自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか

 洋学先生:「ヨーロッパ諸国はすでに自由、平等、博愛の三大原理を知っていながら、民主制を採用しない国が多いのはなぜか。道徳の原理に大いに反し、経済の理法に大いにそむいてまで、国家財政をむしばむ数十百万の常備軍をたくわえ、むなしい功名をあらそうために罪のない人民に殺しあいをさせる、それはなぜでしょうか。 文明の進歩におくれた一小国が、昂然としてアジアの端っこから立ちあがり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、要塞を破壊し、大砲を鋳つぶし、軍艦を商船にし、兵卒を人民にし、一心に道徳の学問をきわめ、工業の技術を研究し、純粋に哲学の子となったあかつきには、文明だとうぬぼれているヨーロッパ諸国の人々は、はたして心に恥じいらないでいられるでしょうか。もし彼らが頑迷凶悪で、心に恥じいらないだけでなく、こちらが軍備を撤廃したのにつけこんで、たけだけしくも侵略して来たとしで、こちらが身に寸鉄を帯びず、一発の弾丸をも持たずに、礼儀ただしく迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。 弱小国が強大国と交わるさいに、相手の万分の一にも足りない有形の腕力をふるうのは、まるで卵を岩にぶっつけるようなものです。相手は文明をうぬぼれています。してみれば彼らに、文明の本質である道義の心がないはずはないのです。それなら小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながらも実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。 もし、そうはしないで、こちらがもっぱら要塞をたのみ、剣と大砲をたのみ、軍勢をたのむならば、相手もまたその要塞をたのみ、その剣と大砲をたのみ、その軍勢をたのむから、要塞の堅固な方、剣や大砲の鋭利な方、軍勢の多い方が必ず勝つだけのこと、これは算数の理屈、明白きわまる理屈です。なにを苦しんで、この明白な理屈に反対しょうとするのですか」                                      中江兆民『三酔人経綸問答』 p14
  王工の元番長たちの生き方は、洋学先生の思想に底通している。それ以上かも知れない。なぜなら元番長らのほうが経験と省察において見事だったからである。彼らが揃って「ツッパリは辞めるよ、高校生にもなってかっこ悪いよ」と言った切っ掛けは何か。彼らの「サナギ」の時期は何時だったのだろうか。芋虫が蝶になる時、必ず「サナギ」の時期をとおる。キャベツの葉に取り付いて、外見上は一切の動きを停止しているが、内部では生物の質的再編成が繰り広げられている。その結果芋虫は、少しの連続性もなく蝶になる。同じ事が少年期から青年期にかけて人間にも起こっているのではないかという発達心理学的仮設がある。
 その「サナギ」の時期は一律ではなく、半日の場合も、中学や高校の大部分を要する事もある。これは僕の体験的実感。蝶はキャベツも芋虫のことも覚えていない。希に親や担任が、事後的に気付いて、冷や汗をかく事がある。外見上、「サナギ」化した少年は怠惰に見えて、親も担任も右往左往して対応を誤りがちだからである。サナギに説教やトレーニングは無意味、鳥が啄むのを警戒して、この成長に於ける大革命を見守るしかない。
  我々は、高名な知識人たちの哲学や思想を追うのではなく、我々の周りにいる隠れた賢人たちに学ぶ必要がある。彼らの世界観は、徹頭徹尾、経験に裏付けられているからである。

0 件のコメント:

コメントを投稿

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...