文章の10年後の高校。セーラー服生徒のスクラムの 向こう側に、ヘルメットとセクト旗が見える。 |
こういう高校生は、原水爆禁止運動をすすめる高校生(仙台・東京)生徒会連合をすすめる高校生(高知・京都)だけでなく、すでにあちこちにその姿をあらわしている。
しかも、そういう社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的であるし、それが、一、二の高校だけの現象でなくて、私たちの乏しい見聞によっても、どの学校にもでてきている。
「勤評闘争、安保改悪反対いろいろ論争したけれど、みんな真剣に考えるようになった。少しずつ明るい未来が近づきつつあることを切実に感ずることが、最近ことに多い」と新潟の仲間から、三重の私のもとにいってきている。確かに、政治的無関心もある。「自衛戦争は正しい」という高校生もいる。「アメリカは民主主義国、ソ連は非民主主義国」と「中学校で習って」きた生徒もふえている。だが、
「勤評は校長先生が行う。しかしどんな先生がよい先生であるかは私たちこそ知っている筈である。勤評を行い、文部省の狙いどおりになる教育が行われ、先生と私たち、将来の生徒との間にみぞができたら。…みぞならいい、もっと恐しいことがおこらないとはかぎらない。そんな所にカを入れるよりは、もっと日本の独立のためにカを入れてほしい。小林委員長が痛々しい姿で羽田へつかれたと聞いたとき私はふっと歌った。、わかものよ、からだをきたえて′おけ、美しい心がたくましい体にからくも…その日のために…」 (三年女)こういう生徒もまた、ふえてきているのである。そういえば、勤評闘争の時に、私たちもよく会議したし、生徒たちもよくよって話し合っていた。冷やかに両者をくらべてみると、教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い。
そうだとすると、こういう、よい傾向を、確かにみつめ、それをのばしてやるのが、高校教育なのでないだろうか。
それなのに、かれらが成長してくると、「生意気になってきた」と怒り、かれらが社会的関心をしめすと、教師の方が抑えてかかったりすることはないだろうか。昔、軍隊生活を経験した人は、一〇・五の軍靴をわりあてられた一〇・七の足の男が、それを訴えると、上等兵などから、「なんだと、足を削れ、足を」といわれたことを知っている。それでも靴はとりかえてくれた。教育の仕事は、このように具象的でないために、案外、それと同じことを、教師がしていることはないだろうか。まちがった教育愛や、必要な支援の不足が、かれらの生活に、靴ズレをつくり、しかも化膿するまで見おとしていることはないだろうか。おたがい高校数師は、生徒をみつめるのにもっともっと努力する必要がある。
竹田友三 高校教師論 1960 三一書房
「教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い」
同じことを、中野重治も書いている。他の論者たちも同様の指摘をしている。それが何時、どんな切っ掛けで、教師の「指導」が優位になってきたのだろうか。一つのヒントを、竹田は言っている。「・・・社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的である」
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