「戦後、安保・三里塚・学生運動など大規模な民衆の闘いがあったが、それが引き継がれるどころか今は話題にもならない。なぜか。日本人は明治から“臣民”と呼ばれ、支配者の命令に従うだけの存在に甘んじてきたからだ。“臣民”は家来であり奴隷だ」 むのたけじ生活指導という言葉を、僕が始めて聞いたのは小学校高学年になってからである。全生研発足は1959年だから時期は一致している。生活指導それは、僕にとって巧妙な「臣民化教育」であった。
話し合いで決定すべきことは、忖度することに長けた良い子たちが、担任の意向を予め読んで班長会で決める。それ以降はいかに熱心に実行するかが競われる。 僅かに残された不参加という選択肢は予め封印されている。一般の生徒は下僕でしかない、従う以外を選べない。しかも嬉しげに全力を挙げて。
たとえ同じに見えても「民主的」教師と「権力的」教師がやるのは意味が違うという言説もあった。確かにそうである、前者の方が罪深いのである。
少なくとも僕が担任する学級では、参加・同調しない権利を明示し擁護したいと考えた。同調圧力を高めることは、理性に反するのである。「クラスの生徒が様々な行事や義務に参加しないことを保証する」その延長上にのみ、君が代で起立しない教員の権利がありうる。
六年の三学期はじめのことだ。「いよいよお終いだ。楽しい思い出を振り返って、お別れ会をやろう。いいだろう」と担任が、提案した。六年間クラス替えなし、多くは同じ校舎の幼稚園でも一緒、二年から六年までは同一担任である。濃密な人間関係がこのクラスにはあった。誰も何にも言わない。
「みんなでやろう、いいだろう。歌や寸劇やそれぞれ得意なものをやろう」と念を押す。
「やろう、やろう」と声が上がり始める。僕はこうした行事が苦手で、いつもの僕なら当日はサボって帰ってしまおう、そう決断していた。しかし「いいだろうと言う担任の問いかけは、イヤダと言うことを認めている」そう考えた。
「嫌です、僕はやりたくありません」クラス中がキョトンとした。そのあと小一時間、僕と担任は言い争った。
「みんながやりたいというのに、お前一人が反対するのか」「このクラスの六年間が楽しくなかったと言うのか」「多数決に反対するのか」・・・と担任は責め立てた。まさか「よい子」の僕が反対するとは予想しなかったと思う。第一多数決なんかしていない。
「楽しくなかった」「やりたい人が勝手にやればいい」「僕の他にも嫌がっているのがいる筈」と僕は応戦した。担任は、みんな・全体・協力を、怒りながら強調することで「いいだろう」には同意することしかできないことを白状した。
僕は「僕」を強調して不同意を貫いた。その時転校生としての二年半の様々な思いがよぎった。
第一は、いつも教室や遠足などの行事・集団行動で隅に隠れるようにしていた二人のことだった。誰も彼らを一緒のグループに入れようとはしない。発言しても拍手はまばら、運動会でも声援はまばら・・・。東京の子どもは冷たい、四年二学期からの転校生の僕はそう思った。卒業直前にまたそれを繰り返すのか。可哀想で見ていられない。僕は「おい、・・・お前たちも嫌だろう、何故怒らないんだ」と二人に言いたかった。
二つ目、これが僕が担任に「楽しくなかった」と噛みついた最大の理由である。小学生五年生になってクラスの座席が突然成績で分けられ、受験用の業者テストが常時行われるようになった。授業が減ってみんな教科別に「自由自在」やアンチョコを買った。クラスは点取りの雰囲気で暗くなった。
このクラスは非常に仲が良く、毎年同窓会が開かれるが、この時のことが度々話題になる。誰もが「あれは嫌だったね」「このクラス唯一の汚点ね」と顔を曇らせる。あれが「勤評なんだ」と言うと誰もが「そんな難しい問題なの」と深入りしたくない顔をする。60年を経てもかなりのトラウマになって思い出したくないのだ。
そして六年の二学期三学期は、通信簿の成績が明らかに操作された。僕の通信簿から突然「5」が消えて、「5」になるはずのない音楽だけが「5」になったのだ。「5」が一番たくさんあるのは僕であることを、担任から偶然聞いたのは僕の隣に座っていた担任のお気に入りの女の子。この女の子は、今僕の妻である。野球で遊んでばかりの僕が一番成績がいいと知って吃驚したという。受験用業者テストにはいつも千人中の席次とクラスでの席次がついていて、一学期も二学期もこの席次は大抵一位か二位で変わらなかった。楽しいわけがない。中学に入るとたちまち通信簿は元に戻った。「勤評」がクラスの成績別席順をもたらし、私立中学受験者の内申ために成績が弄られた可能性に気づいたのは高校に入ってからである。
うっすらと甦る記憶がある。その頃から始まった担任へのお中元やお歳暮である。それがクラスでも流行っていたらしく、母が「うちも何か持って行った方がいいのかしら、よそではみんな何か贈ってるそうよ」と呟いたのだ。僕は猛烈に反対してうちを飛び出し、父の事務所に隠れた。
担任と僕の長い言い争いが終わった後、いつもの草野球仲間がバツの悪そうな表情で一斉に寄ってきた。
「たわしごめんな、本当は俺も反対だったんだ」
「担任があんまり怒るから怖くて手を上げられなかった、ごめんね」
「いいんだ、どうせ、お別れ会も卒業式も出ない」翌日、母が学校に呼ばれた。
「こんなに非協力的な生徒は初めて」と言われて帰ってきた。心底担任が嫌いになった。これが都会の「明るい」臣民のクラスである。しかし僕はやっぱり子どもだった、周りから
「たわし、一緒にやろうよ。お前が入ってくれないとつまんないじゃないか」などと言われて妥協してしまった。大いに後悔した。誰からも拍手されない二人への眼差しは、あいも変わらぬものだったからだ。僕はこの時を除いてずっと、卒業式や関連する行事には出ていない。人気者と取り巻き連中の無邪気で不公平な明るさを、今も好きにはなれない。
後年、中国からの引揚げ生徒の一人が、昼休み平然と校外に出て昼食をとっていたのを思い出す。
「みんな昼休みは外に出ないんだ、決まりだ」と立ち塞がる教師を、彼は
「僕はタバコを吸ったりパチンコをしに外に行くんじゃない。そこをどいて下さい、決まりには理由がいる」と退けて堂々とラーメン屋に行くのだった。それを見てほかの生徒が真似をするわけではなかった。
追記 勤務評定は、教員と管理職 組合と教委や父母の問題として論じられることが多い。僕は鹿児島の田舎と東京四谷の小学校そして中学校で、勤務評定がどのように教室を変えるのかを体験した。それが「勤評」だったのだと認識したのは、高校に入って「教育問題」を社研で研究してからである。まだ、記憶が新鮮だったから、日付を追って確認するたびにいちいち腑に落ちた。
教育行政を歴史的に研究する時、当時子どもだった人々の証言を集めて欲しいと切に思う。「子どもに悪い影響を与える」と教員のストライキを非難する傾向が強いが、それは実態を捉えていない。子どもに悪い影響を与えたのは、勤評に反対して抵抗した教師ではない。勤評に屈した校長や教委が現場を無意味な「競争」に追い込んだからである。そして彼らが考案した幼稚な対策が僕らを苦しめた。
中学校では「勤評」に反対して集会に出かけるために授業を自習にする美術の先生が、前もってその理由を説明した。僕らは拍手した。自習になるのが嬉しかったからではない。
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