曹長にまで進級してこうしてそれを自慢しているのだ。たとえ敵国民にせよ、無辜の人間を殺したことには変わりはないのに・・・。
 反っ歯は南京でのことも話していたが1その残忍さにおれは耳をうたぐったほどだ。あらかじめ本人に穴を掘らせておいてその盛土の上で首をはねた。女や子どもたちを学校の運動場に並ばせておいて、機関銃で射殺したり、ある場合には川原に連れていって頭から石油をぶっかけて生きたまま焼き殺してしまったそうだ。反っ歯の話では、そんなふうにして殺された人の数は南京だけでも五、六万人はいただろうという。
 おれは支那のことは入団前も戦地から帰還してくる村の兵隊からいろいろ聞かされて、その様子はうすうす知っていたが、こんなにひどいとは思わなかった。せんだっての新聞にもこんどの戦争で支那に与えた被害は、死傷者や家財を失った者をふくめて二千万人にのぼるだろうと出ていたが、二千万といえば日本の総人口の尖に四分の一ではないか。
 しかも支那との戦争は、こちらから押しこんでいった一方的な侵略だった。この責任は重大である。
償っても償いきれるものではない。だが日本はいまだに支那にたいしてなんの謝罪もしていないし、天皇もそのことでひと言だって謝っていないのだ。博労の無反省な自慢話ももとはといえば、政府や天皇のそういう無責任さからきているのかもしれない。無責任な天皇をそれぞれがそれぞれの形で見習っている。「天皇がそうならおれだって」というなかば習性化された帰一現象・・・おれにはそうとしか思えない。
 しかしこれを個人的に考えれば、博労のいうクーニヤン殺しといい、南京での惨殺行為といい、他人事ではすまされない。・・・だがもしそこに居合わせたら、おれだって何をしでかしたかわからない。 ・・・
 いずれにしろ戦闘に参加した者は、その点を自分の問題として冷静に反省してみる必要があると思う。そこをいい加減にごまかしておくと、いつかまた同じことを繰り返すようなことになるかもしれない。・・・
 だが、かりにそんなことになっても、おれはこんどこそ戦争には絶対に参加しない。たとえ日本という国が亡びようとも、おれはそのために自分を犠牲にしたくない。おれはこんどの戦争には終始全面的に協力したが、戦争に協力した責任は、今後いかなる戦争の企てにも協力しないということによってしか償うことはできないのではないかとおれは思う」 『砕かれた神』3.11

 敗戦後、復員兵のこうした屈折した感情に真剣な考察をした文化人があるだろうか。志賀直哉の新聞投書『特攻隊再教育』以外に知らない。この件は改めて論じたい。

 学ぶべきは、近くて遠いところにある。戦後の「対策」ではなく、戦前・戦中・戦後を貫くの国民の姿勢や覚悟の問題なのだ。志は瞬間のペテンであろうか。日本ではそれが事態が変わるたびに、濁流に呑まれるように無節操に変わるのだ。歴史は自然災害ではない、個人の絶えざる決意の集積なのだ。高校生が「式」で怒りや恨みを「浄化」するような哀しいものであってはならない。

 1945年2月から3月にかけてのマニラ市街戦では、12 万人が死んだ。日本軍による市民老若男女虐殺が、BC級戦犯裁判記録にある、特に2月12日「ラ・サール学校の虐殺」は惨忍極まる。
 ある神父の証言である。「・・・子供たちの中には、二才か三才、またはそれ以下の幼児すらも混っていたが、それらの幼児たちも大人たちと同じ仕打ちに遭ったのである。刺突を終えると、日本軍は屍体を略奪し、階段の下に投げ込み、積み上げた。生きている人々の上に屍体が重なった。即死したものは多くはなかった。小数のものは一、二時間のうちに息が絶え、その残りの人々は出血が甚だしいため次第に衰弱していった。
 兵士たちは出てゆき、やがて建物の外で飲んだり騒いだりする声が聞こえた。午後の間、彼らはしばしばわれわれを監視するために入ってき、犠牲者の苦痛を見て笑ったり嘲ったりした」 

 「マニラの女性はしっかりしていた。スカートの内にピストルをひそませて日本兵を狙っていたものだ。レイテ沖海戦後、おれたちは内地行きの便船を待って、半月ほどマニラ市内にとどまっていたが、その時も、日中でも物騒で一人歩きはできないほどだった。通りがかりにさりげなく寄ってきてズドンとやるからだ。
 ・・・売春婦に化けた女学生が兵隊を部屋に誘いいれておいて殺すという話も聞いた。しかもそれは欲得からではなく「抗日」とフィリピンの独立のためだったという。
 おれは当時はそういう女をひどく憎んだものだが、今になってみるとその志の高さにうたれる。立派だったと思う。むろんそれはフィリピン女性のうちでもごく僅かだったにちがいないが、おれはマニラにいる間、フィリピン女性が日本兵といっしょにくっついて歩いている姿を一度も見かけたことはなかった」3.19
 渡部清の手記によって、我々は日本軍支配下フィリピンのレジスタンスの実相を知ることが出来る。こうした愛国的行動には、国境を越えて共感をかきたてるものがある。
 

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