詰まらない授業には騒いでこそ「けじめ」

 授業改革の主体は誰か。 

 1980年代までは、「校内教研」(教研は日教組や高教組の組合員で構成する研究協議会。各職場の教研委員を中心に校内教研、地区ごとに週一回程度の教研、学期ごとに都道府県ごとの教研、毎年の全国教研が組織されていた。「教え子を再び戦争に送るな」は第一次全国教研集会のスローガン)や「生徒と教師の集い」など、教師・生徒双方の自主活動が活発だった。前者は組合分会が、後者は生徒会執行部が主催した。

 僕が青年教師だった頃、下町のある工高の「生徒と教師の集い」で教師の授業への批判注文が続出した。会場は普通教室の倍ほど、教師も生徒も一言言ってやろうと詰めかけていた。年配の教師がこう反論した。
 「授業は落語や漫才では無い。面白さで笑わせるのが目的では無い、生きる上で欠かせない知識の習得が第一、辛いことに耐えてこそ成果が上がる。君たちには静かに耳を傾け、知識に向き合う事が求められる。」  小さな生徒が勢い込んで「ハイハイハイ」と手を挙げ

 「面白くて、役に立つ授業はあるよ。樋渡先生の授業を見習ったらいい」と言うと生徒の間から拍手が湧いた。
 この日の「集い」は白熱して、下校時間を大きく超えて対話は続いた。

 翌週の職員会議は、急遽「校内教研」に切り替えられたが、「樋渡にはめられた」との呟きが満ちていた。普段から「あいつの授業は生徒が騒いでいるだけだ。生徒に迎合して煽っている」との不満もあった。しかしそこで「ともあれ、彼の授業を見てみよう」と、互いに見せ合い相互批評しようではないかということになった。
  僕を胡散臭く思ってた教師達も教室に来た。教師達は先ず呆れた。教師がうしろに詰めかけても、生徒たちが一向に静かにならないからだ。最初は苦虫を噛み潰した表情がやがて神妙になった。


 職員室に顔を出すと、手招きする。
 「いやー驚いたよ。噂通り君の授業は煩い。煩いが、よく観察すると喋っている内容が違うんだ。授業の中身について喋っているんだね。後ろから教室に入って生徒の間に座っていると発見があるね。」
 「でも、ただ無秩序に煩いことも屡々。そんな時は諦めて教室を出て運動場や、付近を散歩しています。息抜きにもなりますし、生徒たちの会話の中から授業のヒントを拾うこともあります」

 高校生の頃だ、みんなが授業に乗り気でないとき「先生腕相撲しよう」と、どう見ても弱そうな僕が勝負を挑んだ。そんなとき、教師もなんとなく授業に乗り気でないことが多い。何人目かには教師はわざと負けるた。負ければ授業は休講になる。英語のG先生の腕っ節は生徒の誰より強かった。そんなG先生が教室に入るなり「おい!腕相撲しよう」と意気込むことがあった。大抵はアッサリ負けるのだが、時には強い生徒の何人かをねじ伏せることがあった。その日の英語は気合いが違っていた。
 
 詰まらない授業には騒ぐ、サボるという「けじめ」が今はない。教師と生徒の間から健全な緊張感が消え、墓場の秩序だけが漂っている。

   教師・生徒双方の自主的「教育改善」の努力=闘いが消えて、行政の介入が恰もやむを得ない正義であるかのように登場している事を知るべきである。行政法人化で自治権を奪われた教授会や議決権を奪われた職員会議は、もはや「授業」改革に関心は無い。


 詰まらない授業や堕落した学校運営に何ら反乱しない若者は、腐りきった政府に怒りもしないだろう。それが、権力の「教育」に期待する秩序である。生徒たちが詰まらない授業に文句を言いサボって実力行使をしていた頃、この工高の校内教研からは、数々の教材や授業方法が生まれている。 

自由な社会と奴隷社会を分つのは、自由な質問

  教師が監視する生徒総会は、自由な自治を学ぶに相応しいか。

 「自由は危険なものである。幼い息子一人で初めて道路を横断させれば、息子の生命を危険にさらすことになる。
しかしそうしなければ、被は一人で道路を横断できないまま成人するだろう。ナチズムの敗北後、ドイツを占領したアメリカが、ドイツ人に自由を与えろ道を選んだのは危険だったかもしれない。反ナチ党だった私の友人たちでさえ、完全なドイツ人だったから、「ネオ・ナチ」に言論・出版・集会の自由を与えることに反対だった。
しかし、ドイツ人をまず困らせたのは、自由のすべての危険性とともに、自由への恐怖だった。アメリカがドイツに自由を「与え」ないと決定すれば、ヒトラーが正しかったということになっただろう。
 自由な社会と奴隷社会を分つものは、自由な演壇上での自由な質問が慣例になっているかどうかだけである。
ミルトン・マイヤー『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』未来社 p167             

   学術会議任命拒否問題はそれ自体が、憲法や人権宣言に背馳しているが、この問題も的確に端緒を捉える必要がある。 若者たちが何故この問題に鈍感なのかに絞って、端緒を捉えねばならぬ。そうでなければ結末に対処する事もできないからである。
 人が物心ついて、公的な場で「自由な演壇上での自由な質問が慣例」となっていないことに気付くのは、小学校や中学校においてだろう。職員会議には生徒の参加自体が認められないだけでなく、記事録すら公開されない。まして質問や発言は思いもよらない。そもそも出席は「義務」である。
 生徒会や児童会は「自治」会の体を為していない。議題や議事進行マニュアルまでが事前に職員会議で決定される。(敗戦直後、新制高校発足から暫くは生徒の職員会議参加を認める動きもあった。大学学長選挙に学生が拒否権を持つ例もあった)

 僕自身苦い思い出がある。小6の学級会で担任「提案」の行事に意義を唱えたのだ。級友たちは仰天、僕と担任との激しい議論で1時間は瞬く間に過ぎた。このクラスは併設の幼稚園から数えると、8年間メンバーがほとんど変わっていない。担任はこう言った。「皆でお別れ会をやろう、グループごとに出し物をやるんだ。な!いいだろう」僕は猛然と反対した。その次第はここに書いた。←click

   僕をすっかり学校不信に追い込んだ苦い経験から救ったのは、進学したばかりの四谷二中だった。それもここに書いた。←click           上級生が生徒会中央委員会から顧問教師の退場を要求し、教師はそれを受け入れたのだ。僕の世界観は根底的に変わった。小さな時期から異議を唱えたり文句を言う、それが家族の地域の楽しみや誇りであるような社会、それが自由な社会である。
 気に入らない言論や人物はあらゆる権力的行為を駆使して徹底的に排除、「利権」を見せつけることで「安定的」多数派を形成する。その手口は、すでにfasismである。物が言えないと同時に、ものを言わないで済む「安逸のfasism」が少年たちに蔓延る。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...