『反乱するメキシコ』 2  cuba革命思想的淵源

承前
もし先生の教えをうけなかったならば、
私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないか。
 リードはビリャの印象的な言葉や行動を記録して、『反乱するメキシコ』に効果的に散りばめている。その中に、ラテンアメリカの革命に共通する精神を見ることが出来る。

 ビリャの説明によると士官は教育があるのだから、もっと善悪の判断がつくはずだと言う。しかし、政府軍の兵卒は釈放した。その理由は、彼らの大部分が徴兵されたのであり、当人たちは祖国のために戦っていると考えていたからであった。・・・
 「戦争法規」のことなど、聞いたこともなかったにもかかわらず、ビリャ軍はメキシコの軍隊のなかで唯一の効果的な野戦病院列車を備えていた。それは内部をエナメルで塗装した40台の有蓋貨車からなり、手術台と最新式の外科器具を備え、60人を超える医者と看護兵が乗り込んでいた。戦闘のあった日には、重傷者を満載した列車が、前線とパラール、ヒメネス、チワワの基地病院の間を往復した。彼は自分の部下とまったく同様に、政府軍負傷兵の面倒も看た。
補給列車の前には、もうひとつ別の列車が走った。この列車は、ドウランゴ市とトレオン市周辺一帯の餓死寸前の住民に施すため、2000袋の粉と、コーヒー、とうもろこし、砂糖、煙草などを積んでいた。

 兵卒たちは、ビリャの勇敢さ、粗野でぶっきらぼうなユーモア故に、彼を崇拝した。いつも使う赤い車掌車の中で、床や椅子やテーブルにくつろいでいる20人ほどのぼろ服の兵卒たちと、簡易ベッドに前かがみに坐りながら親しげに冗談をたたいている彼の姿をよく見かけた。
 部隊が乗車したり下車したりする際には、ビリヤ自らカラーのついていない古い汚れた服を着て現れ、ラバの腹を蹴とばしたり馬を押したりして、家畜用貨車に乗せたり降ろしたりした。
  
 ビリャが情熱を傾けたのは学校だった。民衆への土地分配と学校が、文明社会のあらゆる問題を解決するだろうと、信じていたも彼は学校にとりつかれていた。ビリャが言うのを私はよく聞いたものだ。「今朝、どこそこの街を通ったら子どもたちが大勢いた。あそこに学校を建てよう。」
 チワワ市の人口は4万たらずだった。そこヘビリャは、いろんな機会に、50以上の学校を建てた。
 チワワ州政府を掌握するとすぐさま、軍に発電所、市街鉄道、電話、水道、それにテラサス家の製粉所を運営させた。没収した大農園にも兵士を派遣して管理させた。屠殺場にも兵士を配置し、テラサス家の牛肉を売って政府の収入にした。1000人の兵士を警察官として市場に配し、死刑をもって盗みや軍隊への酒の販売を厳禁した。酔った兵士は射殺された。彼は兵士を使って醸造所さえも運営しようとしたが、専門のこうじ職人が見つからず、失敗した。「平時に兵士たちをうまく扱う唯一の方法は、働かせることだ。暇な兵隊は、いつも戦争のことばかり考える」とビリャは言った。

  もしビリャが暗殺されなければ、・・・と思わずにはいられない。そしてコスタリカやキューバにおける教育と医療の成功は、ビリャの政治的感覚に流れるものと通底しているからこそではないか。

   リードがハーバード大学の恩師に宛てた書簡がある。
  「・・・もし先生の教えをうけなかったならば、私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないかと考えずにはおられませんでした。
 ・・・すなわち先生の話に耳を傾けることは、目に映つる世界の背後に隠された美を見出す術を学ぶことであり、また先生の友人であることは、知的に誠実であろうと努めることなのだと。・・・」
                                      ジョン・リード『反乱するメキシコ』大学恩師への献辞

  雨のように銃弾が飛び交い夜を徹して歌い踊る農民兵士たちの喧騒の中で、何がこの革命の実態で本質なのかを咄嗟に記憶して構成記録する、ジャーナリストとしての基礎を彼は大学で磨いた。我々が生徒に保証べき学力も、こうでありたい。

『反乱するメキシコ』 1  常備軍廃止の思想的淵源

 

  ジョン・リードは『世界を揺るがした十日間』で1917年のロシア革命を生き生きと世界に伝えた。だが彼は、それより前1910年から10年以上も続いたメキシコ革命も取材している。それが『反乱するメキシコ』である。革命と貧農の結びつきが、生き生きと捉えられている。
 フエルナンド大尉は、立憲革命を目指すマデーロ派である。リードは彼らに仲間として迎えられる。

 フエルナンド大尉は身を乗り出して私の腕を軽くたたいた。
 「さあ、お前はこの男たちの仲間だ。われわれが革命に勝ったら、この男たちによる政府ができるだろう金持ちによる政府じゃない。われわれは今この男たちの土地を進んでいる。この土地は以前は大金持ちのものだったが、しかし、いまじゃわたしや仲間たちのものだ。」
 「そして君らが正規軍になるのかい」と私はたずねた。
 「革命が勝ったら」と驚くべき返答があった。
 「もう軍隊はなくなるだろう。みんな軍隊にはうんざりしているのさ。ドン・ポルフイリオが俺たちから搾り取ったのも軍隊があったからさ。」
 「でも、もし合衆国がメキシコに侵入するとしたら?」
 嵐のような反応があちこちに起こった。
 「俺たちはアメリカ人よりずっと勇敢だぜーいまいましいアメ公どもはフアレス市より南には来られまいよ。来るなら来てみるがいいさ。俺たちは奴らを国境を越えて追い返し、あくる日には奴らの首都を焼きはらってやるから!・・・」
「いや」とフエルナンドが言った。
「君たちの方が沢山金を持ってるし、兵隊も多い。しかし民衆は俺たちを守るだろうな。俺たちに軍隊は無用なんだ。民衆は自分の家や女たちのために戦うだろうよ。」
 「あなたたちは何のために戦っているんです?」と私はたずねた。旗手のフアン・サンチェスが不思議そうに私をみつめた。
 「なぜって、戦うのはいいことだ。もう鉱山で働かなくてもすむからな・・・!」(注1)
  ・・・一人の男が単調で、調子外れの歌をうたいだした。

 ・・・男が半分歌い終った頃には、部隊全員が曲に合わせてハミングしていた。そして歌い終ると、余韻の中で一瞬シーンとなった。
「俺たちは自由のために戦っているんだ」とイシドロ・アマヨが言った。
「自由とはどんな意味だ?」
「自由とは、自分でしたいことができるってことだ」
「しかし、それが他人を傷つけるとしたら?」
 彼はベニト・プアレスの偉大な金言で私に切り返した。
「平和とは他人の権利を尊重することである!」
 私はそのような答をまったく予期していなかった。この裸足のメスティーソのいだく「自由」の概念に私はびっくりした。
 「自分のしたいことをする!」これが自由の唯一の正しい定義であると私は述べたい。アメリカ人はそれを、メキシコ人の無責任さの例として勝ち誇ったように引用する。しかし私はわれわれアメリカ人の自由についての定義、つまり自由とは法廷が望むことを行なう権利であるという定義-よりも優れた定義であると思う。メキシコの学校の生徒は、だれでも平和の定義を知っており、それがなにを意味するかもかなりよく知っているように思える。にもかかわらずメキシコ人は平和を望まないと人は言う。それは嘘だ。しかも馬鹿げた嘘だ。アメリカ人よ、マデーロ派の革命軍のところまで来て、平和を望んでいるかどうか聞いてみるがよい! 民衆は戦争にうんざりしている。 ジョン・リード『反乱するメキシコ』


  フランシスコ・パンチョ・ビリャは、エミリアーノ・サパタと共にメキシコ革命を代表する天才的農民軍指導者である。彼は、妹を犯した役人を殺した16歳以来、22年もお尋ねとして政府に追われていた。学校に通ったことはないが、生来の正義感と明敏さで、革命の中心地チワワ州の軍政官になった。リードは、チワワでビリャにも会っている。

  ビリャもリードに次のように語っている。
 「新しい共和国が樹立された時には、もうメキシコには軍隊はなくなるだろう。軍隊は独裁の最大の支柱だ。軍隊がなけりや、独裁者もありえんね」
・・・「われわれは、軍隊を働かせるつもりだ。(注2)共和国全土に、革命軍の古参兵を集めた軍人入植地を作るつもりだ。州が耕地を与え、大きな工場をつくって古参兵を働かせる。
週のうち三日は、軍人は徹底的に働く。真面目に働くことは戦うことより重要で、真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ。そして残りの三日間は、軍事教練を受けたり、全人民に戦争の仕方を教えに出かけたりする。
そして祖国が侵略をうけた時には、メキシコ市の大統領官邸から電話がありさえすれば、半日でメキシコの全人民が起ち上がる、畑から、工場から、十分に武装し、装備も整い、よく組織された人民が、子供や家庭を守るために起ち上がるのだ」     ジョン・リード『反乱するメキシコ』

 画期的なのは、それまでは各個バラバラに政府軍と戦っていた革命ゲリラ軍指導者が会議を開いたこと、そして満場一致で将軍ビリャを革命軍総司令官に選んでいることである。
 この将校と将軍の言葉から、暴政に対するもっとも効果的な武器は、軍隊ではなく武装した人民であるということを、cuba革命やvietnam戦争より50年も前に、夜通しバラードを歌い踊り、ぼろをまとった、勇猛で陽気な農民兵士たちが、よく理解していたことを我々は学び知るのである。
 僕は、1948年12月1日、コスタリカ元首ホセ・フィゲーレスが、
 「コスタリカの常備軍すなわちかつての国民解放軍はこの要塞の鍵を学校に手渡す。今日から ここは文化の中心だ。第二共和国統治評議会はここに国軍を解散する」
 何故このように演説出来たのかが掴めないでいた。あまりにもあっさりしているからだ。
 だが、メキシコ革命軍の大尉と将軍の言葉から、ホセ・フィゲーレスの宣言が、いかに重いものであるかを知ることが出来る。そして中南米初の社会革命の精神が、根強く中南米各地の革命に受け継がれていることがわかる。つづく

(注1) 「チワワ滞在中に、リードはアメリカ人の経営する鉱山に行き、そこで以前に見たこともない貧しいメキシコ人労働者を見た。熟練工はみなアメリカ人で、度々起こるメキシコ人労働者のストライキを力で押えているということであった。リードは、その場を去る際に支配人から「アメリカ人の干渉を批判するようなことを書いたら、お前も生かしてほおかんぞ」とおどされたのであった」   『反乱するメキシコ』草間秀三郎・解説

(注2) 「皆さんのなかで、七月二六日にシエラ・マエストラへ行ったことのある人は、まったく知られていない二つのことを目撃したはずだ。オリエンテ州の、つるはしと棒きれで武装した軍、革命記念日には精一杯の誇りを持って、つるはしと棒きれを構えて行進に参加する軍、その一方で、銃を構えて行進する民兵の同志たち。」←クリック                                ゲバラ 1960年 公衆衛生省研修所での演説


子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる

子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。
summerhillの授業、左奥の白髪老人がAlexander Sutherland Neil
 「ソ連は教育上の自由、自治、創造を、大々的に振りかざして出発した。だがその後しだいに変化してきた。政府は次のような意味のことを言った。「これは大そうけっこうである。しかしわれわれは社会主義文明の建設を急いでいる。われわれは熟練した労働者、すなわち技師、教師、医師、支配人等々を必要とする。われわれは暇にあかして完全な自由を発展させることはできない・・・これはソ連がソ連の新制度を打破しょうとする多数の敵に取りまかれている結果であると、ソ連の支持者は考えようとする」ニイル著作集4                     
  「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、つねに同時に目的自体として扱わねばならない」カント
 人は、他と引き換えがきかない、序列化出来ない。つまり尊厳性がある。カントの定言命法を、軽々しくも社会的要請が退ける。確かに人類的社会的と言える要請が、個人を命を賭しての行動に駆り立てることがある。しかしそれは、個人の決意によるものでなれればならない、絶対に。
 社会が、会社に、クラスに、班になってゆく。集団がどんなに小さくなっても、個人は集団に寄与することを求められる。「個人主義」が組合でも教研でも否定的に語られ続けたのはそのためだ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は、みんなの「尊厳」を個人の「尊厳」の集合としてしまった。1個人の尊厳+1個人の尊厳=2個人の尊厳ではない。全員の尊厳-1個人の尊厳=ゼロなのだ、全員が一人であろうと1万人であろうと変わらない。
 自由が、あきるほどの暇があって漸く実現するものであれば、それは永遠に特権者の奇貨としておかれ続ける。
 
 70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。しかしその中身は、多数決による管理強化にすぎなかった。 
 「外見の自由は基本的人権であり、特定の高校に属することを理由に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服となれば、服装が特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
 「今の基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」という反論が直ぐにあった。大学で共に活動した仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」を言い出すものまであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
 事実全国的に高校が荒れはじめ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に就職してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。青少年の「荒れ」の現象の目まぐるしさに惑わされて、その実態や本質をつかめない不安が、教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷極まる事態を解決する万能の呪いのように思えたのだ。
 「基本的生活習慣」と言う漠然としたものが、なぜ服装で身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
 「学校が毅然として一致して生徒に迫るには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことを言う。ではいつ解除するのかと食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
 こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教師の「実践レポート」から授業が目立って減り始めたのである。
 もうあれから40年にもなる。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制しているのだ。

追記 工業高校がどこでも荒れていた訳ではない。この頃僕の勤務していた王子工高は、制服はなく生徒たちは私服であった。教師たちは定期的に校内で研究会を開き、授業と自治活動の改善に取り組んで、自由な「秩序」も保たれていた。それ故普通高校のベテラン教師までが、リベラルな職員集団と自由な生徒たちを実際に見て、自ら希望して転任してきていた。荒れている学校でもすべての生徒たちが荒れていたわけではないのだ。
  子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。ニイル

表現の不能・言論の不自由としてのヘイトスピーチ

僕にとって今年一番のnews は、「国際平和ビューロー」(IPB)が
2017年の平和賞を翁長知事ら「オール沖縄会議」に授与したことだ。

   暴走族は、誰に何を言いたいのだろうか、誰かを何かを憎んでいるのだろうか。ホームレスを襲う中学生はどうか。
 彼らの言葉を聞き・表現を受け止めるのは大人の義務であることを「子どもの権利条約」は宣言した。にもかかわらず世間は「非行少年」を厄介者扱いし厳罰を求め続ける、明らかに憎悪している。
 若者を日々抑圧疎外している面白くない現象、例えば親の失業・貧困、些細なことでの退学処分、居たたまれない選別の状況(近所や同級生・親戚の憎悪の眼差し・・・)は悪化するばかり。彼らのイライラ不安は募る。だが、それを言い当てる言葉を発見できない。現象の中に実態を掴み言語化することが出来ない。怒りや不安をぶつけるべき対象さえ見えない。たとえ言葉をぶつけるべき相手を前にしても、それを伝えることが出来ない。
 出来ないよう、学校も報道機関も行政も事柄の現象だけを扇情的に追う。カリキュラムがそう構成されている。少年たちは、正体不明の大きな力に取り囲まれ、しかも憎まれている。少年たちは、その不安・憤懣・恐怖を払拭するために、社会的弱者・周辺の人々に殊更攻撃的になるか、沈黙する。なぜなら、彼ら「社会的弱者・周辺の人々」こそが、少年達の未来を暗示して、少年達が最も意識したくない存在であるからだ。
 「私たちは、彼ら社会的弱者・周辺の人々ではない。なぜならその証拠に奴らを憎んで攻撃しているからだ。見てくれ、攻撃しているぞ」、という訳だ。でなければ無関心であろうと努める。無関心も深い闇を形成する。本来なら言葉を共有して、共通の相手に立ち向かうべき仲間を攻撃する。学校で家庭で職場で態度や外見をとやかく言われるたびに、自分に注目する華々しい場面や行為に走る。ヘイトスピーチの若者達は、こうして育てられ集う。
 ここにあるのは表現の不能であり、言論の不自由である。支配する側には、堪らなく「おいしい」光景である。それ故政府はヘイトスピーチを、表現の自由を持ち出して放置・擁護する。これが「遅れた」「反日」国家に向けられて、「愛国」意識を募らせ、平和への反感と戦力の誇示による大国意識を醸成することになる。この時日本を植民地のように隷従させている国への視線は、靴を舐めるような卑屈さに彩られる。闘う言葉の教育は焦眉の急務。言論の不自由の中に青年を隔離し続けてはならない。
 闘うとは、まずは知ろうとすること。既存社会に適応させる為に叱咤し「そんなことでは駄目だ」と恐怖させるのではない。
 就活へのアドバイスはもういい説教は聞き飽きた、仕事自体を求めて彼らと街へ出て歩き交渉しよう。言論の不自由に、大胆に駆け寄って言い分を引き出し聞こう。
 不正に「成功」した勝ち組の戯れ言に立ち向かい批判抵抗する言葉を青年が獲得すること、それは当面は身近な親や教師への怒りとして表出するかも知れない。彼らの言葉を聞き共に歩くことをしなかった大人への正当な怒りである。

 「彼ら」が憎しみに満ちて破壊的衝動に駆られるのは、世界から学校から家庭から職場から受け入れられず評価されず立ってさえいられないからである。だから破壊的憎悪の集団が、彼を取り込む。唯一の居場所となっている。
 我々は彼らを受け入れるに、根拠をを求めてはならない。例えば成績や行いがよくなったら、権威ある人物のお墨付きが出たら、・・・等という前提一切なしに受け入れねばならない。そうでなければ「社会参加」はあり得ない。
 自己が対象を定義するから主体的であり得る、対象が自己を決定してしまえば参加は義務と化す。今、学校の地域の企業の行政の「参加」は義務である。戦争という忌まわしい国家犯罪を、参加と呼ばせるのだ。

天皇が神なら、戦争でも兵隊が死なない、飛行機も落ちないはずでしょう  金子文子

 朴烈事件の予審判事・立松懐清の問い「天皇制に対してどういうふうに考えているというのか」に金子文子がこたえている。


 私はかねてから人間の平等ということを考えています。人間は人間として、平等であらねばなりません。人間の平等の前には、馬鹿もなければ、利巧もなく、強者もなければ、弱者もなく、地上における自然的存在としての人間があるのみです。そういう人間の価値は、完全に平等であり、すべての人間が人間であるというただ一つの資格によって、人間の人間たる生活の権利を完全に、かつ平等に享有すべきはずのものです。 具体的にいうと、人間によってなされたこと、なされつつあること、また、なされるであろうところの人間的行動は、すべて完全に人間という基礎の上に立っての行為であります。自然的存在たる基礎の上に立つ人間の地上における人間的行動は、ことごとく人間であるというただ一つの資格によって、一様に平等に承認さるべきはずのものです。しかるに、この自然的な人間的行為を人為的な法律によって、どんなにひどく歪めたり、否定したりしているかということを考えてごらんなさい。本来平等であるべきはずの人間が、現実の社会において、天皇というもののために不平等化されていることを、わたくしは呪うのです。 
 ・・・ 天皇が神様か神様の子孫であったら、歴代の神様たる天皇の保護の下に存在する日本の民衆は、戦争の際にも兵隊が死なないはずでしょう。日本の飛行機も落ちないはずでしょう。また神様のお膝元で、昨年のような大地震のために何万という忠良な臣民が死ぬはずもありますまい。ところが、戦争に行った日本の兵隊がよく死にます。飛行機もよく落ちます。お膝元に大地震が起こって、何万という人が惨死するのを、どうすることもできない天皇が、どうして神様だといえましょう。天皇が神様だなどということは、君権神授説の仮定にすぎません。すべての伝説は空虚な夢物語です。天皇が全智全能の神の顕現であり、神の意志を行うところの天皇が、地上に実在しておりながら、天皇の赤子は、飢えに泣き、炭坑に窒息し、機械に挟まれて惨めに死んでゆくのはなぜでしょう。それは天皇が神でもなければ仏でもなく、結局天皇に人民を護る力がないからです。 天皇の正体は一個の人間です。わたくしども人民とまったく同一な自然的存在です。平等であるべきはずのものです。・・・     金子文子(1924年5月14日 市ヶ谷刑務所にて)
奇っ怪なのは、金子文子ではない。
 「天皇制は神ながらの道そのものではないが、神ながらの道と容易にむすびつき、奇怪な軍国主義の成長を支えることができた加藤周一『親鸞』
   1903年1月25日~1926年7月23日。関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、朴烈と共に検挙され、十分な逮捕理由はなかったが、大逆罪で起訴され、死刑となった。後に恩赦で無期懲役に減刑されたが「天皇による恩赦」を拒否して刑務所長の面前で通知を破いている。奇っ怪なことに震え上がったのは所長であった。彼女は獄死。

  金子文子自身が、子どもの頃を振り返っている。
 私は小さい時から学問が好きであった。で、学校に行きたいとしきりにせがんだ。あまりに責められるので母は差し当たり私を母の私生児として届けようとした。が、見栄坊の父はそれを許さなかった。「ばかな、私生児なんかの届が出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん」 父はこういった。それでいて父は、私を自分の籍に入れて学校に通わせようと努めるでもなかった。学校に通わせないのはまだいい。では自分で仮名の一字でも教えてくれたか。父はそれもしない。そしてただ、終日酒を飲んでは花をひいて遊び暮したのだった。私は学齢に達した。けれど学校に行けない。 
・・・父はある日、偶然、叔母の店から程遠くない同じ住吉町に一つの私立学校を見つけて来た。それは入籍する面倒のない、無籍のまま通学の出来る学校だったのだ。私はそこに通うことになった。学校といえば体裁はいいが、実は貧民窟の棟割長屋の六畳間だった。煤けた薄暗い部屋には、破れて腸はらわたを出した薄汚い畳が敷かれていた。その上にサッポロビールの空函が五つ六つ横倒しに並べられていた。それが子供たちの机だった。 
・・・私立学校へ通い始めて間もなく盆が来た。おっ師匠さんは子どもに、白砂糖を二斤中元に持って来いといいつけた。おそらくこれがおっ師匠さんの受ける唯一の報酬だったのだろう。けれど私にはそれが出来なかった。生活の不如意のためでもあったろうが、家のごたごたは私の学校のことなどにかまってくれる余裕をも与えなかったためでもあろう。とにかくそんなわけで私は、片仮名の二、三十も覚えたか覚えないうちに、もうその学校からさえ遠ざからなければならなかった。叔母の店は夏の終りまで持ちこたえられなかった。二人はまた山の家へ引きあげて来た。家は一層ごたつき始めて、父と母とは三日にあげず喧嘩した。・・・     金子ふみ子『何が私をこうさせたか

追記 彼女がまともに教育権を享受していたら、東洋のアーレントになっていたと想像するのは荒唐無稽とは言えまい。小学校教育さえろくに受けていないが、翻訳・出版編集をこなすまでになっている。

自由を与えることは犯罪の真の治癒である

John Dewey and Homer Lane
「自由を与えることは犯罪の真の治癒である。数年前、私はホーマー・レーンのリットル・コモンウェルス(少年院)を見に行ったことがあるが、そのとき私は明らかにこの事実を学んだ。レーンは不良児に向かって自由を与えた。そして子どもらはそれによって自然によくなっていった。貧民窟において、子どもらが自我の満足をはかる唯一の方法は、反社会的な行動をして、人々の注意を自分に向けさせることであった」    ニール

 教える者と教わる側の役割を取り替える。教員が教えてもらう側に移る。次第に生徒は教師が演じていることを忘れて、必死に教えようとする。頭を絞って伝えようと言葉を探す。それは新しい自分の発見である。教師と自分の関係を相対化する。学ぶことの主体性に行き着く。
 O君と番長たちを思い起こす。小中を通していじめられ続けて不安におののいていたO君は、生まれて初めて教える側に立った。彼の中に経験したことのない矜恃が芽生える。番長たちは「自我の満足」の為だけに復讐的に突っ張ることを止めたいと思っていたが、機会がない。絶好の機会だった「O君、教えてくれよ」の一言で彼らは、友情を発見する。双方ともに、役割が替わって全く違った心的経験をしたのだ。        
 復讐する相手も口実もない状況、つまり自由こそが番長には必要であり、担任たる僕の役割は、それを請け合い裏切らないことだった。
 突っ張るのを止めて見えてくるのは、自分に敵対する者と服従する者という相対的関係ではない。不正や不平等という誰が見ても同意出来る事実である。かつて彼らを「反社会的な行動」に追い込んでいた者の卑劣さ弱さを知る。同時に自分の小ささにも気づく、周囲の弱い者への共感も育つ。
 体罰教師を見て「あいつ、本当は生徒が怖いんだ、先生助けてやりなよ」と僕に言い、体罰教師に「おまえ説教するのはいつも職員室じゃないか、どうして一対一の話が出来ないんだよ。意気地なし」と大勢の教師が居る中で言ってのけたのである。言葉にすることで彼らは、人と人の関係を捉え周りに伝えることが出来る。周りにいた教師たちがニャッとして生徒に共感を示したのは幸いであった。
 酔っぱらいの博打打ちと少年の場合、「自我の満足をはかる方法」としては酒やばくちが「唯一」ではなくなったということであり、少年の期待が博打打ちに自由をもたらしたことになる。教師の役割は、そんなことをしていたら就職口はないぞと恐怖の種を増やすことではない。期待すること。
    
追記 ニイルは、レーンが運営する少年院the little commonwealth の自治方式に感動し、ここで働く約束をしていた。しかし彼が兵役を終えた時、すでに閉鎖。そこで、進歩的ジャーナリストたちが創立したキング・アルフレッド校に職を得た。ここは、男女共学、体罰と試験の全廃、宗教教育の廃止などを掲げ、当時最もラジカルな学校であった。ニイルは、ここで自主勉強方式を試みる。だが失敗。教師の指示に慣れていた子どもたちは戸惑い、途方に暮れ、終いに大騒ぎを始めたのだ。同僚の教師からも苦情が相次ぎ、退職したのである。 

「理解するより打つほうがやすい」

 居眠りしただけで解雇を言い渡され、辞表を要求されて書いてしまう若者はいる。「居眠りはいけない」と自ら言い納得するのだ。 
山下道輔さんと谺雄二さんは幼なじみ。
 ハンセン病療養所多磨全生園の山下道輔さんが、はるばる新潟から見学に来た大学生と教員一行に30分ほど話をした時のこと。ハナから一番前で居眠りをする学生がいた。

 後日、写真家の黒崎さんが「それで、居眠りは廊下でやりなさい、出て行け」と言いましたかと聞いた。山下さんは湯飲みの酒を実に旨そうに飲みながら「いや、そこの兄さん昨夜はよほど勉強して疲れていると見える。どうせ寝るならこうやって寝なさいと言ったよ。そしたらぱっちり目を開けて最後までこうやっ聞いてたよ」うつらうつらじゃなくて、机に突っ伏して寝たらと言ったのだ。
    山下さんは一日に一合だけ飲む。しかし実に旨そうに飲む、つまみもなしに酒だけを。ハンセン病資料館館長の成田医師は、「こんなに旨そうに飲む人を見たことはない」と、わざわざ酒を持ってきたほどだ。

 冒頭の若者を、「居眠りはいけない」と言いながら自ら辞表を書くような精神に訓練したのは、学校文化であると僕は断言する。「いけないことはいけない」と、事の軽重を無視して正義を叫ぶ癖が、学校や教員には少なからずある。キセルも一回だけでも、窃盗と同一視して厳罰を要求する。たかが万引きや煙草などと言おうものなら、目を剥いてかかってくる。そのくせして、同僚の体罰には教育愛と言い張って擁護する。権力犯罪には反応すらしない。
 こうした教員は山下さんのように旨く酒を味わう事はあるまい。事柄を人間において判断しない、出来ない。三木寮父が話した酔っぱらいのばくち打ちと少年の話を彼らは理解できまい、その賢さに欠けている。教師は頭がよくなくてはならないの半分はこのことである。人間を理解する経験とと知性に乏しいからこそ、規則において人を判断するのである。
 「理解するより打つほうがやすい」 ニール

待つことの積極性

武谷三男 物理学者、湯川秀樹の共同研究者
  戦後になって、羽仁五郎と対談する機会があった とき、羽仁さんに、「八月十五日に友達がぼくの入れられいた牢屋の扉をあけて、ぼくを出してくれるんだ、と思って、一日まってたよ。・・・君でさえ、かけつけてきて鍵をはずしてくれなかったのだからな」といわれた。 
 「おっ」と思った。彼はそういう形で私の責任を追及してきたんです。
   もう一人似たようなことを回想として語った人が武谷三男です。敗戦のときに、彼のうちに布施杜生の元細君がいたんです。布施杜生というのは、野間宏の『暗い絵』の主人公に当たる最後の共産主義者で、治安碓持法で捕まって、獄死した人です。 
 その布施杜生の細君が戦争が終わったのを聞き、ものすごく喜んで、「獄中の同志を助けに行こう」という手書きのポスターを新橋駅近くの電信柱に張って歩こうとしたんですね。ところが、武谷三男はそれをとめた。新橋あたりには、まだ戦争を続けるのが正しいと思っている人が大勢いるはずだ。そこでそんなことをしたら、ひどい目に遭うにちがいない。やめたはうがいい、と強く説得してやめさせた。 
 しかしそれから十年たって、歴史を振り返ってみると、そんなことをやった人間は誰ひとりいない。ということは、日本の人民のなかのただひとつあった可能性を自分が潰したことになる。それについて、自分は責任を感じる、と武谷はいっていた。 
 この武谷の考え方も、やはりミステイクン・オブジェクティヴイティを免れている。歴史のなかに自分のやったことがきちんと入っているわけです。現代史というのは、そういうものなんだ。自分がやっていること、やったことを入れ込んだうえで歴史を見ていく。そういうふうには歴史を見ないのが天下の大勢ですよ。大方は、誤れる客観主義に陥ってしまう。羽仁五郎と武谷三男にはそれができた。       鶴見俊輔  思想の科学1968.10 『語りつぐ戦後史』

  我々日本人は、自前の戦争犯罪を問う法廷を持てなかった。それどころか、戦争を批判して獄中にあった思想犯を救い出そうとさえしていない。
  治安維持法は敗戦後も「迫り来る「共産革命」の危機を口実に断固維持適用する方針を取り続けた。それを日本人は許した。その中で1945年9月26日に世界的哲学者の三木清が獄死したのである。いわば見殺しと言ってよい。10月1日GHQ設置。10月2日、仏人特派員がが獄死した情報をえて、おどろいた欧米記者たちがさわぎだした。調べてみると看守がわざと、介癬患者がつかった毛布をあてがったことが判明。床に落ち、もがき苦しんでの死であった。敗戦から2ヶ月、まだ全ての政治犯4000人が獄中にいた。
 10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣が、英国人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けており、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張。岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。全く敗戦の意味がわかっていない。10月4日、GHQは人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により治安維持法廃止と山崎の罷免を要求。東久邇内閣はショックを受け総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止され、特高警察も解散を命じられている。情けない話である。

 非転向のまま獄中あった共産党員ぬやま・ひろしは、釈放から30年たった死の直前に、こう言っている。
 「戦争が終ったときに私たちは疲れきっていて考える力というものをほとんど完全になくしていました。そのときに占領軍の士官がきて私たちを釈放するということを伝えました。徳田球一は私たちの中でただ一人元気で私にこの占領軍の申し出を受け入れるべきかどうかということを尋ねました。そのときに私はもう考える力がなかったので彼が正しいと思うようにするようにと答えました。ですからいま私がこんなことをいうのは当時の自分の先見の明を誇っていうのではないのだが、私はあのときにこう答えるべきだったといまは思うのです。日本人がやがて私たちを自由にするまで私たちは獄中にとどまっているべきだ、というべきだったなと思います」     鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』

 「日本人がやがて私たちを自由にするまで私たちは獄中にとどまっているべきだ」これが、まっとうな政治判断である。待つことは決して消極的行為ではない。
 中井正一の「ある瞬間がくるまではびくとも動かない岩の扉が、ある瞬間が来ると突如として開くときがある。しかしそれはただ自然に開くのではない。一本の小指の力でもいい、運動を起こす力が加わって、始めて歴史の扉は開く。その一本の小指となるもの、それが君たちインテリゲンチアだ」の「ある瞬間」を堪えて待たねばならぬ場合がある。根が伸びて若芽が安定する前に、無理矢理引っ張って枯らすようなことを「指導」と言い募って台無しにしたことがどんなにか多いだろうか。学校でも、政治や市民運動でも。
 布施杜生の細君・布施歳枝がここで言う「一本の小指」であった。「歴史を作るのは人民である」ことを日本国民が自ら実感し、昨日まで人民を支配していた者に通告する空前絶後の機会であった。もしこれが実現していたら、占領軍を解放軍と位置づける過ちは避けられた筈だし、新しい憲法への動きも異なっていたに違いない。天皇が沖縄を米軍に差し出すという暴挙もなかっただろう。悔やまれてならない。

医者は貧困をなおせない

 1905年日露戦争にロシア軍軍医として、ハルビンに送られたコルチャックは、多くの子どもたちが親を殺され、飢えながら無力な状態で放置されていることに心を痛めます。戦地で、ロシアの敗北を祖国の独立と革命へと気勢をあげる兵士の集会に招かれて、次のように演説をしています。
子どもには育つために最適の環境が与えられるべきである
 「戦争に発つ前にあなた方は傷つけられ、殺され、みなしごになるであろう無実の子どもたちのことに、立ち止まって、思いを馳せていただきたい」
 戦後のワルシャワは、デモとストライキでさながら革命前夜の観がありました。ロシア皇帝は大量虐殺でポーランド国民を弾圧、二年後に革命は敗北します。このときもまた、敗戦も革命もユダヤの陰謀・煽動であるとする、反ユダヤ主義キャンペーンがはられました。
 このときすでに、コルチャックは高名な作家として知られていました。豊かな階層は競って彼に診察をしてもらいたがりましたが、彼はそんな連中を好きになれませんでした。豊かな連中からとった診察料は、貧しい人々を診るのに当てました。
 病院で、不安におびえた子どもが夜中に目を覚ますと、コルチャックの優しい目があり、眠れない子どもには、一本一本の指の物語をして、指に息を吹きかけるコルチャックの姿がありました。彼は子どもの患者の権利のためであれば、病院経営者であろうと医者や看護婦であろうと、たたかいながら七年間小児科医を続けました。しかし、病がいえた子どもたちが帰ってゆくのは、貧しくて不潔な愛情に欠けた世界であり、そしてそれを医者は変えられないことに悩み続けます。愛情の欠乏や飢えに泣き無知に苦しむ子どもたちを生み出す貧困や搾取を、薬や手術でなくすことはできません。
                                              (孤児の家)
 1911年、コルチャックは病院をやめました。そして、貧しいユダヤ人街に、子どものための「ドム・シュロット」(孤児の家)を、慈善協会の協力で設立しました。そこに、戦争孤児・病人やアル中患者や障害者の子・革命家の子・囚人の子・浮浪児・売春婦の子そして盗みや乞食の経験のある子・暴力的な子を受け入れたのです。
 このとき、ポーランドに義務教育制度は確立されておらず、教育は一部の豊かな階層だけにしか許されていませんでした。
   にもかかわらず、完成した孤児の家は、セントラルヒーティングや電気設備をもつワルシャワ初の建物の一つで、迎え入れられた子どもたちは、その素晴らしさに信じがたい思いをしたそうです。
  子どもには育つために最適の環境が与えられるべきである - コルチャック
 だが、施設の最初の一年は最悪でした。子どもたちはコルチャックの規則に反発して盗み、壊し、教師たちは倣懐に振る舞い、コルチャックが説く高尚な共同体の理想は無視されました。彼は挫折感に打ちひしがれます。
 彼は集団の良心が育ち、子どもたちが落ちつき、そばにやって来るのを粘り強く待ちました。
 子どもの自治による進歩的な孤児院「ドム・シュロット」のニュースは、まもなくヨーロッパ中に広がり、訪問者の群れがおしよせます。その中の一人、ヘルマン・コーへンはこう書きました。
 「私はいくつかの模範的孤児院をたずねて深く感銘を受けた。とくにワルシャワのゴールドシュミット・コルチャック医師によって、はかりしれない愛と現代的な理解をもって運営されている孤児院には感動した」

危険なのは使命感

 「永海佐一郎は教養にじゃまされることなく
隠岐に生まれた無機化学の世界的権威で教育者
自由にものを考え、しゃべり、書くことができたようである。 かれの自叙伝は、いわゆる教養人からみれば恥ずかしいほどにあけすけである。かれは自分が教育好き、講義好きであることをかくそうともしない。ふつうの〝教養のある″科学者はたとえそう思っても絶対口に出そうとはしないし、そう思わないように努めるものなのだ。教育は研究より下に見られていることを知っているからだ。同じことをいうにしても「教育に使命を感じて」といういい方をするものだ。
 ところが、永海が化学教育に夢中になったのは、それに使命を感じたからではない。自分自身好きだったからだ。だからかれは、その講義をきき実験を見る人たちにもなんとかそのよろこびを分かちあってもらおうと夢中になる。「使命を感じて」教育をやる人とはその姿勢がまるでちがう。かれの本を読んでいて気持ちのよいのはそのためであろう。かれは「教育的使命を感じて押し付ける」なんていう発想をまるでもっていないで、読者が化学を本当にたのしめるようにとだけ考えて化学教育の組織にのりだしたのである。これは日本の科学者、科学教育者としては、まったくめずらしいことだ」 
   「かわりだねの科学者たち」 板倉聖宣 仮説社           

 いったい教養人とは、誰が誰を指していうのだろうか。妙な言葉である。使命感の底には、背伸びした劣等感としての優越意識がある。それが、例えばハンセン病絶対隔離発案者・光田健輔を気高く見せ、光田に追随する者をも引き上げる。光田を祭り上げれば上げるほど、自分も輝くような気がする。しかし所詮虚構。脆く崩れ去る危機は常にある。それ故、感染力の極めて弱い病気を、ベスト並みの危険な病気と絶えず宣伝して、それに立ち向かう虚偽の己を祭り上げてしまう。その結果、ハンセン病者をこの世の地獄に落とし込んだのだ。ハンセン病が危険なのではない、使命感が危険なのである。 
 全生分教室中学派遣教師たちに使命感がなかったのは、幸いと言わねばならない。すぐに転勤という約束を取り付けた者が使命感を言うのは格好がつかないし、患者教師たちが授業を楽しんでいるのを見れば、使命感の据えどころはない。授業好きに使命感は要らない。患者と共に病気に立ち向かうことが好きな医師に使命感は要らないし、差別意識が芽生えることもない。
 
  F先生は、いつの間にか使命感にとりつかれていた当blog「心を病んだ教師」 非常勤の時は、使命感どこ吹く風といった趣の、しかし文句の付けようのない国語教師であった。ギターを抱えて教室に向かう姿は、颯爽として自信に満ちていた、授業の導入にフォークソングの歌詞を使うのだった。国語教材に社会科関係のことが触れられていれば、よく準備室にやって来て、質問して話し込んだ。だが採用試験に合格して教諭としてH高に赴任、6年を経て邂逅したとき、彼は統合失調症を病んでいた。

インドでは、鉱山開発の是非を住民が判断し決定する。

インド最高裁の裁定は、村ごとの集会で開発の是非を決めるべきというもの
 オリッサ州 Niyamgiri 地方でボーキサイト採掘を、英国Vedanta Resources 社が企て、2005年に州政府と合意。開発の見返りとして、現地Dongriaの「未開部族」の村に学校や病院を建てるという提案付きで。何やら原発建設や米軍基地受け入れを巡る、日本のおぞましい動きを思わせる。
   しかし、神聖な地を奪われる人々は、工事開始に強く反発。開発の差し止めを司法に申し立てた。ここまでは、日本でもある展開。だがこの先が、根本的に異なっている。
 反対運動は Vedanta Resources 社の足下、英国にまで広がった。影響の広がりを勘案したのか、インド最高裁の裁定は、村ごとの集会で開発の是非を決めるべきというもの。12の村のうち最大の村の集会でも、全会一致で開発拒否が決まり、Niyamgiri開発の中止が確実となった、2013年のことである。

 インドではこれを、民主主義史の画期だと評価している。政府が「未開部族」に自分たちの将来を決めることを許した初めてのケースとして。開発を拒み、学校のない社会の持続を選択したDongria。彼らはこう言うのだ。
 もし「この子が学校に通ったら、この子は山を出て行き、外の生活を学んでいくだろう。そして、彼は私たちの土地を大会社に売ってしまうだろう。学校では、自然とともに生きるすべなど教えてくれはしない。かわりに搾取によって生きていくすべを教えるんだ」
   Dongriaは決して「未開部族」ではないことを、フランツ・ファノンの言葉が裏付けている。
  「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」  
  日本では教育が、開発という破壊の先頭に立ち、司法は住民の声を封じる役割に邁進している。
 Dongriaの村人の言葉は、我々の、見返りを求めて環境破壊を看過するさもしい選択に釘を刺している。
 我らの社会は、コミュニティを解体すること、つまり自治体合併を「合理的進歩」と捉えて直接民主主義の息の根を止めてしまっている。

追記 英国はインドを過酷に支配し、独立運動を弾圧した。だが、ガンジーが独立の件でイギリス議会に呼ばれた時、市民は熱烈に歓迎している。Dongria開発の件でも、英国市民が積極的にVedanta Resources 社への抗議活動をしている。
 日本市民は、かつて支配した地域の同様な問題に英国市民ほど熱心な支援をしているとは言えない。愚劣な嫌中・嫌韓言説だけが満ちあふれて、日本企業のアジアでの振る舞いに関心が薄いのは情けない。

61年のルムンバ暗殺に責任 ベルギー政府が謝罪と賠償

  「61年のルムンバ暗殺に責任 ベルギー政府が謝罪と賠
ルムンバは、1960年6月24日に初代首相に就任1961年
1月17日ベルギー人将校に軽機関銃で処刑された。
償」これは2002年2月のニュースである。

   僕がこの古いニュースを思い出したのは、ミャンマーの混迷するロヒンギャ民族を調べていたからである。かつてミャンマー、かつてのビルマは英国の植民地だったが、第二次大戦中、日本が侵攻。仏教徒の組織が日本を支持したのに対し、英国はムスリムのロヒンギャに、日本を追い出したら独立させてやると約束し、仏教徒とムスリムの戦いを誘発して混迷を深くしたのである。アウンサンスーチーは英国と利害を共有している。だから発言が歯切れ悪い。パレスチナにおける英国の二枚舌外交が、中東の大混乱を招いたのと同じ状況がある。僕は、英国の知らんぷりと日本の無責任が、我慢ならない。 

 ベルギー政府は、ルムンバ暗殺の道義的責任を正式に認めることになった。ミシェル・ベルギー外務大臣が「今日適用されるべき判断基準に照らして、当時の一部政府役員とその時期の一部の政府関係者はパトリス・ルムンバを死に至らしめた一連の事件に対する弁解の余地なき責任を担う」と声明。
 暗殺計画をこの上ない明瞭さで綿密に記述して暴露したのは、Ludo De Witteの”The Assassination of Lumumba.“である。Ludo De Witteは文献資料漁りと暗殺に関係した人々証言に数年を費やした。この本が出版された後、ベルギー政府は国会でこの暗殺を調査することを迫られることになったのである。国会調査委員会はベルギー政府関係の諜報部員の広い範囲にわたって証言を聴取。ベルギー政府声明はこの暗殺に関する調査研究の結果である。
 暗殺計画の組織化に関して、ワシントンのアメリカ政府から発せられた電報の数々とCIAの果たした役割は既に明らかになっている。また、英国諜報部MI6の役割も明らかになっている。
 1975年に米国上院議員フランク・チャーチは“外国元首を含む暗殺計画疑惑”の調査を行い、結果は1975年上院報告書94-465 として出版された。(「朝日ジャーナル」1975年12月25日号『臨時増刊 CIAの外国指導者暗殺計画 全訳 米上院調査特別委員会レポート』)  カストロ議長らの執拗な暗殺計画も報告されている。
 このチャーチ調査委員会の報告とこのベルギーでの議会諮問の存在にもかかわらず、ルムンバ殺害陰謀に関する情報は広く流布されていないのが現実である。ベルギーなどヨーロッパの学者たちは依然として彼らがコンゴでやってきたことをアフリカ人の文明化と唱えている。更に看過出来ないのは、この暗殺行為とそれが産んだモブツ政権によって、コンゴ社会の政治的文化と知識人を毒し破壊し続けたことである。モブツの政権は、不法殺戮を遂行し続け、学生や組合幹部を殺害してきた。
 1990年、コンゴで国家主権会議なるものが開催され、国民的論議の基礎を発展される試みがなされたのだが、コンゴ人の職業的政治家たちも,ワシントン、ブリュッセル、パリの帝国主義的支持者たちも、真実が表に出てくることを望まなかった。モブツの失脚以来の中央アフリカ地域の大量虐殺戦争と500万を超える死者数は、ひとたび、何をやっても刑罰を受けないという政治状況が社会に根をおろすと、それを根治するのに、数世代ではすまない深い傷を作る。
 1997年にモブツが転覆された時、アメリカでは、コンゴに関する文書を公開する必要があるという討論があまた行なわれた。ルムンバの暗殺が行なわれた当時、キンシャサ(コンゴの首都)のCIAの長であった年老いたLarry Devlin がそうした討論会の一つに顔を出した。彼の出席が意味したのは、モブツの犯罪におけるアメリカの役割に関してはすべてが伏せられたままに留めるべきこと、列を乱すことは許されないことであった。
 しかし、1999年の末には、ワシントン・ポストの記事で、1960年、コンゴでパトリス・ルムンバを抹殺すべしという命令をアイゼンハワー大統領が直接与えていたという事実が公式に確かめられた。この暴露記事は、それまでの40年間、すでに公然の秘密であった事実、つまり、アイゼンハワー大統領が時のCIA長官アレン・ダレスにルムンバ暗殺の指令を直接出していた事実を確認するものであった。 冷戦状態も過去となった今、アメリカの行為で破壊されたコンゴの社会の新生のために、関係の秘密文書の公開が改めて要求される。
  ミシェル・ベルギー外相はユーロ議会で「当時の政府関係者は暗殺に至った事態に責任がある。遺族とコンゴ国民に心からおわびする」と言明。旧宗主国の「暗い過去」に一定の決着をつけることになる。ベルギー政府は賠償代わりとして総額375万ユーロでルムンバ基金をコンゴに設立、紛争予防や法の支配強化、教育に役立てるという。                
 
  ユーロ議会を傍聴したルムンバ首相の長男のフランソワ・ルムンバ氏は「暗殺で民主化が阻止され、内戦で数百万人が死んだ」ことを指摘した上で「ベルギー政府の政治的勇気を称賛する」と述べたと報道されている。      
 コンゴは「アフリカの年」といわれた1960年にベルギーから独立。しかし、ダイヤモンドなど鉱物資源が豊富なカタンガ州が独立を宣言、内戦状態となり、ルムンバ首相は同州内に拉致され、殺害された。


追記 ルムンバ首相の長男のフランソワ・ルムンバ氏は寛容なのか、怒りを抑えているのか。375万ユーロの賠償額は人をなめている。  9.11事件への寄付金は、3億5,000万ドルを目標にしている。
 1885年にベルギー国王、レオポルト2世の私有地「コンゴ自由国」とされたコンゴ。「国」となっているが、当時のコンゴは、ベルギー議会の影響も及ばない国王の完全な私有地。現地住民は象牙やゴムの採集を強制され、ノルマ達成できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科された。殺害したコンゴ人の数は、1000万人とも3000万人とも言われている。 当時ヨーロッパ帝国主義は、いずれも過酷な収奪弾圧に明け暮れていたが、その彼らさえ、レオポルト2世には恐怖を覚えたという。
  この残虐極まりない植民地支配の責任については、今なお、ベルギーは全く触れていないのである。知らんぷりで、文明化したつもりでいる。
 

安保闘争以前の高校生 1

 ここ二・三年、かなり顕着な変化が私たちの周辺の高校生にあらわれてきている。
文章の10年後の高校。セーラー服生徒のスクラムの
向こう側に、ヘルメットとセクト旗が見える。
 いわゆる「われらの時代」風の〝閉ざされた未来〃というような感覚がむしろあらわれず、生活態度が非常に端的になってきている。功利主義にわりきるものは受験勉強に集中する。デカダン主義のものはスケートリンクへ直行する等。だが大切なことは、生活をムード的に考えないで、かれらなりに相等高い社会的判断力をもって、社会問題をまっすぐに受ける生徒が多くでてきている。そしてそれが、勤評闘争等を見聞することによって一そうはっきりしてきている。
 こういう高校生は、原水爆禁止運動をすすめる高校生(仙台・東京)生徒会連合をすすめる高校生(高知・京都)だけでなく、すでにあちこちにその姿をあらわしている。

  しかも、そういう社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的であるし、それが、一、二の高校だけの現象でなくて、私たちの乏しい見聞によっても、どの学校にもでてきている。
 「勤評闘争、安保改悪反対いろいろ論争したけれど、みんな真剣に考えるようになった。少しずつ明るい未来が近づきつつあることを切実に感ずることが、最近ことに多い」
  と新潟の仲間から、三重の私のもとにいってきている。確かに、政治的無関心もある。「自衛戦争は正しい」という高校生もいる。「アメリカは民主主義国、ソ連は非民主主義国」と「中学校で習って」きた生徒もふえている。だが、
 「勤評は校長先生が行う。しかしどんな先生がよい先生であるかは私たちこそ知っている筈である。勤評を行い、文部省の狙いどおりになる教育が行われ、先生と私たち、将来の生徒との間にみぞができたら。…みぞならいい、もっと恐しいことがおこらないとはかぎらない。そんな所にカを入れるよりは、もっと日本の独立のためにカを入れてほしい。小林委員長が痛々しい姿で羽田へつかれたと聞いたとき私はふっと歌った。、わかものよ、からだをきたえて′おけ、美しい心がたくましい体にからくも…その日のために…」 (三年女)
 こういう生徒もまた、ふえてきているのである。そういえば、勤評闘争の時に、私たちもよく会議したし、生徒たちもよくよって話し合っていた。冷やかに両者をくらべてみると、教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い。

 そうだとすると、こういう、よい傾向を、確かにみつめ、それをのばしてやるのが、高校教育なのでないだろうか。
 それなのに、かれらが成長してくると、「生意気になってきた」と怒り、かれらが社会的関心をしめすと、教師の方が抑えてかかったりすることはないだろうか。昔、軍隊生活を経験した人は、一〇・五の軍靴をわりあてられた一〇・七の足の男が、それを訴えると、上等兵などから、「なんだと、足を削れ、足を」といわれたことを知っている。それでも靴はとりかえてくれた。教育の仕事は、このように具象的でないために、案外、それと同じことを、教師がしていることはないだろうか。まちがった教育愛や、必要な支援の不足が、かれらの生活に、靴ズレをつくり、しかも化膿するまで見おとしていることはないだろうか。おたがい高校数師は、生徒をみつめるのにもっともっと努力する必要がある。
     竹田友三 高校教師論 1960 三一書房

 「教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い
 同じことを、中野重治も書いている。他の論者たちも同様の指摘をしている。それが何時、どんな切っ掛けで、教師の「指導」が優位になってきたのだろうか。一つのヒントを、竹田は言っている。「・・・社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的である
         

ゲルニカ事件 1989年

  九州の小学校(1989年 福岡市立長尾小学校)で、六年生が平和への決意をこめて「ゲルニカ」の幕を作成、卒業式会
『ゲルニカ事件―どちらがほんとの教育か』
著者は、井上 龍一郎とお母さんたち
この本に、子どもたちの「ゲルニカ」が紹介されている。
素晴らしい出来である。
場に掲げることになり、予行では実際に正面にはられた。しかし、校長は、「日の丸」を重視、混乱が起こってもよいと、「ゲルニカ」を正面から撤去して父兄席の後ろに移して、日の丸を正面に貼り付けてしまった。


  この6年3組は、5年生の時には「クラス崩壊」していた。担任は何度も変わり、最後は教務主任が強権的に子供を抑えて、担任の代わりを果たす。いじめも絶えなかった。6年で新しく赴任して来た先生が担任になる。6年の教師集団も意思が通うようになった。新しい担任井上龍一郎先生は、「クラスの旗」を作ったり、授業にも工夫を加え、不断の努力で子供達を変えていった。やがて卒業式の時期になり、「卒業制作」で「ゲルニカ」の大きな大きな幕を作る。素晴らしい出来映えだったと言う。この制作には多くの時間が割かれ、子供達の学びが続き、緩やかな団結を育んだ。  生徒たちは「ゲルニカ」の幕を卒業式場の正面に飾りたいと考えたが、校長が日の丸・君が代にこだわり職権でやると譲らない。何度も職員会議が開かれ、式の委員会でも「ゲルニカ」が推されたのである。
 卒業式当日、式次第が「国歌斉唱」まですすんだとき、卒業する」六年生の女の子が、「歌いません」と大きな声で発言し着席すると同時に、卒業生の約四分の一が着席、父母の中にも同調する人がいた。卒業証書授与の順番が、この女の子に回ってきたとき、彼女はこう発言した。卒業生は全員が父母席に向かって、決意を述べることになっていたからである。
 「私は『ゲルニカ』をステージに貼ってくれなかったことについて深く怒り、そして、侮辱を感じています。校長先生は私たちを大切に思っていなかったようです。『ゲルニカ』には、平和への願いや私たちの人生への希望も託していたというのに、貼って下さいませんでした。私は、怒りや屈辱をもって卒業します。私は絶対、校長先生のような人間にはなりたくないと思います」
 来賓席からは、下品な野次が飛んだ。このほかにも、十数名の卒業生が、「ゲルニカ」にふれて決意を述べた。この日から、この女の子と担任への地域ぐるみのいやがらせが始まり、担任は教育委員会から懲戒処分。このとき、日の丸は国旗ではなく、君が代は国旗でもなかった。
  2007年06月16日 のゲルニカ事件を取り上げたあるblogに書き込みがあった。
 井上先生懐かしい。私はゲルニカの絵を書いた6ー3の生徒だった者です。あれから色々あったけど、小学校の卒業式が一番の思い出です。井上先生から受けた教育は忘れられません。きっと元3組のみんなも、そう思ってると思います。一番今でも大好きな先生です。
  着任後たった一年で、崩壊していたクラスを見事立ち直らせた井上先生への信頼は、厚いことがわかる。

 子どもの気持ちを考えて、彼は提訴。裁判は最高裁まで持ち込まれた。東京のtv局はこれを「ゲルニカ裁判」と名付けた。裁判中担任は、右翼に付け狙われ、危険な場面も度々あった。ドスを右手で掴んだときには、ポロポロと指先が落ちた。彼は裁判で敗訴。定年を数年残し退職し「書家」となった。
 「君は、国旗への忠誠、国歌の斉唱、その他類似の行事への参加を強制されない」
 これは、アメリカ・マサチューセッツ州高校生が、教育委員会の援助の下につくった高校生の人権ガイドの一項目。
  もし、この事件がフランスで起こっていたらと考えてしまう。
 フランス刑法431条1項 「表現、就業、結社、集会、もしくはデモを妨げる行為は、共謀及び脅しを用いた場合は1年の禁固刑及び1万5千ユーロ(約208万円)の罰金、暴力及び損壊行為によるによる妨害の場合は3年の禁固刑及び4万5千ユーロ(約625万円)の罰金に処す」
  こどもたちの、表現を妨げた校長やヤジを飛ばした人(実は、平和教育を敵視する地方議員であった)が罰せられることになる。法は弱い者を守る、それが法治国であり立憲主義である。

  この校長が、もし教育者であれば、自分の在職中、学級崩壊になすすべ無かったことを恥じ、詫びる筈である。その上で子どもたちの意思を尊重し、6ー3の苦難と再生を振り返り総括すべきだった。折角の機会を自ら台無しにしている。

弱さは罪ではない、弱者を守るのが法

 すべての大人や教員がコルチャックのようであれば、「子どもの権利条約」そのものが必要ないのです。ナチスドイツがどんなに過酷な政策で、ワルシャワのユダヤ人を弾圧しても、コルチャックは平然とそれを無視し抵抗し子どもを守りました。
1968年10月2日、メキシコ政府はトラテロルコ三文化広場に集まった
学生たちを弾圧。わずか30分ほどの間に、数百人の死者
と数千人の逮捕者・行方不明者が出た。トラテロルコ事件である。
写真は政府側のカメラによるもの、逮捕された学生が下着姿にされ
軍隊の監視下に置かれている。報道は徹底的に管理された。
 もともと人間には、間違った政府・間違った法に抵抗する権利があります。間違った政府に従わない勇気をすべての人がもっていれば、どんな暴政もすぐ壊れてしまうのですが、そうはいきません。人間はみな弱いのです。学校によっては、高校生はデモに参加しただけで、退学処分にされかねません。退学させられる覚悟で不正とたたかう勇気は、なかなか持てません。デモへの参加が逮捕に結びつく国では、なおさらです。
 弱いことは罪ではありません。弱い者を守るのが法律です。言いたいこと、やりたいこと、抗議したいこと、協力したいことがたくさんあるのに、罰せられたり、不利に扱われたり、仲間はずれにされるのが怖くて実行できない、そんな弱い一人一人のためにも「子どもの権利条約」はあるのです。子どもの表現の自由や集合の自由が認められる社会では、子どもは罰を恐れることなく自分たちの言い分を掲げて行動できるのです。
                                                    
 今、日本の子どもたちは、勉強でも生活でも絶えず競争に追われています。競争でトップに立っても、心は休まりません。抜かれないように、走り続けなければなりません。競争させられるだけではなく、同質化することも同時に迫られます。これはとても幸いことです。
 多様であることが大事にされていれば競争は激化せず、参加しないことも降りることも簡単です。競争しながら同質化しなければならないとしたら、皆でいつまでも走り続けなければなりません。降りたら置き去りにされてしまいます。
 子どもにとっての不幸は、状況の厳しさばかりではありません。もっとも苦しいのは、自分らしく生きられない、自分のなりたいものになれないことです。まったく意味のないトップを決めるための競争で、自分らしく生きることをがまんしてトップになった子どもも、自分のなりたいものにはなれません。偏差値の高さが邪魔をして、人付き合いが苦手なのに、医者や弁護士を目指してしまうことがあるからです。子どもの競争は、学校という組織を介して行われています。
 子どもが、学校やその他の組織から自由にならなければ、子どもの苦しみはなくなりません。子どもの苦しみは、子ども自身が闘うのでなければ無くなりません。「子どもの権利条約」は、その手段の一つです。
                                      拙著『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版

心理カウンセラーや教師が、白衣を着たがる哀れ

  臨床教育学という言葉を怪しいと僕は思う。教育現場の具体的課題を扱うのに、何故医学的言葉「臨床」を用いるのか。誰がどこに、横たわっているのか。建設現場の問題に密着した学問を、臨床土木工学というのだろうか。具体的課題に密着してこそ「教育学」ではないのか。そうでない教育学を、教育学・学と呼んだり空理教育学と呼んだほうが相応しい。

 「臨床」は、心理カウンセラーや教師が白衣を着たがるのに似て哀れである。白衣はハンセン病療養所内分校派遣教師のそれのように、自らと労働対象の隔離宣告である。
 現場・教育学などと言えば、そこに漂う泥臭さが嫌だったのか。Clinical Pedagogyの下手な直訳か。臨床という言葉に残る「白衣」的語感。現場の問題に密着すると言いながら、高みに上半身を置きたがる。教師を、魂の医者と書いた本までがあった。
 現場で役立たない土木技術・理論は意味がない。教育学も全く同じではないか。
 ある日のある教室でのやりとりから、失敗から、日常から出発しない教育学・学。ソクラテスやヘルバルトから始まり衒学的議論に走る「学」こそ、そのまま病床に送るべきものとして「臨床」の語を掲げねばならない。
 巷間言うところの「臨床教育学」は、一体何を病と見立てて、誰を医者と見なしているのか。教育における「病」は、教育行政と管理構造、格差と選別のあるところに発症する。例えば「教育原論」こそO月O日のO先生のO教室でのやりとりに徹頭徹尾こだわり、そのうえで普遍性ある記述が必要なのである。しかし、もしそれを書けば「経験的教育原論」「エピソード教育原論」と揶揄されるに違いない。ハンセン病療養所全生分教室の青山先生なら、どのような「教育原論」を書いただろうか。
 沢柳政太郎は、1908年に文部次官を退き『実際的教育学』を著し、「教育学」学に警鐘を発した。後に成城小学校を作るが、『実際的教育学』そのものが実際的でなかったことを反省してのことだと思う。

  「社会現象に医学上の範疇を適用するのは本当に理にかなっているだろうか・・・」(『バーガー社会学』学習研究社)。
 ライト・ミルズは《社会病理学者の専門的理念》と題した論文の中で、「社会病理」は、社会学者の帰属する社会層(中流階級・知識階級)の反映でしかないということを証明して久しい(『権力・政治・人民』みすず書房)

アレントの「活動」と部活の「活動」

  ハンナ・アレントは人間の働きを少なくとも3つに分けて考察している。労働(labor)、仕事(work)、活動(action)。
 そして、活動による真の政治参加を呼びかけた。この政治参加は投票に行くということではない。サルトルが重視したアンガージュマンでもない。"公共の生活"の新たな再生である。
  シモーヌ・ブェィユも「本当の人生は、感覚ではなく、活動-考え、行動するという意味での活動です」という文脈で「活動」を使っている。

  フランスの彼女たちが使う「活動」に対して、日本のクラブ活動や就活などの「活動」は、「火山活動」「活動写真」の単語が示すように、現象として活発に動いていることに過ぎない。つまり主体抜きの「活発」さだけが「活動」の要である。
 だから学校でこれら「活動」が禁じられることはない。むしろ奨励され、義務づけられ、強制される。学級活動、清掃活動・・・。
  就活にも、生きる主体としての若者の姿は見えない。どこまでも、雇って「もらう」ための迎合する眼差しに満ちた手続きに過ぎない。
 例えば、若者が職場を訪問して、この職場で「私にどんな仕事をさせたいのか」、「私はこんな能力を持っている、それをここは生かせるか」。「どんな待遇で雇うのか、差別はあるのか」。「組合は、私の当面の要求は・・・」などという交渉をすることが出来るだろうか。高校入試の面接でさえ、中学生が「体罰した教師の罰則はありますか」とか「セクハラはありますか」「私は、いじめから守られますか」などと聞く場面は想像できない。促しても、ありませんと呟くだけであった。「部活」から「終活」までおぞましい限りである。
 Actionとは、先ずは主張し行動して、相手に能動的に働きかけることである。そのことを通して「公」を形成する主権者となる筈であった。
 我々の言葉が、歴史的に洗練されていない。常に強者の成り行き、流行り任せである。

Tinker事件判決 1969年


喪章をつけて13歳のMary Beth Tinkerさんが登校したのは1965年
彼女のその後については、英文中にある。素晴らしい生き方だ。
ベトナム戦争反対の意思表明をするために喪章を着けて登校したことを理由に、13歳の公立中学生が停学処分を受けたことを巡るアメリカの裁判。意思表明のために腕章を着けることが、憲法問題になり得るかについて、このような非言語的行為による意思の表明は、「純然たる言論」に極めて近いものと判断し、憲法修正第1条の「言論および出版」の自由(表現の自由)の問題となることを認めている。
 学校で生徒の人権保障がどのように扱われるかについて、この判決の次の箇所が繰り返し引用される。
 「われわれの制度では、州の運営する学校は全体主義の飛び地であってはならない。学校職員は生徒に対して絶対的な権限を有するものではない。生徒は学校内においても,学校外におけると同様に,わが連邦憲法の下での『人(persons)』である」「修正第1条の諸権利は、学校という環境の特質に照らして適用されるにしても、教師および生徒に対して認められている。生徒あるいは教師が,言論ないし表現の自由に対する各自の憲法上の諸権利を校門の所で捨て去るのだとは,とうてい主張できない」
と宣言し、自明のこととした。それ故、憲法上の正当な理由がない限り、生徒の言論を規制することはできないとした。

  Mary Beth Tinker was a 13-year-old junior high school student in December 1965 when she and a group of students decided to wear black armbands to school to protest the war in Vietnam. The school board got wind of the protest and passed a preemptive ban. When Mary Beth arrived at school on December 16, she was asked to remove the armband. When she refused, she was sent home.

Four other students were suspended, including her brother John Tinker and Chris Eckhardt. The students were told they could not return to school until they agreed to remove their armbands. The students returned to school after the Christmas break without armbands, but in protest wore black clothing for the remainder of the school year.

Represented by the ACLU, the students and their families embarked on a four-year court battle that culminated in the landmark Supreme Court decision: Tinker v. Des Moines. On February 24, 1969 the Court ruled 7-2 that students do not "shed their constitutional rights to freedom of speech or expression at the schoolhouse gate."

The Court ruled that the First Amendment applied to public schools, and school officials could not censor student speech unless it disrupted the educational process. Because wearing a black armband was not disruptive, the Court held that the First Amendment protected the right of students to wear one.

その後

Tinker remains a frequently-cited Court precedent. In Morse v. Frederick, the Supreme Court will decide whether Tinker remains good law, and whether the First Amendment continues to protect the right of students to express controversial views that are not disruptive but may disagree with official school policy. 

On Morse v. Frederick:

"With that slogan, he's proven once and for all that teens, with their creativity, curiosity and (to some), outrageous sense of humor, are naturals when it comes to holding the First Amendment to the test of time, even in these times." - Mary Beth Tinker

Mary Beth Tinker continues to educate young people about their rights, speaking frequently to student groups across the country. She is also active in directing the Marshall-Brennan Constitutional Literacy Project at American University, which mobilizes law students to teach courses on constitutional law and juvenile justice at public schools. Tinker is a registered nurse, an active leader in her union, and holds masters degrees in public health and nursing. In 2006, as a tribute to Tinker's devotion to the rights of young people, the ACLU National Board of Directors' Youth Affairs Committee renamed its annual youth affairs award, the "Mary Beth Tinker Youth Involvement Award."

写真および英文記事は、アメリカ自由人権協会HPから


嘘に塗れた戦争 2

  承前
 米国の元外交官ダン・シムプソンは次のように談話している。
Pittsburgh Post-Gazette 電子版
  「米国が、武器取引を続け、戦争を引き起こしている間は、地上に平和は訪れない・・・2015年末の段階で、米国について述べるならば、次のような結論に達する。 
 それは『我々は、まるで殺人民族だ。自分達の家の中でも。外国でも人を殺している』というものだ。・・・ 国内で、米政府は、規制することもなく武器を売らせ、その事は、教会や学校も含め、あらゆる場所での殺人行為を引き起こしている。一方国外で、米国人は、殺し屋とみなされている。 他の国々は、米国が自分達に己の意思を押し付けないよう、自分の神、あるいは神々に祈るしかない。彼らは、米国が、己の目から見て相応しい統治形態を、自分達の元で確立しようとしないよう、また爆弾を投下したり、指導者を殺害するために無人機を飛ばしたりするための口実として何らかの自分達の違反行為を利用したりしないよう、ただ祈るしかない。 
 イラクやアフガニスタンから、リビアまで米国により破壊され、イエメンは、米国の援助のもとサウジアラビアが破壊している。 外国人の大部分は、米国は、世界共同体に脅威をもたらす狂人のように思っている。 米国の所謂『同盟国』のいくつかは、殺人をよしとする我々の傾向をいくらか抑えようとするだけだ。例えば、英国がそうだ。 米国が、自分達の武器の巨大市場にしたいと欲しているインドが、米国とでなくロシアと関係を持つことをよしとするのも偶然ではない。 米国は、自分達の軍部隊を祖国に戻さなくてはならない。我々が、それをしないうちは、この地上に平和はない。 さあ米国よ、人殺しを止めようではないか!」    独 Pittsburgh Post-Gazette
追記 1894年2月、甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると、朝鮮王朝政府は清に出兵を要請した。日本も天津条約を口実に出兵。朝鮮政府は農民軍といったん講和。農民戦争の講和で日清双方の出兵理由がなくなり、6月に同時に撤兵することで合意した。しかし開戦の機会をさぐる陸奥宗光外相はこれを破棄し、代わって両国で朝鮮の改革に当たることを提案した。理由のないこの提案を清側が拒否すると、陸奥は大鳥圭介公使に対し「いかなる手段を取ってでも開戦の口実を作るべし」と指令したのは、よく知られた事実である。

嘘に塗れた戦争 1

 イラクのフセイン大統領はアルカイダ嫌いだった。大量破壊兵器を持っていないことを証明するため、国連査察団に調査もさせ、結果は“シロ”。にもかかわらずアメリカは「48時間以内に大量破壊兵器を出さなければ攻める」と最後通牒を突きつけ、攻撃を開始。後から「中東を民主化しなければ」という理由を出したが、親米政権の独裁国家、サウジアラビアやクウェート、アラブ首長国連邦の民主性については触れないまま。イラクそしてアフガン攻撃の発端となった9.11事件も、アメリカの自作自演である可能性が高く、それを告発するサイトは既に山ほどある。戦争のための“嘘”は、アメリカの“お家芸”である。

・1898年、キューバに派遣された米戦艦メイン号は、ハバナ湾で突然爆発して沈没。250人の米国人乗組員が死亡。米国政府は、それをスペイン軍砲撃のせいにして、スペインとの戦争に突入。その結果、米国はキューバ、プエルトリコ、フィリピンを手にいれている。
 最近の海底調査で、メイン号はボイラー事故か火薬庫の暴発で内側から爆発したことが判明。スペイン軍の攻撃ではなかったことが、科学的に証明されている。

・1915年、第一次世界大戦中の1915年5月7日、アイルランド沖を航行していたイギリス船籍客船ルシタニア号がドイツのUボートから放たれた魚雷によって沈没。アメリカ人128人含む1198人が犠牲となった。この、ドイツの“野蛮な”攻撃に対してアメリカの世論は沸騰。それまで中立であった米国議会でも反ドイツの雰囲気が強まっていき、第一次世界大戦に参戦。10万人以上の米兵を戦死させた。
 ところが、積み荷の保険金請求裁判の目録には船倉に173トンの弾薬があることが記入されており、当時の国際法に照らし合わせるとルシタニア号は攻撃を受けても致しかたなかったことになる。しかしウィルソン大統領は弾薬の積載を認めず、目録を「大統領以外は開封禁止」という命令書を添えて財務省の倉庫に保管させていた。
また、最近の海底調査で沈没したルシタニア号が発見され、その船内には違法の武器と火薬が積載されていたことが判明。やはりルシタニア号は当時の国際法に違反していたことが証明されたのである。

・1964年、北ベトナム沿岸をパトロール中の米駆逐艦に北ベトナム哨戒艇が攻撃を加えたと言い募り、ジョンソンは、“報復”と称して米軍機による北ベトナムへの爆撃を断行。米議会は、大統領の求めに応じて、事実上、大統領に戦争拡大の白紙委任を与える“トンキン湾決議”を採択。ベトナム戦争は以後一気に拡大。 
 1971年、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者が“ペンタゴン・ペーパーズ”と呼ばれる機密文書を入手。トンキン湾事件はアメリカが仕組んだことを暴露した。後に、当時の国防長官ロバート・マクナマラも、に『回顧録』(1995年)で「北ベトナム軍による8月4日の攻撃はなかった。トンキン湾決議によって与えられた権限を大統領は極端に濫用した」と告白した。


 「われわれヨーロッパ人にとって、人種差別的ヒューマニズム以上に筋道の通った話はない。なぜならヨーロッパ人は、奴隷と怪物を拵えあげることによってしか、自己を人間とすることができなかったからだ」
     ファノン『地に呪われたる者』サルトル序文

平和憲法は日本だけではない

  我々は、平和憲法は日本の専売特許と思っているところがある。そんなことはない。少しだけ挙げる。
       コスタリカ 
 「コスタリカの常備軍すなわちかつての国民解放
首都サンホセで国連旗や各国の国旗を持ち行進する子どもたち
軍はこの要塞の鍵を学校に手渡す。今日から ここは文化の中心だ。第二共和国統治評議会はここに国軍を解散する。」、ホセ・フィゲーレスが
演説したのは1948年12月1日 
 常備軍の廃止は、コスタリカ共和国憲法第12条に規定されている。以来政情不安定な中米で70年も平和を維持してきた。中米の紛争を解決に導いた功績で、1987年には当時のオスカル・アリアス大統領がノーベル平和賞を受賞している。 ホセ・フィゲーレスは「兵士の数ほど教師を」をスローガンに突如軍隊を撤廃。驚くべき文化的革命である。この歴史的出来事を経て、コスタリカは軍事予算を撤廃。教育費に国家予算の3割を費やし無償化。医療費も無料とした。国民の幸福度の最大化を目指す福祉国家へと向かったのだ。教育への熱心さは憲法にも現れており、憲法でGDPの8%を教育費に使うと明記している。                                                    

                                       憲法第12条 
 恒久的制度としての軍隊は廃止する。 公共秩序の監視と維持のために必要な警察力は保持する。
 大陸間協定により若しくは国防のためにのみ、軍隊を組織することができる。
 いずれの場合も文民権力にいつも従属し、単独若しくは共同して、審議することも、声明・宣言を出すこともできない。
                                                ボリビア  
2009年1月、新平和憲法を制定。その平和憲法により、国家間の違いと紛争を解決するための手段として、戦争による攻撃が拒否され、世界平和と、ボリビアと他国間の協力が促進される。
                        憲法10条
1 ボリビアは平和を愛する国であり、各国々に対して尊敬の念を抱き、共通の理解、公正な発展、そして異文化間交流の促進に貢献するために、ボリビアと他国間の協力はもちろんのこと、平和と平和にたいする権利を、ボリビアは促進する。
2 ボリビアは国家間の違いと紛争を納めるための方法として、戦争による攻撃を拒否する。そして、ボリビアの独立を侵すような攻撃を他の国から受けた場合、ボリビアの独立と安全を保証するために、自衛の権利を保持する。
3 ボリビアの領地に、外国の軍事基地を置くことは禁止される。
                                                エクアドル  
2007年4月、新憲法制定、憲法ではエクアドルが平和国家であると規定、他の国がエクアドルに軍隊を置くことを禁止している。軍隊の役割は、自衛だけのものに限られる。 
                憲法5条
 エクアドルは平和国家であり、軍事目的のために諸外国がエクアドルに軍事施設を置くことは許されない。 
 諸外国の軍隊に、エクアドルの軍事基地を受け渡すことも許されない。 
 国際平和と軍備縮小を目指し、私達は大量破壊兵器の開発と所有に強く反対し、軍事目的の為にある国が、他の国の領地に軍事施設を置くことにも反対する。
                 
   日本がこれらの国との緩やかな国際機関を立ち上げて、沖縄に拠点を置いて活動できる日が来るだろうか。勿論そのときには、米軍基地も核兵器も、違憲宣言して全面撤去。あらゆる国と平和条約を結ばなければならない。

ダブル・スタンダードと人権 2

  承前
 
英ロンドン中心部で、
学校への公平な助成を求めるデモに参加した子どもたち
人権とは何か、権利とどう違うのか、また何が権利で何が人権か、考えてみたことがありますか。先生や親に聞いたことがありますか。きっと、「校則も守れないやつに、そんなことを聞く資格はない」とか「そんなこと考えないで、勉強しなさい」と言われてしまいます。

 人権について無知なのか、自分の立場を守るために知らぬふりをしているのか、考えてみようともしないのか、いずれにしろ人権についての認識があいまいであることが、学校の内外での人権の無視・軽視を放置させているのです。さらに、生徒が学校でも社会でも弱者であることが、いっそう生徒の人権を尊重しない風潮をあおっています。ダブル・スタンダードで行動する者は、強い者に弱く、弱い者に強いのが常だからです。

 覚えておいてほしいことの第一は、人権はそれを主張するにあたって、何の根拠も前程も必要としないということでず。たとえば、公道上で自動車を運転するためには運転免許証が必要で、これは退路交通法に基づいています。つまり、事を運転する権利は、道路交通法による免許の所有が前提となっているわけです。したがって、国家は法を変えることによって、車を運転する権利を制限したり拡大したり、場合によっては停止したりすることができるのです。しかし、人が公道を歩くのに、まともな国では免許や許可証を必要としません。 これを、「往来の自由」と言います。歩くのに許可書を必要とする社会は、ナチ支配下のヨーロッパなど人権の停止された社会です。
 中学生や高校生が頭髪や服装の自由を要求すると、学校や親は生徒に自由にしたい理山、自由にすることの利点…などを挙げるように求めます。もし、学校が頭髪や服装の自由を認めない理由づくりのために、それをしているとしたら、それは学校が人権とは何であるかについて、無知だということを示しています。
 頭髪の自由は、後述するとおり人権です。それだけで十分です。人権の一つである生命の自由を主張するのに、根拠や前提を求める人は、誰もいないのと同じです。
 第二は、人権は誰も奪えない奮ってはならない個人の権利であるという点です。たとえ国家であっても、人権を奪うことは許されないのです。権利は法律によって奪ったリ、与えたりできます。しかし、人権は国家ですら奪えないのですから、たかが校則で人権を奪うことなど当然できないのです。もし、生徒の人権を無視する校則があれば、校則が聞違っているのです。もちろん、人権を奪う法律も聞違っているのです。たとえば、公立学校の教師は労働組合をつくる権利も、労働条件をめぐって交渉する権利も、ストライキをする権利も、地方公務員法によって奪われています。しかし、先生の多くは、組合を結成して加入するばかりでなく、ときにはストライキも行ないます。
 団結権もスト権も労働基本権であり、人権です。法律が間違っているのです。だから、先生たちは堂々と労働組合をつくり、ストライキを行います。
 法にそむいてまでも、労働者としての自分たちの人権を守ろうとする教師たちは、生徒の人権についても、同じ姿勢を示す必要があります。
 民主社会において法秩序が形成されるのは、法や規則などが人権を侵さないという前提があってのことです。国でも学校でも、秩序を保つためには、「きまりがある以上、守らねばならない」という態度をとるのではなく、人権を奪い不当に制限する間違ったきまりそのものを、なくす必要があるのです。
 「子どもの権利条約」では、子どもの人権とともに、子どもの権利についても言及しています。それは、子どもが大人と異なり弱い存在であり、大人とは別に子ども独白の権利が必要だからです。 

  子どもの権利を豊かにすることも大事なのですが、今、日本では子どもの人権すら侵害されています。
    樋渡直哉『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版から

ダブル・スタンダードと人権 1

渡辺崋山 寺子屋図「一掃百態」
ここにダブルスタンダードのない教室の
原型がある。
 北九州市の中学生の匿名投書が、新聞に載りました。

 「私たち中学生は、毎年十二月近くなると、人権週間にちなんで作文や詩を書かされます。また授業では、人権は守らなければならないと教えられますが、先生方の言うことは建前でしかないという気がしてなりません。差別されている人々の人権を守るように教わっても、私たち生徒の人権は尊重されていないように思われるからです」
(1989.10.10 朝日新聞「子どもテーマ相談室」)
と、学校の授業内容について根本的な疑問を提示しています。その中学生は、人権が尊重されない具体的な事例として、持ち物の検査を挙げ、
 「例えば、生徒のカバンを断りもなく開けて見るのです。雑誌、漫画、お菓子などが出て来たら即没収です。それも、生徒の留守にやるのです。物を没収されなくても、他人に自分のカバンを勝手にあきられるのは、気持ちのいいものではありません。これはもうプライバシーの侵害ではないでしょうか」と、抗議しています。 
また、「ブス」「ブタ」などと生徒に暴言をはいたり、体罰に肯定的な教師が少なくない現状について、その変革は絶望的だとさえ感じています。その結論として、
 「人間のプライバシーを侵害し、言葉の暴力で人間の尊厳を侮辱している人間が、別の場では 『人権うんぬん』などと、もっともらしいことを教えているのです。私はすべてとは言わないけれど、先生を信頼できなくなりました」
と結んでいます。

 ダブル・スタンダードという言葉があります。人間や団体は、善悪・好き嫌いなどについて、多かれ少なかれ何らかの基準をもって、判断、行動をします。まともな人間や社会は、その基準が誰にもいつでも一致しているものです。少なくとも、一致させようと努めます。

 1991年冬、アメリカ合衆国を中心とする多国籍軍は、イラクが国連決議を守らないことを理由に、イラクに軍事的制裁を加えました。この紛争で、日本は国連中心主義を掲げて、海上自衛隊の掃海艇をベルシア湾に派遣しました。だが、同じょうにイスラエルが数十年間にもわたって、パレスチナ・ヨルダン川西岸・ゴラン高原などを不法に占拠し、度重なる国連決議を無視し続けても、アメリカはイスラエルに軍事制裁を加えようとはしません。また、南アフリカ共和国が国連による再三のアパルトヘイト撤廃決議を無視したときも、アメリカは軍事制裁を加えようとはしませんでした。多くの国が南アフリカ共和国への経済制裁に踏み切ったときも、アメリカと日本は、最後まで貿易を続けようとしました。イラクに侵略されたクウェート人の人権は、イスラエルに占領されたパレスチナ人や、アパルトヘイト政策に苦しめられた黒人の人権より重いのでしょうか。アメリカ政府も日本政府も、人権尊重と国連中心主義を口にしながら、相手が変わると態度を変えてしまいます。
 基準が一致していません。まるで、別の基準を適用しているようです。これを、ダブル・スタンダードと言います。こんな国が、国際社会で信用されるわけがないのです。
 そして残念なことに、学校社会もまたダブル・スタンダードの世界です。投書した北九州の中学生の指摘するように、「人権を守れ」と言った先生が暴力を振るうのです。ナチスによるユダヤ人虐殺を、黒板の前で勇ましく糾弾し、人権の不可侵性を主張した先年が、校門の前で頭髪の検査をし、服装違反の生徒を帰宅させてしまうのです。学校から遠い世界、たとえば南アフリカ共和国の黒人の人権にはいくらでも敏感になるのに、学校内の身近な人権については、急ににぶくなるのです。自分の言葉を自分の行動が裏切っていては、生徒の信頼を得ることはできません。信頼が無くては、授業も成立するはずかありません。成立するはずのない授業を無理強いすることで現れるのが、管理と暴力、しらけといじめです。学校がもっとも大切にすべき学ぶ喜びや人格の形成といった要素が、ここにはありません。
                                          (人権は誰も奪えない)
 生徒たちは当たり前の人権か無視される学校の状態について、〝対抗する手段〟をもっていないのでしょうか。対抗し、子どもの人権を守ろうとする生徒の手肋けとなるものはないのでしょうか。
 それを一緒に考えるのか、この本(拙著『子どもの権利条約とコルチャック先生』)の目的です。               
                                                                              つづく

小学生も憲法違反の訴訟を起こせるコスタリカ

コスタリカでは議会議事堂も質素
 「小学2年生の少年が放課後、サッカーに興じていた。ボールが校庭そばの川によく落ちた。柵がないからだ。夢中になればボールは川に落ちる。これは遊ぶという自分の権利が守られていないと、訴訟し子どもが勝った。国は柵を後日つくることになった」これは、物語の一節ではない。コスタリカの日常である。

 コスタリカでは小学入学時に、徹底して基本的人権を教える。子どもたちに理解しやすく、「人は誰でも愛される権利がある」というふうに。少年たちは、サッカーに興じる環境が十分でない現実を、自分は愛されていないと受け止めたわけである。

 最高裁の、違憲訴訟の窓口「憲法小法廷」は1日24時間、1年365日、休みなく開いている。年間1万5千件を超える違憲訴訟が行われている。自分の自由が侵されたとか束縛されたと思うなら、だれでも違憲訴訟できる。
  本人でなくてももいい。弁護士も、訴訟費用もいらない。訴えの内容を書けばいい。決まった書き方などなく、「新聞紙の端切れ」でもいい。パンを包んだ紙に書いた人もいた。ビール瓶のラベルの裏に書いた人もいた。わざわざ窓口に来なくても、ファクスで送ってもいい。最近は紙に書かなくてもよく、携帯のメールでも受け付けるという。訴えるのは外国人でもいい。小学生も憲法違反で訴えるのだ。こんな制度を作る議会を持つ国民は、幸福である。この国は、軍隊が無いだけではない。軍隊を廃止した思想と文化が根付いている。

 ある小学校に隣接する施設で、ゴミ大量投棄で汚染が広がった。臭いがひどく、落ち着いて勉強もできないし校庭で楽しく遊ぶこともできない。そう思った生徒が「私たちの学ぶ権利が侵された」と違憲訴訟に訴えた。
 最高裁はこれを妥当な訴えだと取り上げ、子どもの環境に対する権利を認め、投棄したゴミを回収し、以後の不法投棄をやめるよう判決を下した。

 別の小学校では、校長先生が校庭に車を停めたために遊ぶ範囲が狭くなったと子どもたちが訴えた。最高裁の判決は、校庭は子どもたちが好きなだけ遊ぶ場所だと定義し、校長の行為は子どもたちの権利を侵害したとして、校長に車をどかすよう命じた。
 「ささいな」ことのように思えることでも、権利の侵害はいささかでも放置しないという意識が根底にある。

 もちろん重大な違憲判断も行う。国会で審議中の税制改革の法案が取り上げられ、正当な審議プロセスを経ていなかったとして違憲の判断が下ったこともある。
 2003年に米国がイラク戦争を始めたとき、当時のコスタリカの大統領は米国の戦争を支持すると発言した。このため米ホワイトハウスのホームページにある米国の有志連合のリストにコスタリカが載った。これを見て大統領を憲法違反で訴えたのが当時、コスタリカ大学3年生ロベルト・サモラ君。「平和憲法を持つ国の大統領が他国の戦争を支持するのは憲法違反だ」と訴えた。
 1年半後、彼は全面勝訴。判決は「大統領の発言はわが国の憲法や永世中立宣言、世界人権宣言などに違反しており違憲である。大統領による米国支持の発言はなかったものとする。大統領はただちに米国に連絡しホワイトハウスのホームページからわが国の名を削除させよ」というものだ。大統領は素直に判決に従った。
  大統領を訴えたロベルト・サモラ君はコスタリカの韓国大使になった。facebook人権教室
          
 中央区議会議員 志村たかよし氏(共産党)やフリー・ジャーナリスト伊藤千尋氏のblogを参照した。

追記 大阪の不味い給食、死者や怪我人の出る体育や運動会、車で危険な通学路、遊び場のない保育園などは、コスタリカの常識では子ども自身が違憲訴訟を起こすべき事例である。幼稚園や保育園に入れない子ども、子どもの貧困、受験地獄、高い制服、茶髪禁止による被害・・・すべて、今までとは異なった観点からの闘いが期待できる。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...